第45話 次元神対次元神
風が、三人の間を吹き抜けた。
アルカディアの空は、腹立たしいほど晴れている。遠くの雲はゆっくりと流れ、眼下の草原には、先ほどまでと変わらない緑の波が広がっていた。
その穏やかな景色を背に、小さな白い竜が浮かんでいる。
左右の前脚には、二丁の漆黒のライフル。背中に広がる黒い翼も、足元に落ちる紫の影も、愛嬌のある顔立ちとはひどく不釣り合いだった。
「さて……いつでもどうぞ♪」
ヘルカイザーは、笑っていた。
相手が三人に増えても、いろはが魔導杖を向けても、その表情には何の変化もない。レイが見据えているのは銃口か、それとも、母の消息を知っているという彼の顔か。その両方なのだろう。握り締めた手に、力がこもっている。
勝てば、レティシアの居場所を教える。
その約束は、ほんの少し前に交わされたばかりだった。
はちはダークアークレイを握る手を確かめた。
ユニゾンによって銀紫色へ変わった髪が、頬をかすめる。紫の瞳は、ヘルカイザーの小さな動きを追っていた。
左腕の外側では、SIAの魔力ディスクが青白く光っている。セレスティアの召喚は、まだ続いていた。
頼れる相手が、そばにいる。
それでも、安心してよい状況ではなかった。
(相手も次元神なんだよな……)
街へハブを送り出していた裂け目は、こちらのゲートで塞いだ。だが、それだけで相手の力まで封じられたわけではない。
空間を開く。攻撃を通す。別の場所へ逃がす。
自分が普段使っている手段を、目の前の相手も使える。
咲との模擬戦で頼りになった防御が、今度は攻撃を阻む側へ回るのだ。
はちは視線を動かさず、二人へ念話を送った。
『いろはさん、レイさん』
『どうしたの? はちちゃん』
『あいつは、自分が引き受けます。隙ができたら……大きいのをお願いします』
声に出さない相談だった。
ヘルカイザーの注意を引き受け、その間にいろはとレイが攻撃を整える。正面から撃ち合うだけでは届かないのなら、彼が対応しきれない瞬間を作るしかない。
はちは、短く付け加えた。
『合図を送ります』
いろはは、すぐには返事をしなかった。
白い竜の向こうで、幾重にも揺れた空間を思い出していた。五発のカートリッジを使った砲撃さえ、彼には届かなかった。その相手を、はち一人に引き受けさせる。
作戦の意味は理解できる。だからこそ、頷くことにためらいがあった。
『……分かった。でも、無理したら駄目だよ』
『はい。分かっています』
レイも、小さく頷く。
母のことを確かめたい気持ちはある。それでも、はちを置き去りにして答えだけを求めるつもりはなかった。
彼女の視線はヘルカイザーを捉えたまま、はちとの距離を確かめている。
合図が来れば、すぐに動く。そのための位置だった。
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
戦闘前の、張り詰めた静けさ。
それを破ったのは、ずいぶん気の抜けた声だった。
「あっ、相談は終わりました?」
はちの眉が、ぴくりと動いた。
ヘルカイザーは口元へ前脚を添え、ふぁ、と大きな欠伸をしている。
念話の内容まで聞かれたのか。それとも、動きを止めた三人を見て察しただけなのか。確かめる材料はなかった。
分かるのは、待たされて退屈していると、わざわざ見せつけていることだけだ。
「誰も仕掛けてこないなら……」
二丁のライフルが、わずかに持ち上がった。
「こちらから行きますね♪」
ぽちゃん。
