第3話 新しい名前と、はじまりの絆
――時は、少し遡る。
昼の光が降り注ぐ森の上空。
天城いろはは、森の上空を進みながら、眼下に広がる木々を見渡していた。
風が髪を揺らし、木漏れ日が地面にまだらな光を落としている。緑はどこまでも続き、上から見ただけでは人がいるかどうかさえ分かりにくい。
次元震が確認されたのは、この一帯だった。
通常とは異なる反応が観測された以上、何も起きていないと決めつけることはできない。いろはは周囲の魔力反応と地形を慎重に確かめながら、木々の隙間に目を凝らした。
「確かこの辺りなんだけど……」
小さく呟き、もう一度視線を巡らせる。
鳥の群れが飛び立った。揺れる枝の向こうに、一瞬だけ何かが動いた気がした。
「あっ、いた――」
見つけたと思い、意識を集中した次の瞬間。
いろはの表情が変わった。
「……え?」
最初に目へ飛び込んできたのは、予想していたよりもずっと小さな人影だった。
地上に立っているのは、腰まで届く長い髪をした子供。周囲の木々が大きいせいだけではない。どう見ても、まだ幼い。
「子供!?」
こんな森の奥に、一人で?
だが、すぐ近くには別の人影もあった。
少女の姿をした魔導師らしい存在。そして、その背後にそびえる巨大な白い竜。
「……ええっ?」
目を疑い、何度も確かめる。
(子供……女の子……それに、白い竜……?)
白竜は、ただの大型の生物というにはあまりにも堂々としていた。白い鱗が陽光を受け、広げた翼が木々の上に大きな影を落としている。
それなのに、そのそばにいる小さな子供は、怯えて逃げる様子もない。
何なのだろう、この組み合わせは。
次元震に巻き込まれた漂流者だろうか。それとも、この現象に関係する魔導師なのだろうか。
答えを考える前に、いろははもう一つの人影に気づいた。
少し離れた場所で、男の魔導師が杖を構えていた。
その先端は、子供たちへ向けられている。
「……!」
魔力が収束した。
次の瞬間、光の弾が放たれる。
――ヒュンッ!
攻撃は子供たちのすぐ脇を通り抜け、背後の樹木へ命中した。
――ドンッ!
木片が飛び散る。
いろはの背筋に冷たいものが走った。
(外した……?)
いや、違う。
男は慌てるどころか、相手の反応を確かめているように見える。
(違う……今のは威嚇――!)
「やめて……!」
いろはは速度を上げた。
しかし、まだ距離がある。木々の間を抜ける最短の進路を探すうちにも、男は再び杖を持ち上げていた。
二発目の魔力が集まり始める。
揺れる葉に視界を遮られないよう、いろはは子供たちの位置を追い続けた。杖の先に集まる光から、目を離せない。
今度こそ、子供たちへ当てるつもりだ。
「くっ、間に合わない……!」
思わず歯を食いしばる。
少しでも早く、あの間へ割って入らなければ。
――ところが。
地上の子供は逃げなかった。
小さな身体をまっすぐ男へ向け、左腕を構えている。
(何……あの装置?)
左手首には腕時計のような本体が固定され、その外側には円形の魔力ディスクが展開していた。陽光に混じって、青白い輪郭がはっきりと見える。
子供の右手に、一枚のカードが現れる。
そのカードを左腕のディスクへ運ぶ動作を、いろはは思わず目で追った。
カードが盤面へセットされる。
小さな唇が動いた。
(何か言った……?)
だが、ここからでは聞こえない。
男の杖が強く輝き、二発目の攻撃が放たれた。
「危ないっ!」
いろはが叫びかけた、その瞬間。
――キィンッ!
子供たちの前に、巨大な障壁が広がった。
青白い光が何層にも重なり、真正面から魔力弾を受け止める。
――ドォンッ!
空気が震え、周囲の枝が激しく揺れた。
障壁は、破れない。
(防いだ……!)
安堵したのも束の間、いろはは目を見開く。
受け止められた光が、消えていなかったのだ。
障壁の表面を走っていた魔力が、まるで鏡に映る光のように向きを変える。
「反射した!?」
次の瞬間、攻撃は逆向きに走った。
男が身を引こうとしたときには、もう遅い。
――ドカァッ!
