第46話 再会した宿敵
こちらへ近付いてくる二つの影を、いろはは見つめていた。
ほんの少し前まで、そこには誰もいなかった。
ヘルカイザーが取り出した二つのデバイス。その下に魔法陣が広がり、光の中から、人の輪郭が浮かび上がった。
目の前で起きたことだ。
見間違えようがないほど、はっきりと見ていた。
それでも、どうしても理解が追い付かなかった。
セリシア。
そして、リュミナ。
かつて、いろは達が戦った相手。
残滓から生まれたエクリプスの二人が、今、アルカディアの空にいる。
いろはは、アークレイの柄を握り締めた。
力を入れ過ぎていることに気付き、少しだけ指を緩める。
相手へ注意を向けなければならない。
そのために構えているはずの杖が、今は、頭の中を整理するために頼れる、たった一つの確かな感触になっていた。
(……どうして?)
浮かんでくるのは、その問いばかりだった。
あの戦いは、終わったはずだった。
彼女たちを生み出した闇の欠片も、完全に消えたはずだった。
またどこかで会うかもしれないと、そんなふうに考えて別れたわけではない。
いつか続きを話そうと、約束をしたわけでもない。
もう会えない。
そのことを、寂しいと考えるより先に、事実として受け止めていた。
それなのに、二人はここにいる。
誰かの記憶の中でも、記録映像の中でもない。
風に髪を揺らし、こちらへ視線を向け、近付いてくる。
距離が縮まるほど、幻かもしれないという考えは、成り立たなくなっていった。
隣のレイも、言葉を失っていた。
水色の髪をしたリュミナを見つめる、その青い瞳がわずかに揺れている。
先ほどまで、レイの意識はヘルカイザーへ向いていた。
母の居場所を知っているという、白い小さな竜へ。
その彼から引き離すように、今度は過去の相手が姿を現したのだ。
いろはは、レイの戸惑いを横顔から読み取った。
何か言葉を掛けようとして、口を閉じる。
大丈夫、と言えるだけの根拠がない。
自分も同じくらい驚いているのに、落ち着いているふりをしても、きっと伝わってしまう。
代わりに、もう一度、正面を向いた。
セリシアが、こちらを見ていた。
よく似ている。
最初に光の中から現れたときにも思ったが、近付くと、いっそうそう感じられた。
顔立ちの輪郭や、目元の印象。自分の姿を、少し違う角度から見せられているような、不思議な感覚がある。
しかし、目の前の女性を、自分と取り違えることはなかった。
長い髪は結われず、背中へ下ろされている。
バリアジャケットも、形が似ているからこそ、異なる色が目についた。
その違い以上に大きいのは、こちらへ向けられる眼差しだった。
驚きを隠せないいろはに対して、彼女は静かだった。
何も感じていないわけではないのだろう。
先ほど、アークレイを見たときには、懐かしいものを確かめるように目を細めていた。
いろはを覚えている。
それは、もう分かっている。
だからこそ、いろはは聞きたかった。
あのときの彼女なら、どうして、今ここにいるのか。
だが、問いが言葉になるより先に、セリシアが口を開いた。
「お久しぶりですね……心強き者」
落ち着いた声だった。
敵意を込めた呼び掛けでも、親しげに手を振るような挨拶でもない。
ただ、そこにいる相手を認め、時間を隔てた再会を静かに告げる声。
いろはの胸が、小さく揺れた。
その呼び方。
記憶の中と、同じだった。
大人になった顔を見て、似ていると思っていた。
デバイスを見て、そうなのかもしれないと考えた。
ヘルカイザーの説明を聞き、彼女自身の言葉にも耳を傾けた。
それでも、どこかに残っていたためらいが、その短い呼び掛けで、ふっとほどけた。
ここにいるのは、彼女だ。
以前よりも成長した姿で、違う場所に立っていても、こちらをそう呼ぶ。
消えてしまったはずの相手が、確かに自分を見ている。
懐かしい。
そんな気持ちが湧くことに、いろは自身が少し驚いた。
戦った相手なのに。
穏やかな思い出だけでつながっているわけではないのに。
それでも、覚えている声で、覚えている呼び方をされると、胸の奥へ届くものがあった。
「久しぶりだね……」
気付けば、そう返していた。
唇に浮かんだのは、ほんの小さな笑みだった。
再会の理由が分かったわけでも、警戒を解いたわけでもない。
ただ、挨拶を返さないまま質問だけを重ねることが、そのときのいろはにはできなかった。