場違いなほど小さな音が、空気に落ちた。
はちの前に、透明な波紋が広がる。水滴を受けた水面のように、円が幾つも重なった。中心が内側へくぼみ、向こうの景色が引き延ばされていく。
ピシッ、と亀裂が走った。
同じ現象が、いろはの近くにも起きていた。
レイの脇にも、空間の裂け目が口を開く。
「……っ!」
一つを警戒している間に、別の一つが開いている。
はちは反射的に身を引いた。
直後、裂け目から細長い影があふれ出した。
ハブだった。
何匹もの身体が絡み合い、ほどけながら、三人へ向かって落ちてくる。先端で舌が揺れた。陽光を受けた鱗が、ぬらりと光る。
「またハブ!?」
いろはの声が裏返った。
肩へ落ちてきた、あの冷たい重み。身体に巻き付かれ、動きを封じられた感覚が、一瞬でよみがえる。
しかし、今度は見ていた。
アークレイを引き寄せ、斜めへ身体を滑らせる。つい先ほどまで顔のあった場所を、ハブの群れが通り過ぎた。
レイも、素早く距離を取った。
こちらへ伸びてくる身体をかわし、巻き付かれる前に射程の外へ出る。
はちは白いフード付きジャケットの裾を翻し、すぐ脇を落ちていく影から逃れた。
足先に、鱗の光がかすめる。
ほんの少し遅れれば、服の上から絡み付かれていた。
「おやおや♪ よくかわせましたね」
三人とも捕まらなかったことが、残念なのか、嬉しいのか。
ヘルカイザーの笑顔からは、読み取れない。
はちは息を整えるより先に、彼の前脚を見た。
ハブを見てしまった。その一瞬で、銃口の位置が変わっている。
「でも……これはどうですかね?」
二丁の黒い銃が、下方を向いた。
はちの身体が自然に回避の姿勢を取る。銃口の向きから、光が通る軌道を読む。
これなら、横へ抜けられる。
低い砲声が響いた。
まばゆいエネルギーの塊が、銃口を離れる。
空気が押しのけられ、白い竜の前に光の筋が伸びた。
だが、それは予想した軌道を最後まで進まなかった。
「次元神発動♪」
弾の進路に、水面のような揺らぎが生まれる。
裂け目が開き、撃ち出された光を丸ごと飲み込んだ。
(転送……!)
はちが視線を戻した、その正面。
今度は、手を伸ばせば届きそうな距離に、別の裂け目が開いていた。
近い。
それでも、一発なら避けられる。
そう判断した瞬間、光がはじけた。
一本の線だったはずの攻撃が、無数の細い光弾になって、裂け目から噴き出す。
正面だけではない。左右へ、上下へ。散弾のように広がる光が、はちの逃げようとした空間まで塗り潰した。
「シールド!」
咄嗟に張った魔力障壁が、視界を覆う。
光弾が次々と衝突した。
ドガガガガッ!
衝撃が腕を伝い、肩へ突き上がってくる。
一発を受け止めた場所へ、次の一発が重なった。障壁の表面に走る光が、ひびのように細かく割れる。
耐えられない、と分かったときには、もう遅い。
パキィンッ!
防壁が砕けた。
飛び込んでくる光を前に、はちは身体をひねる。障壁が稼いだ、わずかな時間。その間に見つけた隙間へ、ほとんど倒れ込むように飛び込んだ。
肩の脇を、光が抜ける。
翻った銀紫色の髪が、衝撃にあおられた。
「くっ……!」
体勢を立て直す。息が、短く詰まった。
シールドだけで受け止めようとしていたら、直撃していた。
はちは、閉じかけた裂け目へ目を向けた。
その奥に、何かが残っている。
薄い、網のようなものだった。
光の向こうへ張り渡されたそれが、空間の揺らぎに合わせて、かすかに形を変えている。
(あれか……!)