跳ね返された魔力弾が直撃し、男の身体が後方へ吹き飛ぶ。そのまま地面へ倒れ、動かなくなった。
いろはは空中で一瞬、動きを止めた。
(一体……何が起こったの?)
地面に倒れた男。
その手前にいる、長い髪の子供と魔導師らしい少女。
そして、巨大な白竜。
どう見ても、普通の光景ではない。
いろはの視線は、自然と子供の左腕へ戻っていた。
(あの子が……今の攻撃を反射した……?)
あの装置が何なのか、まだ分からない。けれど、攻撃を防いだだけでなく、相手へ返したのは確かだった。
警戒しなければならない。
そう思う一方で、いろはは小さな子供から目を離せずにいた。
腰まで伸びた灰黒色の髪。周囲の様子を確かめるたび、少しだけ揺れる肩。大きな白竜のそばに立っていても、その小柄さは際立っている。
(なんだか……怯えた子犬みたい……)
ふと浮かんだ感想に、自分でも戸惑った。
そして、思わず口に出してしまう。
「か……可愛い……」
数秒後、はっとする。
「って、今はそれどころじゃない!」
可愛いかどうかは、後で考えればいい。
今は状況確認が先だ。
地上の子供たちが何かを話し、立ち去ろうと動き始めた。
「――!」
いろはは上空に留まったまま、大きく呼びかける。
「待ってください!」
*
「わふっ!?」
突然、上から声が降ってきた。
享司は驚いて顔を上げる。
昼の光を背に、一人の少女が空中に浮かんでいた。
その姿が視界へ入った瞬間、頭の中で何かが引っかかった。
(……ん?)
見覚えがある。
いや、見覚えがあるどころではない。
(……天城いろは?)
前世の記憶から、一つの作品名が浮かんだ。
『魔法少女アルカルいろは』。
以前見ていたアニメに登場する、あの天城いろはだ。
髪型も、身にまとった服装も、漂う雰囲気も。記憶の中の姿に、驚くほどよく似ている。
(どう見ても……天城いろはだ)
思わず二度見してしまう。
だが、すぐには結論を出せない。
自分が転生したのは、科学と魔法が共存するという世界。まだどんな世界なのか詳しく確かめたわけではない。
(でも……なんで?)
(似ているだけって可能性もある)
たとえ外見が同じでも、それだけでは決めつけられない。
向こうはまだ空中に留まり、こちらを慎重に観察していた。
そして、凜とした声が響く。
「ガーディアンです! 無駄な抵抗はやめて、指示に従ってください!」
(ガーディアン……)
享司の心が、ぴくりと動いた。
そこまで同じなのか。
期待が膨らみかけるが、まだ確定ではない。
(でも、まだ確定じゃない)
それよりも、現在の状況を考えるべきだ。
相手がガーディアンを名乗る以上、無闇に揉めるのは得策ではない。
享司は左腕へ目を落とした。
SIAの本体は左手首に固定されている。その外側には、セレスティアとアリアの召喚を維持する魔力ディスクが展開したままだ。
(こいつは、さっき完成させたばかりの急造品だからな……)
フォースリフレクトは正常に機能した。
だが、それはたった一度の確認にすぎない。
耐久性も、連続使用時の安定性も、まだ十分に試していない。相手の実力も分からない以上、ここで戦闘を選ぶ理由はなかった。
(それに、こっちから敵対する理由もない)
倒れている男からは攻撃を受けた。だから防御した。
しかし、目の前の少女はまだ攻撃してきていない。
(ガーディアンと揉めるのは得策じゃないな)
享司は素直に両手を上げた。
「分かりました。こちらは攻撃する意思はありませんので、指示に従います」
声はできるだけ落ち着かせた。
上げた両手を、そのまま保つ。左腕の外側では魔力ディスクが展開していたが、新しいカードを取り出すことはしなかった。少女の返事を待つ。
少女は、享司の手と周囲の様子を確かめる。倒れた男、アリア、セレスティア、そして左腕の装置。どれにも注意を向けながら、ようやく答えた。
「御協力ありがとうございます」
それから、彼女は地上へ降りてきた。
近づくほど、記憶との一致がはっきりしてくる。
(やっぱり似てる……)
いや、かなり似ている。
(でも、まだ決めつけるのは早い)