セリシアは、静かにこちらを見ている。
返事を急かす様子もない。
その落ち着きに助けられるように、いろはは少しだけ息を整えた。
「できれば、名前を呼んでほしいんだけど」
わずかに間を置く。
「私は、天城いろは」
名乗り終えたあと、自分でも不思議に思った。
ついさっきまで、戦いが始まろうとしていた。
はちがヘルカイザーを引き付け、その隙を狙うはずだった。
それが今は、懐かしい相手へ、自分の名前を伝えている。
けれど、その順番でよい気がした。
彼女が覚えている呼び方ではなく、今ここにいる自分の名前で呼んでほしい。
驚きの中で、それだけは、素直に言葉になった。
セリシアの目が、わずかに細められる。
「これは、失礼しました……」
彼女は、丁寧に頭を下げた。
大げさでも、わざとらしくもない、短い一礼だった。
「では……次から、そう呼びます」
「……うん」
いろはは、小さく頷いた。
それ以上、何かを付け足す必要はなかった。
訂正を求めたつもりではない。ただお願いをして、彼女が受け取ってくれた。
その何でもないやり取りが、ひどく現実的だった。
消えたはずの人が、目の前にいる。
そんな信じ難い状況の中で交わされるのが、名前を呼んでほしいという、ごく普通のお願いなのだ。
いろはは、彼女が顔を上げるのを見た。
その仕草も、落ち着いた口調も、記憶にある相手と重なる。
成長した身体と、変わらないと感じる部分。
二つを同時に見ていると、知らない年月が、二人の間に横たわっているように思えた。
自分達が過ごした時間がある。
そのことは、毎日の中にあったから、いちいち考える必要もなかった。
だが、目の前の相手にも時間があったのだと考えた途端、いろはは、その先でつまずいた。
彼女の時間は、どこで続いていたのだろう。
何を見て、どこにいて、こうして今の姿になったのだろう。
存在そのものが途切れたはずだと思っていた相手へ、そんな問いが生まれている。
レイは、二人の短いやり取りを聞いていた。
いろはが名前を告げ、セリシアが頷く。
その落ち着いた応答の間にも、リュミナは目の前にいる。
こちらも、以前とは違う、大人の姿をしていた。
けれど、先ほどの口調には覚えがある。
懐かしい、と楽しげに言った声も、借りがあると笑った表情も、まるきり知らない相手を見るときのものではなかった。
レイは、彼女の向こうへ視線を走らせた。
ヘルカイザーと、はち。
その二人も、まだそこにいる。
こちらで会話が始まったからといって、もとの問題がなくなったわけではない。
母が生きているという話。
ガーディアンを制圧するという宣言。
街を苦しめたハブ。
その一つ一つを忘れたわけではなかった。
それでも、今は、この再会を確かめる言葉が必要だった。
母の消息を知るために彼と戦おうとした矢先、消えたはずの二人が戻ってきた。
何が本当で、何をまだ知らないのか。
目の前で起きることを、一つずつ受け止めなければ、次の判断もできない。
いろはも、それに似たことを考えていた。
セリシアの声へ耳を傾けながら、周囲への注意まで手放さないようにする。
アークレイは、まだ手の中にある。
握りの感触を確かめるたびに、ここが昔のどこかではなく、今のアルカディアなのだと思い出せた。
セリシアは、そんな彼女を見つめたまま、静かに言った。
「しかし……再びあなたにまみえるとは、思いませんでした」
その言葉に、いろはは顔を上げた。
「……うん」
それは、こちらだけが抱いていた驚きではなかった。
少なくとも彼女も、再会を当たり前のことだとは考えていなかったのだ。
思いませんでした。
その短い言い方の中に、彼女が何を含めたのかは分からない。
けれど、いろはには、その言葉を聞いて初めて、相手の側から今の場面を見ようとする余裕が生まれた。
自分が、彼女の変わった姿に驚いたように。
彼女もまた、成長したこちらを見ている。
自分が、もう会えないと思っていたように。
彼女にも、そう思う理由があったのかもしれない。
いろはは、言葉を探した。
私もだよ、と返すだけでは足りない気がした。
どうしてここにいるの、と急いで聞くには、いま受け取った言葉が静か過ぎた。
結局、最初に返した頷きのあとへ、しばらく言葉が続かなかった。
風が、髪の間を通り抜ける。
結われた自分の髪と、下ろされた彼女の髪が、それぞれ違う方向へ揺れた。
