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転生した主人公が次元神になる  作者: ヘルカイザー
第2部

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第48話 本当の闇



 大きな扉を、私は見上げていました。


 厚い金属で作られているのでしょう。通路の先を塞ぐその扉は、研究所の中でも、ひときわ頑丈そうに見えました。

 ヘルカイザーさんに案内され、ここまで来たものの、この先に何があるのかは、まだ聞いていません。

 隣には、リュミナとヴェルシア。

 二人も、目の前の扉へ視線を向けていました。


 ゴゴゴ、と低い音が響きます。

 重厚な扉が、左右へ動き始めました。

 わずかに開いた隙間から、その向こうの空間が見えてきます。

 私は、足を止めたまま、その奥を見つめました。


 やがて、重い金属音とともに、扉が開き切りました。


「さて……行きましょうか?」


 ヘルカイザーさんが、こちらを振り向きます。

 私達は、軽く頷きました。

 再び彼のあとへ続き、開いた扉を通り抜け、さらに奥へ進むと、彼が足を止めました。


「着きましたよ♪」


 私も、周囲を見渡します。


 何も、ありませんでした。


 あるのは、広い空間と、それを取り囲む頑丈そうな壁。

 研究所の奥で、何を見せられるのだろうと考えていた私には、その何もなさが、かえって不思議でした。


「ここは、どこなんだよ?」


 リュミナが尋ねました。

 私も同じ疑問を抱いていましたので、そのまま返事を待ちます。


「ここは、訓練所ですよ♪」


 なるほど。

 そう言われてみれば、納得できる広さでした。

 周囲に余計な設備がないのも、訓練を行う場所であれば、都合がよいのでしょう。


「あなた達には、ここで、自分と模擬戦をしてもらいます」


「……ほう」


 私は、小さく頷きました。

 これなら、話が分かります。


 私は先ほど、彼のもとで働くことに対して、二つの疑問を伝えました。

 魔道を教えられるのか。

 そして、彼自身が、私の認める強さを持っているのか。


 前の疑問には、レティシアさんという方の名前が示されました。

 ですが、後の疑問については、まだ答えを得ていません。

 身体が完成してからにしましょう、と言われただけでした。


 実際に戦えば、分かる。

 少なくとも、その考え方に異論はありませんでした。

 消えた私達を再生した技術が素晴らしいことと、戦いで強いかどうかは、別の話です。

 もし、私達よりも弱いのでしたら、力を得るために彼のもとで働くという提案は、なかったことになります。


 そのときの私は、そう考えていました。

 このあと自分が何を知るのか、まるで分かっていなかったのです。


「さて……模擬戦を始める前に、あなた達へ質問させていただきます」


 ヘルカイザーさんが、静かに言いました。

 私は、彼へ目を向けます。


「あなた達は、なぜ、力を求めるのですか?」


 今さら、何を尋ねるのでしょう。

 私達の願いを知っていると、彼自身が話していたではありませんか。

 それを叶えるために、身体を与えたのだとも。


 私が答えるより先に、リュミナが口を開きました。


「決まっているだろ。僕達は、帰りたいんだ」


 迷いのない声でした。


「混沌と破壊の、安らかな闇に」


 そうです。

 私達が求めていたのは、それでした。

 すべてを破壊し、あの闇へ帰る。

 そのために力を求め、魂の渇きを満たそうとしてきたのです。


 ただ、一つだけ。

 以前と同じ言葉を聞いているのに、胸へ引っ掛かるものがありました。


 今の私達は、もう、闇の欠片ではない。


 彼は、そう説明していました。

 かつての身体は消え、別の仕組みによって、私達は再び形を得た。

 では、今の私達が帰るとは、どういうことなのでしょう。

 考えかけたものの、答えが出る前に、彼が頷きました。


「なるほど。では、あなた達は、すべてを破壊する力が欲しいのですか?」


「当たり前だ」


 リュミナが、即座に答えます。

 ヴェルシアも、彼へ鋭い視線を向けました。


「うぬは、一体、何がしたいのだ?」


 私も、同じことを思いました。

 こちらが願いを答えるたびに、言葉を重ねて確認する。