享司は期待を胸の奥へ押し込み、少女の次の言葉を待った。
少女は目の前で姿勢を整えた。
「改めまして、私は天城いろはです。ガーディアンとしてAEGISに所属しています」
――ぴたり。
享司の思考が止まった。
天城いろは。
ガーディアン。
AEGIS。
全部、揃った。
見た目だけなら、似ていると言えたかもしれない。けれど、本人が口にした名前と所属まで同じだった。享司は、目の前の少女をもう一度見つめた。
(ここは――『魔法少女アルカルいろは』の世界線だ)
*
その瞬間。
享司の頭の中で、前世の自分が飛び上がった。
今の姿ではない。転生前の金城享司。
しかも、すっかりデフォルメされた小さな姿になっている。
「ナールほど東芝♪」
腕を組み、こくこくと大きく頷く。
「これで納得したよ」
そうか、そういうことか。
科学と魔法が共存する世界と聞いた時点では、まさかと思っていた。
それが、いま目の前ではっきり答え合わせされたのだ。
前世の享司が、にやりと笑う。
「あのにゃろうまたミスりやがったな♪」
転生する際のことを思い出す。
何がどうなって、こんな世界に来たのかは分からない。だが、少なくとも自分にとって、とんでもなく面白いことになっている。
そして――ついに喜びが爆発した。
「キタァァァァァァァァァ!!」
両手を突き上げ、飛び跳ねる。
「いやっほぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
走る。跳ぶ。くるりと回る。
前世の自分は、心象世界の中を縦横無尽に駆け回った。
もちろん、外から見れば、享司はその場で静かに立っているだけだ。
頭の中は大騒ぎなのに、現実の身体はほとんど動いていない。
――その落差に、本人はまったく気づいていなかった。
「……あの?」
遠くから声が聞こえた。
「ん?」
心象世界で飛び跳ねる享司が足を止める。
「大丈夫ですか?」
「――っ!」
意識が一気に現実へ戻る。
「わふっ!?」
目の前で、いろはが少し不思議そうに顔を覗き込んでいた。
近い。
ついさっきまで夢中で喜んでいたので、声をかけられていることに気づかなかったらしい。
「あっ……はい、大丈夫です」
慌てて頷く。
「そうですか……?」
いろはは少し心配そうだった。
(危ない危ない……)
あまりにも嬉しくて、完全に意識が飛んでいた。
享司はどうにか表情を整える。
まだ心の奥で祭りが続いている気もしたが、今は抑え込むしかない。
*
「ところで、お名前を伺ってもいいですか?」
いろはが、ようやく問いかけた。
「あっ、ご丁寧にどうもありがとうございます。自分は……」
そこまで言いかけて、享司は口を閉じた。
金城享司。
それが自分の名前だ。
しかし、その名は前世のものでもある。この世界で行動するなら、別の名前を名乗った方が何かと都合がいい。
(……そうだな)
名前を変えておこう。
けれど、その前に伝えておかなければならない相手がいる。
傍らのアリアをちらりと見る。
いろはに聞こえないよう、享司は念話を送った。
『アリア』
『はい、なんでしょう?』
すぐに明るい返事が返ってきた。
『今から名前を変える』
『お名前を、ですか?』
驚いたような気配が伝わる。
『うん。深い意味はないよ。その方が動きやすいからね。理由は後で話すよ』
『分かりました。後で理由を聞かせてくださいね』
アリアはそれ以上、問い詰めようとはしなかった。
『それで、新しい名前は――安藤はち』
『安藤……はち……』
ゆっくりと繰り返し、記憶へ刻み込むように確かめる。
そして、嬉しそうな声が戻ってきた。
『分かりました、はちちゃん♪』
(……ちゃん付けなのね)
少し引っかかったが、名前を受け入れてくれたことはありがたい。
念話を終え、享司――いや、はちは、いろはへ向き直った。
「自分は――安藤はちです」
新しい名前を、はっきりと口にする。
言い終えたあと、その響きが少しだけ耳に残った。アリアへ念話で伝えたときとは違う。初めて会った相手に、この名前で覚えてもらうのだ。
いろはの表情が自然と和らいだ。
「はちちゃん、ですね」
(……あれ?)