似ているのに、違う。
その当たり前のことが、今は、二人がそれぞれ別の場所からここへ来たことを示しているように感じられた。
懐かしい姿を、ただ取り戻したわけではない。
知らない間のある相手と、再び向き合っている。
いろはは、目の前の女性から、目をそらさずにいた。
昔の戦いを、細部まで順番に思い返そうとしても、今の驚きに押され、うまく整理できなかった。
しかし、終わったことだけは覚えている。
あの場を離れたとき、また会えるとは思っていなかった。
だから、どんな話をすればよいか、準備などしているはずもない。
再会する相手に、あらかじめ伝えたかった言葉。
会えたら聞いてみようと思っていた質問。
そういうものは、なかった。
だからこそ、今、目の前にいる彼女に対して生まれた疑問を、そのまま聞くしかなかった。
記憶の中の相手ではなく、今の彼女に。
セリシアは、いろはが言葉を探すのを待っているようだった。
その静かな視線が、少しだけありがたかった。
ヘルカイザーの笑顔には、相手の反応を楽しむようなところがある。
彼女の落ち着きは、それとは違って見える。
だが、違って見えることと、安心してよいことは、同じではなかった。
彼女は、彼に呼ばれて現れた。
彼の提案を受けて、こちらへ来た。
その事実は、挨拶を交わしている間も変わらない。
いろはは、小さく息を吸った。
「でも……」
ようやく、次の言葉が出る。
セリシアの瞳が、こちらの口元へわずかに動いた。
「どうして……あなた達が、存在しているの?」
声は、思っていたよりも慎重になった。
目の前にいる相手へ、なぜ存在しているのかと尋ねる。
普段なら、きっと口にしない言い方だった。
しかし、今は、そこを避けて別の質問から始めることができなかった。
どこから来たのか。
なぜヘルカイザーと一緒にいるのか。
知りたいことは、それだけではない。
けれど、その前に、確かめなければならないことがある。
「闇の欠片は、あのとき……完全に消滅したはず……」
言い終えて、いろはは唇を閉じた。
自分達が見たものは、何だったのか。
終わったと受け止めたことに、何か見落としがあったのか。
それとも、消えたあとに、自分達の知らないことが起きたのか。
考えられることは幾つもあった。
どれも、今は確かめようがない。
だから、目の前にいる彼女の答えを待った。
レイも、セリシアへ顔を向けた。
いろはの問いは、そのまま彼女自身の疑問でもあった。
あのとき確かに終わったはずだという記憶と、いま二人がここにいるという事実。
どちらかを見なかったことにしてしまえば、簡単なのかもしれない。
だが、そんなことはできなかった。
いま目の前にいる二人は、こちらを覚えている。
姿が変わっても、言葉の向こうに、あのときの相手がいる。
少なくとも、レイにはそう感じられた。
いろはの問い掛けを聞いて、セリシアは少しだけ目を伏せた。
すぐに答えが返ってくるわけではなかった。
その沈黙を、いろはは長く感じた。
聞いてはいけないことだったのか。
そう思いかけて、余計な推測を抑える。
彼女はまだ、何も答えていない。
ただ、少し考えるように視線を下げただけだ。
その仕草へ、自分の不安から意味を付け足してはいけなかった。
けれど、待つことは難しかった。
セリシアの返答で、これから何を受け止めなければならないのかが変わる。
ヘルカイザーのしたことを思い返すと、何か新しい危険が隠れているようにも感じられる。
同時に、二人がここにいる理由を、ただ知りたいという気持ちもあった。
驚きと、懐かしさと、警戒。
どれか一つに決めることは、できない。
いろはは、そのままの気持ちで、彼女の顔が上がるのを待った。
「話せば、長くなりますが……」
セリシアが、静かに言った。
いろはは、その一言を聞き逃さなかった。
長くなる。
つまり、何かがあったのだ。
いろは達が戦いを終え、その先を知らずにいた間に、ひと言では説明しきれない何かが。
それが何かは、まだ分からない。
ただ、彼女は理由を説明できる。
知らない、とも、答えられない、とも言わなかった。
思わず、先を促しかける。
けれど、セリシアの視線は、いろはから離れた。
向かった先は、小さな白い竜だった。
いろはも、そちらを見た。
ヘルカイザーは、はちと向かい合う位置にいる。