 ただ聞きたいだけには、見えません。

 私達の返事を、どこへ導こうとしているのでしょう。


 ヘルカイザーさんは、静かに微笑みました。


「なら、その場にいる人も破壊し、最後の一人になるまで、破壊するのですね?」


「……なっ!?」


 私達は、同時に声を上げていました。

 誰も、そんなことまでは言っていません。

 私は思わず、彼を睨みつけました。


 ですが、彼の表情は変わりませんでした。


「あなた達が言っている力は、そういうことですよ」


 ヘルカイザーさんは、私達をゆっくりと見渡しました。


「一つ、アドバイスしましょう。破壊するなら、意味ある破壊をしなさい」


 穏やかな声です。


「意味なき破壊は、つまらないものです」


 彼は、さらに続けました。


「それに……あなた達の言う闇は、安らかな闇の時点で、闇ではないです」


 今度は、はっきりと苛立ちを覚えました。


 私達が求めたものを、否定した。

 帰りたいと願っていた場所を、闇ではないと言った。

 この方は、一体、何を根拠に、そのようなことを言うのでしょう。


「何だと!」


 リュミナが、声を荒らげました。

 今にも飛び掛かりそうな勢いです。

 ですが、どうにか、その場に踏みとどまっていました。

 ヴェルシアも、黙ったまま彼を見据えています。


「あなた達は、本当の闇を知らない……」


 彼は、静かに告げました。


「今から、それを教えてあげましょう」


 どういう意味かと尋ねる間も、ありませんでした。


 パチン、と乾いた音がしました。


 その瞬間、訓練所が消えたのです。


 壁も、床も、目の前にいた白い姿も。

 すべてが、漆黒に覆われました。

 光が弱くなったのではありません。

 見えていたものが、何もかも、なくなったのです。


 私は、周囲を見ようとしました。

 しかし、目を向ける先が、すべて同じでした。

 暗い。

 それだけしか、分からない。


 すぐ隣に、二人がいたはずです。

 そちらを向いたつもりなのに、何も見えません。

 自分の手を確かめようとしても、その輪郭さえありませんでした。


 そして、音も消えていました。

 声も、足音も、周囲の物音も。

 自分が動いているのか、そこに留まっているのかさえ、確かめられません。


 冷たい。

 そう思ったのを覚えています。

 けれど、それが肌で感じた冷たさなのか、この何もなさを前にした感覚なのか、私には区別できませんでした。

 触れようとするものも、触れたと分かるものもない。

 自分の身体さえ、遠くなっていくようでした。


 ここは、どこなのでしょう。

 私達が求めていた闇とは、違う。

 混沌と破壊に満ちた、あの安らかさはありません。

 ただ、何もない。

 そのことが、これほど心細いとは知りませんでした。


 突然、頭の奥へ鋭い痛みが走りました。


「あ……っ!」


 反射的に、頭を押さえようとします。

 ですが、自分の頭がどこにあるのか、その感覚さえ曖昧でした。

 動かしたはずの手が、届いたのか分からない。

 それなのに、痛みだけは、はっきりとしています。


 何かが、入り込んでくる。


 声のようなもの。

 感情のようなもの。

 一つを受け止めるより先に、次の一つが、内側へ押し寄せました。


『これは、人々の絶望や、悲鳴や、恨み……』


 ヘルカイザーさんの声でした。

 どこにいるのかは分かりません。

 姿の見えないまま、説明だけが届きます。


『あらゆる人の欲望が入り混じった、マイナスエネルギーです』


 これが、そうなのですか。

 私達を再生するためにも使ったという、あのエネルギー。


 苦しい。

 助けて。

 許さない。

 絶対に、手に入れてやる。


 誰かの言葉を、耳で聞いているのではありませんでした。

 その言葉が生まれる感情ごと、頭の中へ押し込まれてくるのです。

 恐怖の次には、憎しみがある。

 怒りに押されて、絶望が流れ込む。

 しがみつこうとする欲望へ、別の誰かの恨みが重なる。


 一つとして、終わりを待ってくれませんでした。

 こちらが理解したかどうかも、受け入れられるかどうかも関係なく、次から次へと入ってくる。

 気付けば、自分の考えを探すことさえ難しくなっていました。


 私は、耐えようとしました。

 いま感じているものは、私自身の感情ではない。

