第48話 本当の闇
大きな扉を、私は見上げていました。
厚い金属で作られているのでしょう。通路の先を塞ぐその扉は、研究所の中でも、ひときわ頑丈そうに見えました。
ヘルカイザーさんに案内され、ここまで来たものの、この先に何があるのかは、まだ聞いていません。
隣には、リュミナとヴェルシア。
二人も、目の前の扉へ視線を向けていました。
ゴゴゴ、と低い音が響きます。
重厚な扉が、左右へ動き始めました。
わずかに開いた隙間から、その向こうの空間が見えてきます。
私は、足を止めたまま、その奥を見つめました。
やがて、重い金属音とともに、扉が開き切りました。
「さて……行きましょうか?」
ヘルカイザーさんが、こちらを振り向きます。
私達は、軽く頷きました。
再び彼のあとへ続き、開いた扉を通り抜け、さらに奥へ進むと、彼が足を止めました。
「着きましたよ♪」
私も、周囲を見渡します。
何も、ありませんでした。
あるのは、広い空間と、それを取り囲む頑丈そうな壁。
研究所の奥で、何を見せられるのだろうと考えていた私には、その何もなさが、かえって不思議でした。
「ここは、どこなんだよ?」
リュミナが尋ねました。
私も同じ疑問を抱いていましたので、そのまま返事を待ちます。
「ここは、訓練所ですよ♪」
なるほど。
そう言われてみれば、納得できる広さでした。
周囲に余計な設備がないのも、訓練を行う場所であれば、都合がよいのでしょう。
「あなた達には、ここで、自分と模擬戦をしてもらいます」
「……ほう」
私は、小さく頷きました。
これなら、話が分かります。
私は先ほど、彼のもとで働くことに対して、二つの疑問を伝えました。
魔道を教えられるのか。
そして、彼自身が、私の認める強さを持っているのか。
前の疑問には、レティシアさんという方の名前が示されました。
ですが、後の疑問については、まだ答えを得ていません。
身体が完成してからにしましょう、と言われただけでした。
実際に戦えば、分かる。
少なくとも、その考え方に異論はありませんでした。
消えた私達を再生した技術が素晴らしいことと、戦いで強いかどうかは、別の話です。
もし、私達よりも弱いのでしたら、力を得るために彼のもとで働くという提案は、なかったことになります。
そのときの私は、そう考えていました。
このあと自分が何を知るのか、まるで分かっていなかったのです。
「さて……模擬戦を始める前に、あなた達へ質問させていただきます」
ヘルカイザーさんが、静かに言いました。
私は、彼へ目を向けます。
「あなた達は、なぜ、力を求めるのですか?」
今さら、何を尋ねるのでしょう。
私達の願いを知っていると、彼自身が話していたではありませんか。
それを叶えるために、身体を与えたのだとも。
私が答えるより先に、リュミナが口を開きました。
「決まっているだろ。僕達は、帰りたいんだ」
迷いのない声でした。
「混沌と破壊の、安らかな闇に」
そうです。
私達が求めていたのは、それでした。
すべてを破壊し、あの闇へ帰る。
そのために力を求め、魂の渇きを満たそうとしてきたのです。
ただ、一つだけ。
以前と同じ言葉を聞いているのに、胸へ引っ掛かるものがありました。
今の私達は、もう、闇の欠片ではない。
彼は、そう説明していました。
かつての身体は消え、別の仕組みによって、私達は再び形を得た。
では、今の私達が帰るとは、どういうことなのでしょう。
考えかけたものの、答えが出る前に、彼が頷きました。
「なるほど。では、あなた達は、すべてを破壊する力が欲しいのですか?」
「当たり前だ」
リュミナが、即座に答えます。
ヴェルシアも、彼へ鋭い視線を向けました。
「うぬは、一体、何がしたいのだ?」
私も、同じことを思いました。
こちらが願いを答えるたびに、言葉を重ねて確認する。
ただ聞きたいだけには、見えません。
私達の返事を、どこへ導こうとしているのでしょう。
ヘルカイザーさんは、静かに微笑みました。
