第42話 二度目の警告
いろはと別れてから、数時間が過ぎていた。
ヘルカイザーは、アルカディアのとある平原に来ていた。
緩やかな起伏の先まで、草原が続いている。
風が吹くたび、草がさわさわと揺れた。
空は青く、周囲には穏やかな景色が広がっていた。
ヘルカイザーは、それを眺めながら先ほどの魔導師を思い出していた。
天城いろは。
白と紺の装備を纏い、アークレイを構えていた女性だ。
「なるほど……あれが、噂の魔王ですか」
白い悪魔、とも言うらしい。
少なくとも、向けられた砲撃には、相応の力があった。
魔力量も、こちらを止めようとする姿勢も、印象に残っている。
あれだけの魔力を収束させ、狙いを定めて放つ。そのための動きに、迷いは少なかった。止めると決めた相手へ向けて力を使い、こちらが応じなければ次へ移る。
ヘルカイザーは、空を見上げた。いろはがいた場所を思い出すと、手にした杖の輪郭まで浮かぶ。彼女の目的は、自分とは違っていた。だが、相手の力がどの程度かを知るうえでは、短い出会いでも、見ておけるものはあった。
それを脅威として嫌うよりも、次は何をするだろうと考えている。ヘルカイザーの興味は、その先へ向いていた。
男への攻撃を中止しろと言い、制圧の宣言を聞いても引かなかった。
武器を出せば、こちらへ杖を向ける。
景色を破壊しようとすれば、すぐに止めようとした。
ヘルカイザーの口元へ、笑みが浮かんだ。
「ふふっ……♪」
なるほど。
これからの仕事は、退屈せずに済みそうだ。
「さて♪ 次の娯楽……ではないですね」
言い掛けて、自分で言い直した。
遊びに来たわけではない。
社長から指令を受けて、ガーディアンの制圧に来ている。
あくまでも、仕事だ。
「次の作戦を考えますか。楽しみですね〜♪」
改めて、平原へ顔を向ける。
新しいプランを考えようとした、そのときだった。
「見つけたぞ!!」
「……おや?」
背後から、怒鳴り声がした。
「さっきは、よくもやってくれたな!!」
ヘルカイザーは、ゆっくりと振り向いた。
そこには、一人の男が立っていた。
どこかで見た顔だ。
少しだけ目を細めてから、思い出す。
先ほど、いろはの介入で逃げ出した男だった。
「……ほう?」
今度は、一人ではなかった。
周囲に複数の人物が集まり、こちらを見ている。
仲間を連れて戻ってきたらしい。
ヘルカイザーは、その顔ぶれから最初の男へ視線を戻した。
「おやおや……また、殺られに来たのですか?」
男の身体が、びくりと震えた。
目が合った瞬間、先ほどまでの経験が戻ったのだろう。
それでも、今度はすぐに逃げ出さなかった。
男は、背後の仲間がいることを確かめるように、僅かに目を動かした。自分が先頭に立っている。それでも、一人ではないという意識が、声を出す支えになっているようだった。
ヘルカイザーは、その動きも見ていた。先ほどは自由になった瞬間、一目散に逃げた相手だ。今度は、自分の後ろにいる者たちまで、こちらへ向けている。
数を増やせば、何かが変わると思ったのだろうか。問い掛けるまでもなく、男の構えが答えを示していた。
「つっ……強がりやがって……!」
声を震わせながら、睨み返す。
「今回は、仲間もいるんだぜ!?」
周囲の男たちが、一歩前へ出た。
一人ではなかったことが、最初の男を踏み留まらせているようだった。
ヘルカイザーは、取り囲もうとする動きを眺める。
「お前一匹で、何ができる!?」
その言葉を合図に、男たちがバリアジャケットを展開した。
光がそれぞれの身体を包み、戦闘用の装備を形作っていく。
装備が整うにつれて、彼らの構えもはっきりした。
話し合うために来たのではない。
今度は、人数を揃えて戦うつもりなのだ。
「……ふむ」
ヘルカイザーは、小さく息を吐いた。
せっかく、いろはが止めてくれたというのに。
逃げることができたのに、また目の前へ戻ってきた。
「せっかくガーディアンが、止めてくれたのに……」
最初の男を、見据える。
「一度は、許してあげましたのに……」
逃げたのを見送ったことを、ヘルカイザーはそう言った。
口元にあった笑みが、少し薄くなる。
「二度目は、ないですよ?」
声が、低くなった。
先ほどまでの気軽さが、一瞬だけ引いている。
ここで引き返すなら、それもよい。
ヘルカイザーにとっては、それが最後の忠告だった。
声が低くなった分だけ、周囲の草の擦れる音が耳に入った。誰かが一歩を踏み直す。男たちは装備を整えたまま、目の前の小さな身体を見ていた。