 そう区別しようとしても、押し寄せる力は弱まりません。

 誰かの恐怖が、自分の恐怖になっていく。

 逃れたいという自分の気持ちも、その流れの中へ巻き込まれてしまう。


 普通の人間が、これを受け続けたら。


 考えた瞬間、答えが分かりました。

 精神が、耐えられない。

 ここに留まり続ければ、心が削られてしまう。

 終わりがなければ、ずっと、この苦痛が続く。


 リュミナは、どうなっているのでしょう。

 ヴェルシアは。

 姿が見えません。

 確かめる声も、返ってきません。

 自分が一人なのか、二人も同じところにいるのか、それさえ分からない。


 あれほど求めていた闇にいるはずなのに、帰りたいという気持ちは、どこにもありませんでした。

 ここから出たい。

 先ほどまで立っていた訓練所へ、戻りたい。

 壁のある場所へ。

 二人の顔が見え、自分の手の位置が分かる場所へ。


「……やめ……」


 声になったのかも、分かりませんでした。

 それでも、もう、耐えられません。

 見えないことも、聞こえないことも、この感情が止まらないことも。

 私が求めていたものとは違うのだと叫ぶ余裕さえ、なくなっていました。


「助けてください……」


 気付けば、そう言っていました。


 力を求めていた私が。

 彼の強さを認めていないと告げた、その私が。

 ただ、ここから出してほしいと願っていました。


『……やはり、無理でしたか』


 少し、残念そうな声でした。

 そして、再び、指を鳴らす音がしたのです。


     ◇ ◇ ◇


 光が、戻ってきました。


 訓練所の壁。

 広い床。

 目の前にいる、ヘルカイザーさん。

 それらが見えたとき、私は、ようやく自分が戻ったのだと理解しました。


「いかがですか?」


 彼は、笑顔で尋ねました。

 ですが、すぐに答えることなど、できませんでした。


「はぁ……はぁ……っ」


 息が、ひどく乱れています。

 身体が重い。

 長く激しい戦いを続けたあとでもないのに、立っているだけで力を使ってしまうようでした。


 隣を見れば、リュミナもヴェルシアも、同じように息を切らしていました。

 ここにいる。

 まず、そのことに安堵しました。

 二人の姿を確かめられるというだけで、あの何も見えない場所とは、まるで違いました。


「だらしないですね……」


 ヘルカイザーさんが、呟きました。


「こんなことでは、すべてを破壊する力は、手に入りませんよ?」


 私は、歯を食いしばりました。


「お、お前は……どうなんだよ!?」


 リュミナが、息を切らしながら尋ねました。


「あんな場所にいて、お前は平気なのか!?」


 私も、ヘルカイザーさんを見ました。

 白い小さな身体は、先ほどまでと変わりません。

 翼も、表情も、そのままです。

 こちらのように、呼吸を整えようとする様子もありませんでした。


 彼は、少し考えるような仕草をしました。


「久々に来ましたが……やはり、物足りませんね」


 聞き間違えたのかと、思いました。


 物足りない。

 あれが。

 自分の感覚さえ失いかけ、助けを求めるしかなかった、あの場所が。


 リュミナも、ヴェルシアも、驚きを隠せずにいました。

 ですが、彼は、何でもない感想を口にしたような顔をしています。

 私達と同じものを知っているはずなのに、受け止め方が、まるで違う。


「やはり、マイナスエネルギーは、新鮮なのが一番ですね……」


 さらに続いた言葉に、私は、言葉を失いました。

 まるで、食べ物の好みでも話しているようです。

 あの感情の奔流を、新鮮さで語る。

 説明を聞いているのに、この方のことが、かえって分からなくなっていきました。


 私には、理解できませんでした。


「あなたは……一体、何者なんですか?」


 どうしても、聞かずにはいられませんでした。

 あの小さな姿からは、何も想像できません。

 最初に目覚めたときには、ふざけた生き物だと思ったくらいです。

 それなのに、なぜ、あれほどの闇を平然と受け止められるのでしょう。


「本当……失礼な方ですね。これでも、人間なのに……」


 彼は、少し呆れたように答えました。


 ですから、思考を読まないでください。

 反射的にそう考えたあとで、私は、いま聞いた言葉に引っ掛かりました。


 ……人間?