二人の間には、まだ緊張が残っていた。
こちらで交わしている挨拶が、あちらの問題を消したわけではない。
いろはの胸が、わずかに詰まる。
はちに任せた。
無理をしないでほしいと伝えた。
そのあと、自分達は、思いもしなかった相手との再会に足を止められている。
だからといって、今、セリシアの前から視線を外し続けるわけにもいかなかった。
目の前の二人は、ヘルカイザーがこちらへ向かわせた相手だ。
懐かしいからと、彼女たちの動きを見ないままではいられない。
注意を分けなければならないことが、焦りを生んだ。
はちも、こちらの会話を意識しているようだった。
銀紫色の髪が、風に揺れている。
左腕の外側で、魔力ディスクの青白い光が途切れずに続いていた。
その光を見たことで、いろはは少しだけ自分の呼吸を取り戻した。
まだ、こちらに向き合う余地がある。
ならば、聞けることを聞かなければならない。
セリシアがヘルカイザーを見たのは、その説明に彼が関わっているからなのだろうか。
それとも、口にしてよいかを確かめているのだろうか。
いろはには判断がつかなかった。
ただ、彼女が次の言葉を告げる前に、彼の反応を待ったことだけは、はっきりと見えた。
ヘルカイザーが、こちらへ顔を向ける。
視線に気付いたのか、会話を聞いていたのか。
その区別も、外からは分からなかった。
愛嬌のある白い顔。
背中に広がる、黒い翼。
こちらを見た彼の口元には、また、あの穏やかな笑みが浮かんでいた。
いろはは、その笑顔を見て、先ほどの出来事を思い出した。
ガーディアンを制圧するという宣言。
大地へ向けられた銃口。
まるで何でもないことのように繰り出された、恐ろしい手段。
いまも、その人物が目の前にいる。
丁寧な声だけを聞いて、別の相手のように考えることはできなかった。
「良いですよ♪」
ヘルカイザーは、あっさりと言った。
セリシアが何を確認したかったのか、彼には伝わっているらしい。
細かく聞き返すこともなく、止めることもなく、すぐに頷いた。
その自然さが、いろはには意外だった。
話を聞かせてもらえるなら、それはありがたい。
だが、彼が快く了承した理由まで分かったわけではない。
自分達の疑問を解くことが、彼にとって都合の悪いことではないのだろう。
そう考えても、次の一言までは予想できなかった。
「むしろ、いろはさん達には、聞いてもらわないと困りますし♪」
「……えっ?」
いろはの口から、思わず声が漏れた。
聞いてもらわないと、困る。
ただ話してもかまわない、と言ったのではない。
こちらが知ることを、彼の方も望んでいる。
なぜ、そんな必要があるのだろう。
いろはは、ヘルカイザーを見つめた。
彼は、相変わらず笑っている。
何を考えているのか、表情だけでは分からない。
都合がよいのか、面白いのか、それとも別の理由があるのか。
話すことを隠したいわけではない。
むしろ聞かせたい。
それだけなら、言葉どおりに受け取れる。
しかし、聞いたあとで、何を考えてほしいのだろう。
いろは達がどう反応することを、彼は期待しているのだろう。
答えは、笑顔の中にはなかった。
いろはの指が、アークレイを握り直す。
知らないことが、増えていく。
最初は、もう一人の次元神がいるという驚きだった。
次には、母が生きているという、レイにとって大きな意味を持つ話。
そして今は、消えたはずのエクリプスと、彼との関係だ。
一つ答えを求めるたびに、その先に別の問いが生まれている。
戸惑って立ち止まれば、彼の思うままに運ばれてしまうようにも感じられた。
だからこそ、聞かなければならない。
分からないからという理由で、耳を閉じてしまうわけにはいかなかった。
レイも、ヘルカイザーを見ていた。
セリシアへ向けられた許可の言葉が、耳に残っている。
彼は、こちらの疑問をはぐらかすこともできたはずだ。
だが、今は話を促している。
レティシアについて尋ねたときには、仲間を売るつもりはないと答えた。
勝てば居場所を教えると、条件を付けた。
一方で、二人が存在している理由は、聞いてもらわなければ困るという。
何を話し、何を伏せるのか。
そこには、彼なりの区別があるのだろう。
それがこちらの望みと一致する保証は、ない。
母の名前を知っているという事実だけで、彼の話をすべて信じることはできなかった。