「なら、その場にいる人も破壊し、最後の一人になるまで、破壊するのですね?」
「……なっ!?」
私達は、同時に声を上げていました。
誰も、そんなことまでは言っていません。
私は思わず、彼を睨みつけました。
ですが、彼の表情は変わりませんでした。
「あなた達が言っている力は、そういうことですよ」
ヘルカイザーさんは、私達をゆっくりと見渡しました。
「一つ、アドバイスしましょう。破壊するなら、意味ある破壊をしなさい」
穏やかな声です。
「意味なき破壊は、つまらないものです」
彼は、さらに続けました。
「それに……あなた達の言う闇は、安らかな闇の時点で、闇ではないです」
今度は、はっきりと苛立ちを覚えました。
私達が求めたものを、否定した。
帰りたいと願っていた場所を、闇ではないと言った。
この方は、一体、何を根拠に、そのようなことを言うのでしょう。
「何だと!」
リュミナが、声を荒らげました。
今にも飛び掛かりそうな勢いです。
ですが、どうにか、その場に踏みとどまっていました。
ヴェルシアも、黙ったまま彼を見据えています。
「あなた達は、本当の闇を知らない……」
彼は、静かに告げました。
「今から、それを教えてあげましょう」
どういう意味かと尋ねる間も、ありませんでした。
パチン、と乾いた音がしました。
その瞬間、訓練所が消えたのです。
壁も、床も、目の前にいた白い姿も。
すべてが、漆黒に覆われました。
光が弱くなったのではありません。
見えていたものが、何もかも、なくなったのです。
私は、周囲を見ようとしました。
しかし、目を向ける先が、すべて同じでした。
暗い。
それだけしか、分からない。
すぐ隣に、二人がいたはずです。
そちらを向いたつもりなのに、何も見えません。
自分の手を確かめようとしても、その輪郭さえありませんでした。
そして、音も消えていました。
声も、足音も、周囲の物音も。
自分が動いているのか、そこに留まっているのかさえ、確かめられません。
冷たい。
そう思ったのを覚えています。
けれど、それが肌で感じた冷たさなのか、この何もなさを前にした感覚なのか、私には区別できませんでした。
触れようとするものも、触れたと分かるものもない。
自分の身体さえ、遠くなっていくようでした。
ここは、どこなのでしょう。
私達が求めていた闇とは、違う。
混沌と破壊に満ちた、あの安らかさはありません。
ただ、何もない。
そのことが、これほど心細いとは知りませんでした。
突然、頭の奥へ鋭い痛みが走りました。
「あ……っ!」
反射的に、頭を押さえようとします。
ですが、自分の頭がどこにあるのか、その感覚さえ曖昧でした。
動かしたはずの手が、届いたのか分からない。
それなのに、痛みだけは、はっきりとしています。
何かが、入り込んでくる。
声のようなもの。
感情のようなもの。
一つを受け止めるより先に、次の一つが、内側へ押し寄せました。
『これは、人々の絶望や、悲鳴や、恨み……』
ヘルカイザーさんの声でした。
どこにいるのかは分かりません。
姿の見えないまま、説明だけが届きます。
『あらゆる人の欲望が入り混じった、マイナスエネルギーです』
これが、そうなのですか。
私達を再生するためにも使ったという、あのエネルギー。
苦しい。
助けて。
許さない。
絶対に、手に入れてやる。
誰かの言葉を、耳で聞いているのではありませんでした。
その言葉が生まれる感情ごと、頭の中へ押し込まれてくるのです。
恐怖の次には、憎しみがある。
怒りに押されて、絶望が流れ込む。
しがみつこうとする欲望へ、別の誰かの恨みが重なる。
一つとして、終わりを待ってくれませんでした。
こちらが理解したかどうかも、受け入れられるかどうかも関係なく、次から次へと入ってくる。
気付けば、自分の考えを探すことさえ難しくなっていました。
私は、耐えようとしました。
いま感じているものは、私自身の感情ではない。
そう区別しようとしても、押し寄せる力は弱まりません。