 白い身体へ、目を向けます。

 背中の翼も、確かめました。

 やはり、どう見ても、小さな竜です。


「嘘だ!」


 リュミナが、彼を指さして叫びました。


「お前が、人間であるはずがない!」


 私も、同じことを思っていました。

 先ほどの闇についても、この姿についても、納得できる説明が欲しい。

 ですが、彼は小さくため息をつくだけでした。


「嘘も何も、真実ですから、仕方がないでしょう? そもそも、ドラゴンが喋ること自体、不自然でしょう?」


 ……そうなのでしょうか。

 話せることが、そのまま人間である証明になるのかどうか。

 今の説明で納得してよいのか、私は考え込んでしまいました。

 闇の中から戻ったばかりの頭で、その理屈まで整理するのは、少し難しかったのです。


 そのとき、女性の声がしました。


「ヘルカイザー……もう、これくらいにしたら?」


 私は、声のした方を向きました。

 一人の女性が、そこにいました。

 ヘルカイザーさんは、その姿を認めると、小さく頷きます。


「それも、そうですねぇ。レティシアさん♪」


 その名前には、覚えがありました。

 先ほど、魔法を教えてくださる方として、彼が挙げていた名前です。

 あの方が、そうなのですか。

 私は、興味を引かれ、彼女を見つめました。


 すると、今度は、別の声が響きました。


「ヘルー! 仕事が終わったなら、遊ぼうよー!」


 そちらを見ると、リュミナによく似た顔立ちの女性がいました。

 彼を呼ぶ声には、ためらいがありません。

 こちらが何者なのか理解できずにいた相手へ、気軽に遊びを持ち掛けている。

 その光景に、私は少し戸惑いました。


「まだ、話が終わっていないから、もう少し待ってくださいね。ミリア♪」


 ヘルカイザーさんも、穏やかに返事をします。

 ミリアさん。

 私は、その名前を聞き留めました。


「さて……話が逸れましたね?」


 彼が、私達へ向き直りました。


「模擬戦を、開始しましょうか?」


 私は、息を整えました。

 本来は、それが目的でした。

 彼の実力を確かめ、もとで働くかどうかを判断する。

 訓練所へ入ったときには、そう考えていました。


 ですが、今の私達は、闇に触れただけで消耗しています。

 彼の方は、何も変わっていない。

 果たして、戦えるのでしょうか。

 そういう疑問がなかったといえば、嘘になります。


 それでも、確かめなければなりませんでした。

 闇に耐えられることは、分かりました。

 けれど、力量を認めるという問いには、まだ、自分で答えを出していません。

 答えを得ないまま、ただ従うつもりには、なれませんでした。


「やります……」


 私は、告げました。

 ヘルカイザーさんが、小さく頷きます。


「分かりました。他の二人は、どうしますか?」


「やる!」


 二人の返事が、重なりました。

 どうやら、私だけではないようです。

 リュミナの目には、強い闘志が戻っていました。

 ヴェルシアも、彼から視線を外しません。


「では……三人まとめて、掛かってきてください♪」


 黒い翼が、大きく開かれました。


 私達三人を、一度に。

 随分と、余裕のある言い方です。

 その態度を見て、リュミナが一歩、前へ出ました。


「その台詞……後悔させてやる!」


 床を蹴る音が、訓練所へ響きます。

 彼女は、一気に距離を詰めました。

 速い。

 先ほどの消耗が残っていても、その動きには、相手を捉えようとする勢いがありました。


 しかし、ヘルカイザーさんは、ほんの少し身体を傾けただけでした。

 攻撃が、空を切ります。

 避けるために大きく飛び退くことさえ、しませんでした。


「なかなか良いスピードですが……単純過ぎですよ♪」