また「ちゃん」だ。
アリアにも可愛いと言われたし、きっと小柄で幼く見えるのだろう。
だが、だからといって、いろはへ誤解を与えたままなのも落ち着かない。
「あの〜」
「んっ、な〜に? はちちゃん」
いろはが優しく微笑む。
はちは少し苦笑いを浮かべた。
「自分、男です」
「ふえ?」
いろはの動きが止まった。
一拍。
二拍。
「えっ、え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! そうなの!?」
森の中に、驚きの声が響いた。
はちは思わず肩をすくめる。
「そ、そんなに驚かなくても……」
声の勢いに、表情が引きつった。
アリアからも可愛いと言われたが、ここまで驚かれると、さすがに複雑だ。
「アリアから可愛いとは聞いてたけど……そんなに可愛らしい姿なのかな……?」
自分の正確な姿は、まだ確かめていない。
見慣れた鏡が森にあるわけでもなく、転生してからは装置を作ったり、精霊を召喚したり、襲われたりと、落ち着く暇もなかった。
だから、相手がなぜここまで驚くのか、はちにはよく分からない。
ただ、あまりに大きな反応をされて、胸の中が少しだけしょんぼりしてしまった。
目元に、じわりと涙が浮かぶ。
はちは、困ったようにいろはを見上げた。
「はうっ」
「はうっ」
いろはとアリアが、同時に妙な声を出した。
今度は、はちの方が驚く番だった。
「……え?」
二人を交互に見る。
どちらも固まっている。
いろはは胸の前で手をぎゅっと握り、アリアは唇をきゅっと結んでいた。
(2人ともクリティカルヒット! 効果は抜群だ!)
そんなツッコミが頭の中に浮かぶ。
けれど、笑っていられたのは、ほんのわずかな間だけだった。
二人の肩が、小刻みに震え始めたからだ。
ぷるぷる。
ぷるぷるぷる……。
「……?」
はちは首を傾げた。
二人の視線は、まったくこちらから離れない。
笑っているのか、泣くのを我慢しているのか、判断できなかった。
「……え?」
嫌な予感がした。
一歩、後ずさる。
「ちょ、ちょっと……?」
二人の視線が、その動きを追う。
そして、ついに限界が来た。
*
――ぎゅううっ!
「わふっ!?」
左右から、同時に抱きつかれた。
いろはが頭を撫で、アリアが嬉しそうに頬ずりしてくる。
はちは二人に挟まれ、身動きが取れなくなった。
右を向いても、左を向いても、目が合うのは嬉しそうな顔ばかりだ。声を出して抗議する以外に、できることが思いつかなかった。
「もうっ! なんでこんなに可愛らしいんですか!」
アリアの声は、先ほどまでと比べものにならないほど弾んでいた。
「いや、そんなこと自分に言われても……!」
何とか顔を動かすが、左右からの抱擁はびくともしない。
「その可愛らしさで、私たちを尊死させたいんですか!?」
「そんなつもりありませんよ!?」
はちは必死に反論する。
すると、いろはまで真剣な顔で、こくこくと頷いていた。
「いや、なんでいろはさんまで頷いてるんですか!?」
「だって……これは仕方ないと思います」
「何がですか!?」
「アリアさんの言っていること、私も分かります!」
「分かっちゃうんですか!?」
いろはは、はちの顔を見ながら続けた。
「だって、さっきみたいに涙目で見上げられたら……あれは反則です!」
「反則!?」
一体、どんな規則に違反したというのだろう。
はちには、さっぱり分からない。
「そうですよ! しかも、はちちゃんは自分がどれだけ可愛らしいのか分かってないんです!」
アリアが勢いよく頷く。
「そうなんです! そこも含めて可愛いんです!」
「いろはさんまで何言ってるんですか!?」
「だって可愛いものは可愛いんです!」
「そうです! これは仕方ありません!」
「二人して開き直った!?」
ついさっき会ったばかりの二人なのに、この件についてだけは恐ろしく息が合っていた。
はちはどうにか身体を捻り、二人の間から顔を出す。
(助けて……!)