誰かの恐怖が、自分の恐怖になっていく。
逃れたいという自分の気持ちも、その流れの中へ巻き込まれてしまう。
普通の人間が、これを受け続けたら。
考えた瞬間、答えが分かりました。
精神が、耐えられない。
ここに留まり続ければ、心が削られてしまう。
終わりがなければ、ずっと、この苦痛が続く。
リュミナは、どうなっているのでしょう。
ヴェルシアは。
姿が見えません。
確かめる声も、返ってきません。
自分が一人なのか、二人も同じところにいるのか、それさえ分からない。
あれほど求めていた闇にいるはずなのに、帰りたいという気持ちは、どこにもありませんでした。
ここから出たい。
先ほどまで立っていた訓練所へ、戻りたい。
壁のある場所へ。
二人の顔が見え、自分の手の位置が分かる場所へ。
「……やめ……」
声になったのかも、分かりませんでした。
それでも、もう、耐えられません。
見えないことも、聞こえないことも、この感情が止まらないことも。
私が求めていたものとは違うのだと叫ぶ余裕さえ、なくなっていました。
「助けてください……」
気付けば、そう言っていました。
力を求めていた私が。
彼の強さを認めていないと告げた、その私が。
ただ、ここから出してほしいと願っていました。
『……やはり、無理でしたか』
少し、残念そうな声でした。
そして、再び、指を鳴らす音がしたのです。
◇ ◇ ◇
光が、戻ってきました。
訓練所の壁。
広い床。
目の前にいる、ヘルカイザーさん。
それらが見えたとき、私は、ようやく自分が戻ったのだと理解しました。
「いかがですか?」
彼は、笑顔で尋ねました。
ですが、すぐに答えることなど、できませんでした。
「はぁ……はぁ……っ」
息が、ひどく乱れています。
身体が重い。
長く激しい戦いを続けたあとでもないのに、立っているだけで力を使ってしまうようでした。
隣を見れば、リュミナもヴェルシアも、同じように息を切らしていました。
ここにいる。
まず、そのことに安堵しました。
二人の姿を確かめられるというだけで、あの何も見えない場所とは、まるで違いました。
「だらしないですね……」
ヘルカイザーさんが、呟きました。
「こんなことでは、すべてを破壊する力は、手に入りませんよ?」
私は、歯を食いしばりました。
「お、お前は……どうなんだよ!?」
リュミナが、息を切らしながら尋ねました。
「あんな場所にいて、お前は平気なのか!?」
私も、ヘルカイザーさんを見ました。
白い小さな身体は、先ほどまでと変わりません。
翼も、表情も、そのままです。
こちらのように、呼吸を整えようとする様子もありませんでした。
彼は、少し考えるような仕草をしました。
「久々に来ましたが……やはり、物足りませんね」
聞き間違えたのかと、思いました。
物足りない。
あれが。
自分の感覚さえ失いかけ、助けを求めるしかなかった、あの場所が。
リュミナも、ヴェルシアも、驚きを隠せずにいました。
ですが、彼は、何でもない感想を口にしたような顔をしています。
私達と同じものを知っているはずなのに、受け止め方が、まるで違う。
「やはり、マイナスエネルギーは、新鮮なのが一番ですね……」
さらに続いた言葉に、私は、言葉を失いました。
まるで、食べ物の好みでも話しているようです。
あの感情の奔流を、新鮮さで語る。
説明を聞いているのに、この方のことが、かえって分からなくなっていきました。
私には、理解できませんでした。
「あなたは……一体、何者なんですか?」
どうしても、聞かずにはいられませんでした。
あの小さな姿からは、何も想像できません。
最初に目覚めたときには、ふざけた生き物だと思ったくらいです。
それなのに、なぜ、あれほどの闇を平然と受け止められるのでしょう。
「本当……失礼な方ですね。これでも、人間なのに……」
彼は、少し呆れたように答えました。
ですから、思考を読まないでください。
反射的にそう考えたあとで、私は、いま聞いた言葉に引っ掛かりました。
……人間?