転送された一発は、出口で突然増えたのではない。
裂け目の内側に仕込まれた網が、エネルギーを細かく分け、広い範囲へばらまいたのだ。
はちには、そう見えた。
攻撃の向きだけでなく、広がりまで変えている。
同じように空間を開いているのに、使い方が違う。
知っている能力だからと、次の動きまで知っているつもりになってはいけない。
「これもかわすとは、すごいですねぇ♪」
ヘルカイザーは、満足そうだった。
はちがようやく整えた呼吸とは対照的に、声は少しも乱れていない。
いろははアークレイを握り直した。
今の攻撃を、自分が受けていたら。
考えかけて、やめる。
はちは回避した。ならば、こちらも次へ備えなければならない。
ただ心配して見ているために、任せたのではない。
レイは、ヘルカイザーの背後へ目を走らせた。
攻撃を通す裂け目は、一つとは限らない。銃口だけを追えば、今のように別の方向から来る。
三人とも、そのことを理解した。
彼は一度の攻撃で、こちらの警戒する場所を増やしてしまったのだ。
はちは、傍らの白い巨竜へ声を飛ばした。
「セレスティア!」
大きな翼が開く。
陽光を受けた身体が向きを変え、細長い首の先に、青白い光が集まり始めた。
はちの左腕では、魔力ディスクが召喚を支える光を保っている。
セレスティアは小さな主の声に応えるように、ヘルカイザーを真っすぐ捉えた。
口元の光が膨らむ。
周囲の空気が震え、低い唸りが風へ重なった。
「撃って!」
青白い奔流が、空を貫いた。
先ほどのライフルとは違う、太く、まばゆい光。
それが一直線に、小さな白い竜へ迫る。
ヘルカイザーは、軽く目を見開いた。
「おっと♪」
黒い翼が、大きく羽ばたく。
彼の身体は上へ跳ね上がった。
ついさっきまで浮いていた場所を、セレスティアの砲撃が通り過ぎる。
白い身体を、青白い照り返しが下から照らした。
逃げた先へ、はちが杖を向けた。
ダークアークレイの先端には、すでに黒い魔力が集まっている。
「このっ!」
黒い魔力弾が放たれた。
上昇を終えたばかりのヘルカイザーへ、一直線に飛ぶ。
最初の砲撃をかわす方向を絞り、その移動先へ次の攻撃を重ねる。見ていたいろはにも、狙いは分かった。
だが、ヘルカイザーは笑顔を崩さない。
「何の♪」
ぽちゃん、と波紋が生まれた。
黒い魔力弾の前に、次元の裂け目が開く。
直撃するはずだった一発は、その奥へ消えた。
空には、何も残らない。
それを確かめたヘルカイザーが、感心したように頷く。
「なかなか良いコンボですねぇ。しかし……この程度の攻撃は、自分には効きませんよ?」
はちは、答えなかった。
効かないことは、分かっていた。
だから、撃ったのだ。
セレスティアの光へ目を向けさせ、次には黒い魔力弾を処理させる。
こちらを見ているつもりのまま、彼の注意は、迫る二つの攻撃に向いていた。
その間にも、はちは空間へ働きかけていた。
「……おや?」
ヘルカイザーの視線が、わずかに横へ動く。
何もないはずの場所に、虹色の縁が揺れていた。
反対側にも、同じ光がある。
上にも。下にも。そして、背後にも。
「これは……」
彼を取り囲むように、幾つもの裂け目が開いていた。
ディメンションゲートと、ディメンションボックス。
二つを組み合わせ、周囲へ射線を通す。
咲との模擬戦でも用いた手だった。しかし、目の前の相手に対しては、ただ並べるだけでは足りない。
見せる攻撃を続け、その陰で、囲む準備を整える必要があった。
はちの指が、杖を強く握った。
相手が周囲を見た。
その瞬間を、逃さない。
「これで終わりです!」
裂け目の奥が、一斉に輝いた。
無数の魔力弾が、あらゆる方向から撃ち出される。
頭上から落ちる光。足元からせり上がる光。左右から交差し、背後から迫る光。
空を埋める射線が、白い小さな身体へ集中した。
「ちょっ……」
ヘルカイザーの声が、途中で途切れる。
轟音。
光と光が重なり、激しい爆発が空中で膨らんだ。
衝撃波が風を押しのけ、いろはの髪を激しく揺らす。レイが片腕を上げ、吹き寄せる圧力から顔をかばった。
白煙が、輪郭を失いながら広がっていく。
その中心にいたはずの白い竜は、見えなくなっていた。
はちは、杖を下ろさなかった。
爆煙の中から視線を外さず、口を引き結んでいる。
あれだけの数を、逃げ道を塞ぐように撃ち込んだ。
普通の相手であれば、もう戦いを続けられないかもしれない。