その視線が向かった先には、頼もしい白竜の姿が――。
……なかった。
いや、いた。
確かに、セレスティアはそこにいた。
ただし、こちらへ背中を向けていた。
大きな白い背中が、妙に寂しそうに丸まっている。
こちらの騒がしさから少し離れた場所で、白竜はずっと待っていた。その姿を見た途端、助けてほしいという気持ちより先に、申し訳なさが込み上げてきた。
前脚は地面をゆっくりとなぞっていた。
の。
のの。
ののの。
「…………」
セレスティアは、地面に「の」を書き続けていた。
しかも、涙目だ。
(……あ)
はちは、ようやく気づいた。
(そういえば……俺、セレスティアを召喚してから一度もまともに構ってあげてない……)
最初に呼んだのはセレスティアだった。
ちゃんと現れてくれたことを喜びはした。けれど、その直後にアリアを召喚した。
アリアと話しているうちに犯罪魔導師に襲われて、フォースリフレクトを使って、今度はいろはが現れて。
そして現在、左右から抱きつかれている。
(その間、ずっと一緒にいたんだよな……)
セレスティアは何も言わず、近くで待ってくれていた。
それなのに、自分は振り向いてあげることさえしなかった。
(我慢の限界になったんだ……)
地面に、新しい「の」が増える。
(……うん)
その大きな背中を見ていると、胸の奥がちくりとした。
(これは俺が悪い)
今さら助けを求めようとした自分が、少し恥ずかしい。
(助けを求められる立場じゃない)
アリアといろはは、相変わらず嬉しそうに抱きしめてくる。
はちは抵抗する手を止めた。
(諦めよう……)
そして、森に向かって盛大に叫んだ。
「NO〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
その声が、昼の森へ響き渡る。
*
――只今、抱きつかれ中。
*
しばらくして。
ようやく解放されたはちは、ふらふらと足元を確かめた。
「はちちゃん、大丈夫?」
いろはが心配そうに屈み込む。
「大丈夫……です……」
答える声にも、ほとんど力がない。
気づけば、いろはとアリアの二人は、すっかり仲良くなっていたようだ。
これまで面識もなかったはずなのに、不思議なものだ。
「ご、ごめんなさい、はちちゃん……」
アリアも申し訳なさそうに眉を下げた。
はちは小さく息をつき、無理に笑ってみせる。
だが、いま考えるべきは自分の疲れではない。
少し離れた場所へ、視線を向けた。
セレスティアは、まだ背中を向けている。
の。
のの。
ののの。
前脚が止まらない。
(……まだ、怒ってるよね)
はちはその姿をじっと見つめた。
これは、自分が悪い。
そう思うと、もう見て見ぬふりはできなかった。
*
その後、いろはから同行を提案された。
状況を確認するためにも、ガーディアンとして一緒に来てほしいらしい。
はちは少し考えてから、素直に頷いた。
知らない世界に来たばかりなのだ。話を聞ける場所があるなら、そこへ行くのは悪くない。
ただし、そのまま出発するわけにはいかなかった。
「……ちょっと待ってください」
いろはにそう告げ、はちはセレスティアの方へ歩いていった。
白竜はまだ、地面を見つめている。
大きな背中がこちらへ向けられ、静かな呼吸に合わせてわずかに上下していた。
「セレスティア」
声をかける。
反応はない。
前脚だけが動く。
の。
のの。
「……そっか」
はちは無理に振り向かせようとはせず、その隣へ座った。
地面に描かれた「の」の字が、近くで見るといくつも並んでいる。
悲しいのか、拗ねているのか。
正確な言葉は分からない。
それでも、今セレスティアがどんな気持ちでいるのかは、何となく伝わってきた。
「ごめん」
白竜は、こちらを向かなかった。
はちは急かさずに続ける。
「召喚してから、ずっと一緒にいたのに……全然構ってあげられなかったね」
セレスティアの前脚が、地面をもう一度なぞる。
「アリアを召喚して、そのまま色々あって……」
説明しようとして、はちは口を閉じた。
確かに、いろいろなことが起きた。