それでも、何も聞かずに答えへたどり着くこともできない。
レイは、視線をセリシアへ戻した。
まず、彼女自身が何を語るのかを聞く。
自分の焦りから先回りして意味を決めるのは、そのあとでは遅くない。
いろはは、少しだけ姿勢を整えた。
胸の中で散らばっていた問いを、一度、脇へ置く。
すべてを一度に聞こうとしても、話は進まない。
セリシアは、いま、説明を始めようとしている。
まずは、その言葉を受け止める必要があった。
懐かしい相手の口から聞く話だからといって、驚きが小さくなるわけではない。
むしろ、知っている相手だからこそ、聞かなければ分からない時間の長さが気にかかる。
こちらが覚えている彼女と、今ここにいる彼女の間。
その空白に、ヘルカイザーがいる。
どんな出会いだったのか。
どうして、彼の呼び掛けに応える関係になったのか。
そこへつながる話が、これから語られるのだろう。
いろはは、あらためてセリシアを見た。
彼女は、ヘルカイザーの返事を聞いて、小さく頷いた。
驚く様子はなかった。
快諾されることを予想していたのか、それとも、答えが出たから受け入れただけなのか。
静かな表情からは、まだ読み取れない。
けれど、彼女がこちらへ向き直ったとき、いろはは、今度こそ話が始まるのだと感じた。
デバイスの光から現れた、不可思議な存在としてではなく。
自分が知らない時間を過ごしてきた、一人の相手として。
最初の問いは、なぜ存在しているのか、だった。
聞き終えたあとには、その問いの意味も、少し変わっているのかもしれない。
今は、そんなことまで考える余裕はなかった。
ただ、彼女が話そうとしていることを、途中で見失わないようにしたかった。
風の音が、かすかに強くなる。
セリシアの長い髪が、肩から背中へ流れた。
いろはは、その動きを見ていた。
確かに、ここにいる。
さっきまで何度も疑った事実を、もう一度、静かに確かめる。
記録映像を見ているのではない。
誰かの説明だけで、存在を知らされたわけでもない。
彼女は目の前で呼吸をし、問いを聞き、返事をしようとしている。
その声を、今の自分の耳で聞くことができる。
消えたはずだという記憶は、なくならない。
しかし、目の前の彼女を否定するために、その記憶を使うつもりはなかった。
何があったのかを知ればよい。
自分達が知らなかったことを、聞けばよい。
いろはは、ようやく、その姿勢で彼女を見つめることができた。
レイが、隣で静かに待っている。
リュミナも、その場にいる。
少し離れたところには、はちとヘルカイザー。
誰もが同じことを知っているわけではない。
この空の下に集まるまでの道のりは、それぞれ違っている。
その違いが、いま目の前へ現れていた。
いろはが終わったと思っていた先に、彼女達にとっての続きがあった。
何も知らないままでは、その違いを埋めることはできない。
セリシアが、静かに口を開いた。
「分かりました……」
いろはは、小さく頷いた。
先を急かす言葉は、もう出さなかった。
問いに答えてもらうために必要なのは、次の質問を重ねることではなく、彼女の声へ耳を傾けることだった。
名前を呼んでほしいと伝えたときの、短い応答が頭をよぎる。
こちらの言葉を、彼女は受け取ってくれた。
今度は、その番がこちらへ来たのだ。
アークレイの重みを、手のひらで確かめる。
警戒は、まだ解いていない。
ヘルカイザーの目的が変わったわけでも、彼女達と向き合う理由が消えたわけでもない。
それでも、話を聞くことはできる。
目の前の相手が差し出そうとしている説明を、最後まで受け止めようとすることはできる。
セリシアの視線が、いろはとレイへ向いた。
落ち着いた瞳だった。
再会の挨拶を告げたときと同じように、声も、静かだった。
「では……話します」
いろはは、息を整えた。
あの戦いのあと、何があったのか。
消滅したはずの彼女達が、なぜ、今も存在しているのか。
そして、ヘルカイザーと出会い、こうして彼の呼び掛けに応えるまでに、何を経験したのか。
まだ、答えは一つも知らない。
けれど、その答えを語る相手は、いま、目の前にいた。
セリシアの口元が、ゆっくりと動き始める。
いろはは、記憶にある声の、次の言葉を待った。
かつての宿敵が語る、いろは達の知らない時間。
その物語が、静かに始まろうとしていた。
――第46話・了――