「はちちゃん……」
いろはが、ためらいがちに呼び掛けた。
「少し、やり過ぎじゃ……」
「私も、そう思う……」
レイの声にも、戸惑いがあった。
銃を向けてきた相手だ。街にハブを放ち、多くの人を苦しめたのも彼だった。
それでも、先ほど見えていたのは、あまりに小さな身体だった。
あの集中砲火の中へ消える姿は、二人に一瞬、別の心配を抱かせた。
「いえ……次元神には、これくらいしないと」
はちは答えた。
声には、勝ったという確信がない。
「それに……」
言葉が止まる。
煙の奥を見ようとして、紫の瞳が細められた。
あの笑顔が、頭から離れない。
攻撃の広がりまで変え、余裕を持ってこちらを眺めていた相手が、これで終わるだろうか。
(当たっていてくれれば……)
願望を、判断に変えてはいけない。
自分自身、窮地から何度も空間を使って抜け出してきたのだから。
「それに……何ですか?」
すぐ近くで、声がした。
「……え?」
いろはとレイが、同時に振り向いた。
はちも、声の方へ顔を向ける。
そこに、ヘルカイザーがいた。
煙の中ではない。
爆発が起きた場所から離れた、何もなかったはずの空中に、彼は浮かんでいた。
両の前脚を背後へ回し、三人を眺めている。
白い身体には、傷一つ見当たらなかった。
毛並みさえ乱れていない。
いろはの喉が、小さく鳴った。
あれだけ撃たれて、無傷。
心配した直後だったからこそ、その事実がいっそう重く感じられた。
はちの背中へ、冷たいものが走る。
(当たる直前に……ゲートで逃げたか)
転移した瞬間は、見えなかった。
爆発の光に紛れたのか、それより前だったのか。
ただ、ここにいる彼と、今も煙の残る場所を見比べれば、攻撃をかわされたことだけは明らかだった。
「なかなか面白い組み合わせをしますねぇ♪」
ヘルカイザーは、愉快そうに告げた。
はちが必死に組み立てた攻撃を、珍しい工夫でも見せられたように語っている。
「では、参考になったお礼に……自分も一つ、芸をやりますね♪」
はちは、息を詰めた。
さっきの網が脳裏をよぎる。
今度は、どこへ裂け目を開くのか。どんな形に攻撃を変えるのか。
杖を向け直し、相手の前脚へ目を凝らす。
しかし、ヘルカイザーは、はちだけを見てはいなかった。
「それに、いろはさん達も、お暇そうですので♪」
いろはの表情が引き締まる。
こちらの動きまで、見られていた。
はちの攻撃に合わせるため、二人が力を残していることを、どこまで察しているのだろう。
レイも口を引き結んだ。
ヘルカイザーは、そんな二人へ前脚を差し出した。
「これ……なーんだ?♪」
そこにあったのは、銃ではなかった。
いつの間にか黒いライフルは姿を消し、代わりに、二つのデバイスが握られている。
いろはの目が見開かれた。
レイが、わずかに前へ出る。
「あれは……」
「もしかして……」
はちは、二人の横顔を見た。
ただ珍しいものを見た顔ではない。
見覚えがある。
しかも、簡単には忘れられない相手に関わるものなのだ。
「よく覚えていましたね♪」
ヘルカイザーは、二つのデバイスを軽く持ち上げた。
「そうですよ。これは、いろはさん達が倒した、あの残滓が使っていたデバイスです」
いろはの指が、アークレイの柄へ食い込む。
過去の戦いの中に置いてきたはずのものが、目の前にある。
なぜ彼が持っているのか。
いつ、どこで手に入れたのか。
疑問は幾つも浮かんだが、ヘルカイザーは答えを待つつもりなどないようだった。
はちも、その意味を理解し始めていた。
直接その戦いに加わったわけではない。それでも、聞いた話と、二人の反応が結び付く。
エクリプス。
残滓から生まれた、彼女たち。
はちの視線が、二つのデバイスへ戻った。
こちらを挑発するために、ただ見せているだけなのか。
それとも、まだ先があるのか。
「次元神には、こういう使い方もあるのですよ♪」
声と同時に、デバイスが光を帯びた。
ヘルカイザーの前脚を離れ、ゆっくりと浮かび上がる。
二つは空中で静止し、その下へ、それぞれ魔法陣が広がった。
幾何学的な紋様が輪を描く。
幾重にも重なった線が光り、静かに回転を始めた。
低く澄んだ音が、風の中へ伸びる。
いろはは、光の中心から目を離せなかった。
デバイスの下に、輪郭が生まれている。
髪。肩。腕。
何もなかった場所へ、人の姿が形作られていく。
二つの人影が、光の中から現れた。