急に襲われたし、知らない人にも声をかけられた。自分にも余裕がなかったのは事実だ。
でも、それは言い訳にしかならない。
「でも、それはセレスティアには関係ないもんね」
白く大きな身体は、まだ背を向けたままだった。
「せっかく自分が呼んだのに、ずっと放ったらかしにしてた」
精霊カードを受け取ったときの、アテナの言葉が胸をよぎる。
精霊たちは道具ではない。それぞれに意思や感情を持つ存在なのだ、と。
(大切にするって、約束したのにな……)
召喚に成功したことばかり喜んで、肝心の相手の気持ちを見ていなかった。
はちはセレスティアを見た。
「ごめんね、セレスティア」
返事はなかった。
の。
のの。
ののの。
はちは、その隣に座ったまま待った。
沈黙は少し長く感じられたが、立ち上がることはしなかった。
自分がちゃんと向き合うと決めたのだから、相手の気が済むまでそばにいよう。
風が通り過ぎ、足元の草が揺れる。
はちは言葉を重ねず、隣にいる白竜の呼吸へ耳を澄ませた。返事を急いで求めるより、今はここにいることを伝えたかった。
地面に伸びる二つの影が、木漏れ日の中で重なった。
そのとき。
――ぴたり。
セレスティアの前脚が止まった。
はちはすぐに顔を上げた。
白竜が、ちらりとこちらを見ている。
目が合う。
……ぷいっ。
すぐに顔を背けられた。
「セレスティア」
はちは、もう一度名前を呼ぶ。
「これからはちゃんと構ってあげるから」
少しずつ、手を差し出した。
触れたい気持ちはある。けれど、無理に頭を撫でて、これで仲直りだと決めつけるわけにはいかない。
「だから……仲直りしてくれる?」
差し出した手を、押しつけたりはしなかった。
ただ、待つ。
セレスティアが、ゆっくりとはちへ顔を向けた。
それから、目の前の小さな手を見つめる。
しばらく、どちらも動かない。
――やがて。
大きな頭が、ゆっくり近づいてきた。
すりっ。
セレスティアが、自分からはちの手へ頭を押しつけた。
その感触に、はちの表情がほっと和らぐ。
手のひらに、大きな頭の重みがそっと預けられた。押し返さずに受け止めると、セレスティアはその手から離れようとしない。はちは、ようやく肩の力を抜いた。
「ありがとう」
大きな頭を受け止め、優しく撫で始めた。
「よしよし」
セレスティアが、さらに頭を寄せてくる。
今度は、さっきまでの拗ねた様子が嘘のようだった。
はちは指先をゆっくり動かし、白い鱗の上を丁寧に撫でる。
「本当にごめんね」
小さな声で、もう一度謝った。
「これからはちゃんとセレスティアのことも構ってあげるから」
ぐいぐい。
手のひらへ、大きな頭が押しつけられる。
「分かった、分かったから」
はちは少し笑った。
「ちゃんと撫でるって」
セレスティアは、ようやくこちらを向いてくれた。
だからこそ、途中で急いで切り上げることはしなかった。
何度も頭を撫で、優しく声をかける。
白竜は満足そうに目を細めながら、はちのそばを離れようとしない。
「もういい?」
セレスティアが、じっとはちを見つめる。
「……まだ?」
ぺろっ。
今度は頬を舐められた。
「わっ!」
驚いたはちが顔を拭う間にも、再び頭をすり寄せられる。
どうやら、まだ撫でてほしいらしい。
「仲直り……でいいんだよね?」
セレスティアは嬉しそうに目を細めた。
その表情を見て、はちも自然に微笑む。
「良い子だ……」
少し後ろで、いろはが小さく呟いた。
「…………可愛い」
隣のアリアも、うっとりと二人を見つめている。
「…………可愛らしいです」
はちは、ぴたりと手を止めた。
二人の声を聞いた瞬間、先ほどの抱擁が脳裏に蘇ったのだ。
ゆっくりと振り返る。
「二人とも、今は来ないでくださいね?」
「「はい」」
あまりにも綺麗に揃った返事だった。
はちは念のため、二人の手が伸びてこないことを確かめる。
そして、セレスティアへ向き直った。
白竜が、もう一度はちの手に頭を押しつけてくる。
「はいはい。今日はセレスティアの番ね」
昼の光が降り注ぐ森の中。
はちは、白竜が満足するまで、ゆっくりとその頭を撫で続けた。
――第3話 END――