白い身体へ、目を向けます。
背中の翼も、確かめました。
やはり、どう見ても、小さな竜です。
「嘘だ!」
リュミナが、彼を指さして叫びました。
「お前が、人間であるはずがない!」
私も、同じことを思っていました。
先ほどの闇についても、この姿についても、納得できる説明が欲しい。
ですが、彼は小さくため息をつくだけでした。
「嘘も何も、真実ですから、仕方がないでしょう? そもそも、ドラゴンが喋ること自体、不自然でしょう?」
……そうなのでしょうか。
話せることが、そのまま人間である証明になるのかどうか。
今の説明で納得してよいのか、私は考え込んでしまいました。
闇の中から戻ったばかりの頭で、その理屈まで整理するのは、少し難しかったのです。
そのとき、女性の声がしました。
「ヘルカイザー……もう、これくらいにしたら?」
私は、声のした方を向きました。
一人の女性が、そこにいました。
ヘルカイザーさんは、その姿を認めると、小さく頷きます。
「それも、そうですねぇ。レティシアさん♪」
その名前には、覚えがありました。
先ほど、魔法を教えてくださる方として、彼が挙げていた名前です。
あの方が、そうなのですか。
私は、興味を引かれ、彼女を見つめました。
すると、今度は、別の声が響きました。
「ヘルー! 仕事が終わったなら、遊ぼうよー!」
そちらを見ると、リュミナによく似た顔立ちの女性がいました。
彼を呼ぶ声には、ためらいがありません。
こちらが何者なのか理解できずにいた相手へ、気軽に遊びを持ち掛けている。
その光景に、私は少し戸惑いました。
「まだ、話が終わっていないから、もう少し待ってくださいね。ミリア♪」
ヘルカイザーさんも、穏やかに返事をします。
ミリアさん。
私は、その名前を聞き留めました。
「さて……話が逸れましたね?」
彼が、私達へ向き直りました。
「模擬戦を、開始しましょうか?」
私は、息を整えました。
本来は、それが目的でした。
彼の実力を確かめ、もとで働くかどうかを判断する。
訓練所へ入ったときには、そう考えていました。
ですが、今の私達は、闇に触れただけで消耗しています。
彼の方は、何も変わっていない。
果たして、戦えるのでしょうか。
そういう疑問がなかったといえば、嘘になります。
それでも、確かめなければなりませんでした。
闇に耐えられることは、分かりました。
けれど、力量を認めるという問いには、まだ、自分で答えを出していません。
答えを得ないまま、ただ従うつもりには、なれませんでした。
「やります……」
私は、告げました。
ヘルカイザーさんが、小さく頷きます。
「分かりました。他の二人は、どうしますか?」
「やる!」
二人の返事が、重なりました。
どうやら、私だけではないようです。
リュミナの目には、強い闘志が戻っていました。
ヴェルシアも、彼から視線を外しません。
「では……三人まとめて、掛かってきてください♪」
黒い翼が、大きく開かれました。
私達三人を、一度に。
随分と、余裕のある言い方です。
その態度を見て、リュミナが一歩、前へ出ました。
「その台詞……後悔させてやる!」
床を蹴る音が、訓練所へ響きます。
彼女は、一気に距離を詰めました。
速い。
先ほどの消耗が残っていても、その動きには、相手を捉えようとする勢いがありました。
しかし、ヘルカイザーさんは、ほんの少し身体を傾けただけでした。
攻撃が、空を切ります。
避けるために大きく飛び退くことさえ、しませんでした。
「なかなか良いスピードですが……単純過ぎですよ♪」
楽しそうな声でした。
私は、その動きを見ていました。
リュミナの速さを、目で追えている。
しかも、必要なだけしか動いていない。
確かに、ただの技術者というわけではないようです。
ですが、彼女だけを見ていてよいのでしょうか。
「よそ見をしている暇が、あるのですか?」
彼が、こちらへ顔を向けました。
そのときには、私の魔力は、すでに収束していました。
リュミナへ意識を向けた、その間。
そこへ、攻撃を重ねます。
「ブラストファイヤー!」
砲撃が、放たれました。
光が彼のいた場所へ達し、激しい爆発が起こります。
爆煙が広がり、小さな白い姿を包み込みました。
私は、杖を構えたまま、その中心を見つめました。
手応えがあると判断するには、まだ早い。
彼は、先ほどの闇から戻っても、息一つ乱していませんでした。
簡単に決着がついたと、考えることはできなかったのです。
「やったのか?」