はちが、思わず息を呑む。
予想はしていた。
だが、実際に目の前で姿を得ていく過程は、予想していたからといって平然と見ていられるものではなかった。
先に、一人がゆっくりと目を開いた。
「珍しいですね……」
落ち着いた声だった。
長い髪を下ろした女性が、ヘルカイザーへ顔を向ける。
「あなたが、私達を呼ぶなんて」
セリシア。
いろはと、よく似た顔立ちだった。
けれど、髪型も、まとっているバリアジャケットの色も違う。
形は近くても、そこにいるのはいろはではない。
静かな瞳でヘルカイザーを見る様子には、彼女自身の落ち着きがあった。
そして、もう一人。
「ホント……どういう風の吹き回しなんだよ?」
少し不機嫌そうに口を開いたのは、水色の髪の女性だった。
顔立ちは、レイによく似ている。
だが、こちらも同じ人物ではないと、すぐに分かる。言葉の調子にも、ヘルカイザーへ向ける視線にも、レイとは違う軽さがあった。
リュミナだった。
二人とも、はちが知識として思い浮かべていた姿より、大人びている。
いろはやレイと同じように、年を重ねた姿。
再び会う相手として、勝手に頭の中へ描いていた輪郭が、目の前の二人に置き換わっていく。
ヘルカイザーは、驚かせることに成功したのが嬉しいようだった。
「いやですねぇ。たまには良いかな、と思いましてね?」
二人へ向けていた前脚を、今度はいろは達へ向ける。
「それに……あなた達にとって、懐かしい人がいらっしゃいますよ♪」
セリシアが、示された方を見た。
その視線が、いろはの顔で止まる。
次いで、彼女が握っているアークレイへ下りた。
「……ほう」
驚きは、ほんのわずかだった。
それでも、すぐに誰であるかを理解したことは分かった。
「確かに……懐かしい人ですね」
いろはは、声を出せなかった。
目の前の女性は、こちらを覚えている。
成長した姿になっても、過去のことがなくなったわけではない。
魔導杖へ向けられた視線が、そのことを、はっきりと伝えていた。
「姿形が変わっても、そのデバイスは覚えています。あなたも、大人になっていたのですね」
セリシアの口元が、わずかに緩んだ。
「……当たり前ですけれど」
静かな感慨を含んだ言い方だった。
いろはもまた、目の前の姿と、記憶にある相手を重ねていた。
名前を呼ぶには、まだ少し遠い。
だが、見間違いだと言い聞かせられる距離でもなかった。
「そうだねー♪」
リュミナは、もっと分かりやすく笑った。
青い髪が、風に揺れる。
彼女の視線は、レイを捉えていた。
「ホント、懐かしいなぁ」
レイは、彼女から目をそらさなかった。
驚きに足を止めていても、相手は待ってくれないかもしれない。
似た顔をした二人が、空中で向かい合う。
その片方だけが、楽しげに目を細めた。
「あいつらには、借りがあるしね♪」
はちの胸に、嫌な予感が広がった。
わざわざ二人を呼んだ理由。
いろは達が暇そうだと言った理由。
それらが、一つにつながっていく。
ヘルカイザーは、その理解を待っていたように頷いた。
「でしょう♪ せっかくですから、彼女らと遊んできたらどうです?」
軽い言葉だった。
近くへ出かけるついでに、知り合いと会ってきてはどうか。そんな調子で告げている。
しかし、その提案が何を意味するか、三人には分かっていた。
セリシアが、いろはを見る。
リュミナが、レイを見る。
はちは、ダークアークレイを握り直した。
自分がヘルカイザーを引き付け、その隙を二人に狙ってもらう。
あの作戦を、根元から崩そうとしている。
「そうですね……」
セリシアは、ゆっくりと頷いた。
「久しぶりに、外へ出られたことですし」
「こっちも、借りを返したいしね♪」
リュミナは、すでに乗り気だった。
デバイスを手に取り、レイとの間にある距離を測るように身構える。
レイの唇が、きゅっと結ばれた。
母の居場所を知る相手は、すぐそこにいる。
それでも、彼だけを見ていればよい状況は、もう終わっていた。
「決まりですね♪」
ヘルカイザーが、満足そうに言う。
そして、二人へ念を押した。
「ただし……やり過ぎて、殺しては駄目ですよ」
セリシアは、当然のことを確認されたように微笑んだ。
「分かっていますよ」
リュミナも、軽く頷く。
「ヘルカイザーは、ホント、殺しとか嫌いだよね。約束は守るよ♪」
はちは、思わず彼女の顔を見た。
(……殺しが、嫌い?)