 楽しそうな声でした。

 私は、その動きを見ていました。

 リュミナの速さを、目で追えている。

 しかも、必要なだけしか動いていない。

 確かに、ただの技術者というわけではないようです。


 ですが、彼女だけを見ていてよいのでしょうか。


「よそ見をしている暇が、あるのですか?」


 彼が、こちらへ顔を向けました。

 そのときには、私の魔力は、すでに収束していました。

 リュミナへ意識を向けた、その間。

 そこへ、攻撃を重ねます。


「ブラストファイヤー!」


 砲撃が、放たれました。

 光が彼のいた場所へ達し、激しい爆発が起こります。

 爆煙が広がり、小さな白い姿を包み込みました。


 私は、杖を構えたまま、その中心を見つめました。

 手応えがあると判断するには、まだ早い。

 彼は、先ほどの闇から戻っても、息一つ乱していませんでした。

 簡単に決着がついたと、考えることはできなかったのです。


「やったのか?」


 ヴェルシアが尋ねます。

 私は、小さく首を横へ振りました。


「分かりませんが……」


 その先を言い終える前に、背後から声がしました。


「びっくりしましたねぇ♪」


 私達は、反射的に振り向きました。

 ヘルカイザーさんが、そこにいました。


 無傷でした。

 白い身体には、砲撃を受けた痕跡がありません。

 先ほどと同じように浮かび、感心した顔で、何度も頷いています。


「なるほど、なるほど。リュミナさんは囮で、本命は、そちらでしたか♪」


 意図は、理解されていたようです。

 ですが、では、いまの爆発は、何だったのでしょう。

 私は、爆煙の方へ目を戻しました。


 そこには、一人の男性が倒れていました。


 服も顔も煤だらけで、ところどころから、細い煙が上がっています。

 見覚えのない方です。

 いつ、そこへ来たのでしょう。

 先ほどまで、あの場所には、ヘルカイザーさんがいたはずなのですが。


 男性が、突然、勢いよく起き上がりました。


「ヘルさん! ひどいよ! また、身代わりにするなんて!」


 ……身代わり。

 その言葉で、ようやく、何が起きたか分かりました。

 私が撃った相手は、彼に置き換えられていたのですか。

 しかも、また、と言いました。


 驚く私をよそに、ヘルカイザーさんは、にっこりと笑いました。


「黙りなさい♪」


 次の瞬間、鈍い音が響きました。

 彼の一撃を受け、男性の身体が大きく吹き飛びます。

 床へ落ちると、そのままうずくまってしまいました。


「天屋物さんは、まったく仕事をしないから……自分が、仕事を与えてあげているのに」


 どうやら、天屋物さんというお名前のようでした。

 ヘルカイザーさんは、呆れたように続けます。


「ただでさえ、時給が一円しかないのに、頑張ってくれないと困りますよ?」


「まあ、身代わりにしかできないですけど♪」


 さらりと、ひどいことを付け加えました。

 私は、床の男性へ目を向けます。

 大丈夫なのでしょうか。

 そして、その役割を、仕事と呼んでよいのでしょうか。


「ちなみに……ヘルカイザーの時給は?」


 レティシアさんが、静かに尋ねました。

 私も、思わず彼を見ます。

 部下らしい方が一円であれば、この研究所の責任者は、どうなのでしょう。


「一億ですが……何か?」


 私達は、そろって吹き出しました。


 一億。

 一円の聞き間違いかと思った直後に、今度は、一億ですか。

 あまりに差があり過ぎて、比較しようとする方が間違っているような気さえしてきました。


 リュミナも、ヴェルシアも、驚きを隠せません。

 レティシアさんは、声を上げたあと、その場で動かなくなっていました。

 立ったまま、気を失っています。


 ……立ったまま?