ヴェルシアが尋ねます。
私は、小さく首を横へ振りました。
「分かりませんが……」
その先を言い終える前に、背後から声がしました。
「びっくりしましたねぇ♪」
私達は、反射的に振り向きました。
ヘルカイザーさんが、そこにいました。
無傷でした。
白い身体には、砲撃を受けた痕跡がありません。
先ほどと同じように浮かび、感心した顔で、何度も頷いています。
「なるほど、なるほど。リュミナさんは囮で、本命は、そちらでしたか♪」
意図は、理解されていたようです。
ですが、では、いまの爆発は、何だったのでしょう。
私は、爆煙の方へ目を戻しました。
そこには、一人の男性が倒れていました。
服も顔も煤だらけで、ところどころから、細い煙が上がっています。
見覚えのない方です。
いつ、そこへ来たのでしょう。
先ほどまで、あの場所には、ヘルカイザーさんがいたはずなのですが。
男性が、突然、勢いよく起き上がりました。
「ヘルさん! ひどいよ! また、身代わりにするなんて!」
……身代わり。
その言葉で、ようやく、何が起きたか分かりました。
私が撃った相手は、彼に置き換えられていたのですか。
しかも、また、と言いました。
驚く私をよそに、ヘルカイザーさんは、にっこりと笑いました。
「黙りなさい♪」
次の瞬間、鈍い音が響きました。
彼の一撃を受け、男性の身体が大きく吹き飛びます。
床へ落ちると、そのままうずくまってしまいました。
「天屋物さんは、まったく仕事をしないから……自分が、仕事を与えてあげているのに」
どうやら、天屋物さんというお名前のようでした。
ヘルカイザーさんは、呆れたように続けます。
「ただでさえ、時給が一円しかないのに、頑張ってくれないと困りますよ?」
「まあ、身代わりにしかできないですけど♪」
さらりと、ひどいことを付け加えました。
私は、床の男性へ目を向けます。
大丈夫なのでしょうか。
そして、その役割を、仕事と呼んでよいのでしょうか。
「ちなみに……ヘルカイザーの時給は?」
レティシアさんが、静かに尋ねました。
私も、思わず彼を見ます。
部下らしい方が一円であれば、この研究所の責任者は、どうなのでしょう。
「一億ですが……何か?」
私達は、そろって吹き出しました。
一億。
一円の聞き間違いかと思った直後に、今度は、一億ですか。
あまりに差があり過ぎて、比較しようとする方が間違っているような気さえしてきました。
リュミナも、ヴェルシアも、驚きを隠せません。
レティシアさんは、声を上げたあと、その場で動かなくなっていました。
立ったまま、気を失っています。
……立ったまま?
私は、思わず、もう一度見てしまいました。
つい先ほどまで闇の恐ろしさを思い知らされていたはずなのに、今は、別の意味で、目の前の光景を理解できません。
「頑張れば、これくらい行きますよ♪」
彼は、平然としていました。
頑張れば。
その言葉で埋められる差なのでしょうか。
一体、どのような仕事をすれば、そこへたどり着くのですか。
働きなさいという提案を受けたばかりの身としては、何を求められるのか、ますます分からなくなっていました。
ですが、問いを重ねる前に、彼がこちらへ向き直りました。
「さて……少し、逸れましたね。続きをやりますか♪」
少し、という言葉には、異論があります。
もっとも、続けるべきことがあるのは、そのとおりでした。
模擬戦は、まだ終わっていません。
むしろ、ここまでで私達の攻撃は、一度も彼へ届いていないのです。
ヘルカイザーさんの近くで、空間が歪みました。
何もないはずの場所から、武器が姿を現します。
一振りの、大剣でした。
巨大な刃。
その周囲には、黒い魔力のようなものが揺らめいています。
先ほどまでの掛け合いが、急に遠くなりました。
剣を見た瞬間、ただの武器ではないと感じたのです。
大きいから、というだけではありません。
そこから漂う気配が、周囲の空気まで重くしているようでした。
「何ですか……あれは……」
私は、思わず呟きました。
ヘルカイザーさんは大剣を取り、ゆっくりと構えます。
小さな白い姿と、巨大な刃。
不釣り合いなはずなのに、そのときは、おかしいと思う余裕などありませんでした。
「これを避け切れましたら、あなた達の勝ちでよいですよ♪」
避ければ、勝ち。
条件そのものは、単純でした。
ですが、だからといって簡単だとは、思えません。
あの剣が何をするのか、私達には、まだ分からないのです。
私は、二人の位置を確かめました。