街へ放たれた、無数のハブ。
治療薬を求めて右往左往していた人々。
いろはから聞かされた、郊外での出来事。
それらと今の言葉が、うまく重ならない。
相手を傷つけることに、ためらいは見えなかった。
恐怖に染まる顔を見て、楽しんでいた。
そんな彼を知っているらしいリュミナが、ごく自然に、殺しを嫌うと口にしている。
はちはヘルカイザーへ視線を戻した。
否定する様子はない。
二人の返事に満足したように、穏やかに頷いている。
何を基準にしているのか。
どこに線を引いているのか。
今の短い会話だけでは、分からなかった。
分からないまま、危険が減ったわけでもなかった。
「では……楽しんでくださいね♪」
その言葉を合図に、二人が動いた。
セリシアは、いろはへ。
リュミナは、レイへ。
デバイスを構えた二つの影が、それぞれの相手へ向かって飛ぶ。
いろはは即座にアークレイを持ち直した。
驚きも疑問も、まだ胸の中に残っている。
それでも、目の前へ迫る相手に、無防備なままでいるわけにはいかなかった。
レイも、リュミナへ向き直る。
ヘルカイザーへ近付こうとするなら、まず彼女に対応しなければならない。
そのことを、相手の進路がはっきりと示していた。
「……っ!」
はちの口から、短い息が漏れた。
二人に合図を送る隙を作るはずだった。
なのに、その二人の前へ、別の相手を置かれてしまった。
追うべきか。
一瞬、視線が横へ動く。
そのわずかな動きを、声が引き戻した。
「さて……」
はちは、正面を見た。
ヘルカイザーが、こちらを見ている。
黒い翼が、ゆっくりと開いた。
先ほどまでと変わらない笑顔なのに、今は、三人の間を隔てる壁のように見えた。
「はちさん。お待たせしましたね♪」
待たせた、と彼は言った。
こちらの攻撃をかわし、新しい相手を呼び、二人をそちらへ向かわせる。
そのすべてを、自分の番が来るまでの支度のように扱っていた。
はちは、杖を構え直す。
左腕の魔力ディスクは、変わらず光を保っていた。
ステラとのユニゾンも解けていない。
使えるものは、まだある。
それでも、最初に描いていた戦い方は、使えなくなっていた。
いろは達の援護を前提に、無理に動くことはできない。
二人は、それぞれ目の前の相手へ対応している。
ヘルカイザーは、まさにその状況を作りたかったのだ。
(……思うつぼか)
悔しさが、喉の奥へ引っ掛かった。
同じ能力を持つ相手を崩すため、三人で隙を作るつもりだった。
その相談の直後から、相手は笑っていた。
どこまで見抜いていたのかは分からない。
だが、今の配置だけは、こちらの望みとは正反対だった。
眼下の草原に、風が走る。
はちとヘルカイザーの間を、何も遮らずに吹き抜けていく。
小さな白い竜が、ゆったりと身体の向きを整えた。
「では、続きを始めましょう♪」
はちは答える代わりに、彼を見据えた。
包囲しても、逃げられた。
攻撃を重ねても、受け流された。
今度は、二人との連携まで崩されている。
それでも、ここで引くわけにはいかない。
街に起きていることも、彼が口にした制圧の目的も、そのままにはできなかった。
レイへ告げた、母の消息もある。
紫の瞳が、ヘルカイザーの前脚を追う。
銃がなくても、空間がある。
何もない場所から、次の攻撃が現れる。
もう、それを知っていた。
向かい合う二人の間に、再び緊張が満ちた。
遠くでは、いろはとレイが、それぞれ懐かしい相手を迎え撃とうとしている。
彼女たちへ向けていた合図の代わりに、はちは正面の相手だけへ意識を絞った。
ヘルカイザーの笑みが、わずかに深くなる。
同じ次元を操る力を持つ者同士。
その戦いは、彼が整えた舞台の上で、再び始まろうとしていた。
――第45話・了――