 私は、思わず、もう一度見てしまいました。

 つい先ほどまで闇の恐ろしさを思い知らされていたはずなのに、今は、別の意味で、目の前の光景を理解できません。


「頑張れば、これくらい行きますよ♪」


 彼は、平然としていました。

 頑張れば。

 その言葉で埋められる差なのでしょうか。

 一体、どのような仕事をすれば、そこへたどり着くのですか。

 働きなさいという提案を受けたばかりの身としては、何を求められるのか、ますます分からなくなっていました。


 ですが、問いを重ねる前に、彼がこちらへ向き直りました。


「さて……少し、逸れましたね。続きをやりますか♪」


 少し、という言葉には、異論があります。

 もっとも、続けるべきことがあるのは、そのとおりでした。

 模擬戦は、まだ終わっていません。

 むしろ、ここまでで私達の攻撃は、一度も彼へ届いていないのです。


 ヘルカイザーさんの近くで、空間が歪みました。


 何もないはずの場所から、武器が姿を現します。

 一振りの、大剣でした。

 巨大な刃。

 その周囲には、黒い魔力のようなものが揺らめいています。


 先ほどまでの掛け合いが、急に遠くなりました。

 剣を見た瞬間、ただの武器ではないと感じたのです。

 大きいから、というだけではありません。

 そこから漂う気配が、周囲の空気まで重くしているようでした。


「何ですか……あれは……」


 私は、思わず呟きました。

 ヘルカイザーさんは大剣を取り、ゆっくりと構えます。

 小さな白い姿と、巨大な刃。

 不釣り合いなはずなのに、そのときは、おかしいと思う余裕などありませんでした。


「これを避け切れましたら、あなた達の勝ちでよいですよ♪」


 避ければ、勝ち。

 条件そのものは、単純でした。

 ですが、だからといって簡単だとは、思えません。

 あの剣が何をするのか、私達には、まだ分からないのです。


 私は、二人の位置を確かめました。

 リュミナも、ヴェルシアも、剣へ注意を向けています。

 ヘルカイザーさんの声が、低く響きました。


「闍龍……」


 黒い力が、大剣を中心に渦を巻き始めます。

 空気が、重い。

 呼吸とともに、胸の中まで押さえ付けられるようでした。

 それでも、剣から目を外すことはできません。


「神剣!」


 闇が、広がりました。


 また、あの何もない場所へ連れていかれるのでしょうか。

 そう身構えましたが、今度は違いました。

 自分の手が、見えます。

 リュミナも、ヴェルシアも、そこにいました。

 周囲を深い闇に囲まれながらも、互いの位置は分かるのです。


 何が来る。

 そう考えて、辺りを見渡しました。


 闇の中で、大きな影が動きました。

 細長くうねる身体。

 龍の形をした、魔力の塊。

 その一つを目で追ったときには、別の場所に、次の一つが現れていました。


 一体だけでは、ありません。

 二体でも、三体でもない。

 次から次へと、闇の中へ輪郭が浮かび上がってきます。

 どの方向へ目を向けても、龍がいる。

 すべてが、こちらへ向かおうとしていました。


「……っ!」


 私達は、すぐに離脱しようとしました。

 ですが、周囲を覆う闇が、その行く手を阻みます。

 抜けられる場所が、見つからない。

 逃げようとしても、外へ出られません。


 避け切れば、勝ち。

 その意味を、ようやく理解し始めました。

 逃げ道を塞がれた、この中で、次々と迫る攻撃をかわさなければならない。


 リュミナの悲鳴が、響きました。


「ぐあっ!」


 私は、慌てて、そちらを向きました。

 彼女は、すでに攻撃を受けていました。

 身体が傾き、床へ倒れ込んでいく。


「リュミナ!」


 呼び掛ける声へ重なるように、今度は、別の声が上がりました。


「……がっ……!」


 ヴェルシアでした。

 そちらへ視線を動かしたときには、もう、彼女も崩れ落ちていました。

 二人とも、意識を失っています。


 あっという間でした。

 先ほどまで、すぐそばで身構えていたのに。

 攻撃の仕組みを探る間もなく、二人が倒れてしまった。


「ほらほら♪ 早く逃げないと、被弾しますよ?」


 ヘルカイザーさんの声が、闇の中へ響きました。

 余裕のある声です。

 ですが、そちらを見ている暇はありません。

 私へ向かってくる龍が、まだ、何体もいるのです。


 私は、魔力壁を展開しました。

 目の前に、障壁が広がります。

 これで、少しでも攻撃を防げれば。

 その間に、次の動きを考えられれば。


 願うように組み上げた防壁へ、龍が迫りました。


 パリィンッ!


 砕ける音がしました。

 あまりに、あっさりと。

 薄い硝子を突き破るように、魔力壁が壊されていきます。


「そんな……」


 言葉が、漏れました。

 防御が、通用しない。

 外へ逃げることもできない。

 リュミナとヴェルシアは、すでに倒れている。


 何か、別の手を。

 考えようとした、その一瞬が、遅れになりました。

 砕けた障壁の向こうから、龍の形をした力が迫っています。

 もう、目の前でした。


 避けられない。


 私は、そう理解しました。


 咄嗟に、ぎゅっと目を閉じました。


 強烈な衝撃が、私を襲いました。

 何かを考えようとしても、その形を保てません。

 音が、遠のいていく。

 自分がどちらを向いているのかも、分からなくなる。

 先ほどの闇とは違う、意識そのものが途切れていく感覚でした。


 そして、私は、そのまま意識を失いました。


     ◇ ◇ ◇


 これが、私達が、初めてヘルカイザーさんと戦ったときのことです。


 結果は、三人まとめての敗北でした。

 囮を使い、攻撃を重ねても、彼へは届かなかった。

 最後に示された攻撃からは、逃れることさえできませんでした。


 確かめたいと願い、戦いました。

 そして、確かめることになりました。

 彼は、私達が想像していた以上の強者でした。


 ただ、技を受けただけではありません。

 安らかな闇を求めると答えた私達は、その前に、自分達の言葉を問い返されていました。

 すべてを破壊するとは、どういうことなのか。

 帰りたいと求めている闇とは、何なのか。

 その問いへ、以前のように即答できなくなっている自分にも、気付いていました。


 私が求めていた、決して砕け得ぬ力。

 それが、どのようなものなのか、答えを得たわけではありません。

 ですが、少なくとも、この方を知る前と同じつもりで、その言葉を口にすることはできなくなっていました。


 大きな扉の向こうで、私達が見たもの。

 そこで思い知らされたのは、ヘルカイザーさんの力量と、私達自身が、まだ何も知らないということだったのです。


――第48話・了――

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