リュミナも、ヴェルシアも、剣へ注意を向けています。
ヘルカイザーさんの声が、低く響きました。
「闍龍……」
黒い力が、大剣を中心に渦を巻き始めます。
空気が、重い。
呼吸とともに、胸の中まで押さえ付けられるようでした。
それでも、剣から目を外すことはできません。
「神剣!」
闇が、広がりました。
また、あの何もない場所へ連れていかれるのでしょうか。
そう身構えましたが、今度は違いました。
自分の手が、見えます。
リュミナも、ヴェルシアも、そこにいました。
周囲を深い闇に囲まれながらも、互いの位置は分かるのです。
何が来る。
そう考えて、辺りを見渡しました。
闇の中で、大きな影が動きました。
細長くうねる身体。
龍の形をした、魔力の塊。
その一つを目で追ったときには、別の場所に、次の一つが現れていました。
一体だけでは、ありません。
二体でも、三体でもない。
次から次へと、闇の中へ輪郭が浮かび上がってきます。
どの方向へ目を向けても、龍がいる。
すべてが、こちらへ向かおうとしていました。
「……っ!」
私達は、すぐに離脱しようとしました。
ですが、周囲を覆う闇が、その行く手を阻みます。
抜けられる場所が、見つからない。
逃げようとしても、外へ出られません。
避け切れば、勝ち。
その意味を、ようやく理解し始めました。
逃げ道を塞がれた、この中で、次々と迫る攻撃をかわさなければならない。
リュミナの悲鳴が、響きました。
「ぐあっ!」
私は、慌てて、そちらを向きました。
彼女は、すでに攻撃を受けていました。
身体が傾き、床へ倒れ込んでいく。
「リュミナ!」
呼び掛ける声へ重なるように、今度は、別の声が上がりました。
「……がっ……!」
ヴェルシアでした。
そちらへ視線を動かしたときには、もう、彼女も崩れ落ちていました。
二人とも、意識を失っています。
あっという間でした。
先ほどまで、すぐそばで身構えていたのに。
攻撃の仕組みを探る間もなく、二人が倒れてしまった。
「ほらほら♪ 早く逃げないと、被弾しますよ?」
ヘルカイザーさんの声が、闇の中へ響きました。
余裕のある声です。
ですが、そちらを見ている暇はありません。
私へ向かってくる龍が、まだ、何体もいるのです。
私は、魔力壁を展開しました。
目の前に、障壁が広がります。
これで、少しでも攻撃を防げれば。
その間に、次の動きを考えられれば。
願うように組み上げた防壁へ、龍が迫りました。
パリィンッ!
砕ける音がしました。
あまりに、あっさりと。
薄い硝子を突き破るように、魔力壁が壊されていきます。
「そんな……」
言葉が、漏れました。
防御が、通用しない。
外へ逃げることもできない。
リュミナとヴェルシアは、すでに倒れている。
何か、別の手を。
考えようとした、その一瞬が、遅れになりました。
砕けた障壁の向こうから、龍の形をした力が迫っています。
もう、目の前でした。
避けられない。
私は、そう理解しました。
咄嗟に、ぎゅっと目を閉じました。
強烈な衝撃が、私を襲いました。
何かを考えようとしても、その形を保てません。
音が、遠のいていく。
自分がどちらを向いているのかも、分からなくなる。
先ほどの闇とは違う、意識そのものが途切れていく感覚でした。
そして、私は、そのまま意識を失いました。
◇ ◇ ◇
これが、私達が、初めてヘルカイザーさんと戦ったときのことです。
結果は、三人まとめての敗北でした。
囮を使い、攻撃を重ねても、彼へは届かなかった。
最後に示された攻撃からは、逃れることさえできませんでした。
確かめたいと願い、戦いました。
そして、確かめることになりました。
彼は、私達が想像していた以上の強者でした。
ただ、技を受けただけではありません。
安らかな闇を求めると答えた私達は、その前に、自分達の言葉を問い返されていました。
すべてを破壊するとは、どういうことなのか。
帰りたいと求めている闇とは、何なのか。
その問いへ、以前のように即答できなくなっている自分にも、気付いていました。
私が求めていた、決して砕け得ぬ力。
それが、どのようなものなのか、答えを得たわけではありません。
ですが、少なくとも、この方を知る前と同じつもりで、その言葉を口にすることはできなくなっていました。
大きな扉の向こうで、私達が見たもの。
そこで思い知らされたのは、ヘルカイザーさんの力量と、私達自身が、まだ何も知らないということだったのです。
――第48話・了――