引き返すための道は、まだ見えていた。攻撃を放つ前なら、ここで止めることもできる。ヘルカイザーは男の顔から視線を外さず、その返答を待った。
だが、男は後ろにいる者たちの前で退くことを選ばなかった。震えを隠すように声を張り上げ、その声へ仲間の視線が集まった。
男は、唇を震わせた。
背後にいる仲間へ目をやり、それから大きく声を出す。
「うっ……うるせぇ!!」
ヘルカイザーは、その顔を見ていた。
「皆! やっちまおうぜ!!」
次の瞬間、幾つもの魔力弾が生まれた。
男たちが、一斉に攻撃を放つ。
正面から、左右から。光が、それぞれの軌道で迫ってきた。
ヘルカイザーは、動かなかった。
足元の草が、風に揺れている。
男たちの放った魔力だけが、急速に距離を縮めていった。
「次元神発動!」
短い声が、響いた。
ぽちゃん。
何もない空中へ、透明な波紋が生まれる。
輪が重なり、ゆっくり広がっていった。
その中心から、景色が内側へ引き込まれるように歪んだ。
ピシッ。
次元の裂け目が開く。
飛来する魔力弾が、次々とその中へ飲み込まれた。
一発も、ヘルカイザーへ届かない。
横から迫った光も、正面を狙った弾も、すべてが消えていく。
最後の一発が吸い込まれると、裂け目は静かに閉じた。
魔力弾が途切れた後、男たちの腕だけが、まだ相手へ向いていた。攻撃が通る先を見ていた目に、小さな白い姿が戻ってくる。
一斉に放ったのだから、どれかは当たるはずだった。少なくとも、避けるために動かせるとは思っていたのだろう。だが、相手の足元にあった草も、立つ位置も、大して変わっていない。
ヘルカイザーは、次の攻撃を急いで返そうともしなかった。手を止めた彼らへ目を向け、その顔に理解が追いつくのを眺めている。その余裕が、撃った者たちをさらに黙らせた。
そこには、小さな白い竜が立っていた。
構えを崩すどころか、その場を動く必要さえなかった。
「なっ……!?」
声を上げたのは、最初の男だった。
仲間たちも、目を見開いている。
攻撃を放った姿勢のまま、その先を見つめていた。
狙った相手が小さすぎたのでも、避けられたのでもない。
放った攻撃が、届く前になくなった。
人数を揃えて撃ち込んでも、何も変わらなかったのだ。
「だから、言ったのに……」
ヘルカイザーが、男たちへ目を向けた。
「あなたたちは……もう……」
一度、言葉が途切れる。
誰も、その続きを遮らなかった。
「後戻り、できませんよ……」
その瞬間、空気が変わった。
ヘルカイザーから、殺気が向けられる。
「ひっ……!?」
男の顔が、恐怖へ歪んだ。
先ほどまで相手を睨みつけていた目が、もう定まらない。
「ばっ……化け物……!」
仲間たちも、次々に表情を変えた。
一歩下がる者がいた。
武器を構えたまま、動けなくなる者もいた。
膝から力が抜け、地面へ尻餅をつく者までいる。
ヘルカイザーの姿は、変わっていない。
小さな白い身体と、背中の黒い翼。
だが、もう誰も、その大きさだけを見て笑おうとはしなかった。
最初の男も、仲間たちを振り返って声を掛けることができなくなっていた。先ほどまでは人数がいることを誇っていたのに、今はその人数でも届かなかった事実が、周りに立っている。
ヘルカイザーの目が、ゆっくり一人ずつを見た。見返そうとした者の顎が引かれ、構えていた腕が強張る。
白い顔が微笑んでいることは、もう安心の理由にならない。動かずに攻撃を消した相手が、今度は自分たちへ何をするのか。その想像が、足を止めていた。
「ふふっ……♪」
笑みが、戻る。
「逃がしませんよ♪」
片方の前脚が、持ち上がった。
パチンッ。
乾いた音に続いて、足元の草原が歪んだ。
男たちが、慌てて周囲を見る。
空も、遠くの景色も、静かな水面へ映したように揺れていた。
そこへ、虹色の光が混じっていく。
赤、青、緑、紫。
幾重もの色が重なり、平原の輪郭を覆い隠した。
どこへ目を向けても、見慣れた景色がない。
草が揺れていた地面も、青空も、遠くの起伏も消えていた。
「なっ……!?」
男たちは、自分の足元を見た。
それから、ヘルカイザーを見る。
彼だけが、この変化を当然のこととして受け止めていた。
男の一人が、消えた平原の方へ顔を動かした。先ほどまでなら、そちらへ走れば距離を取れたはずだった。だが、今は、草原へ続いていた方向そのものが分からない。
頭の上を見ても、青空がない。隣にいる仲間の姿だけが、さっきと同じだった。知らない場所にいるということを、見慣れた顔の怯え方で確かめている。
ヘルカイザーは、小さな身体のままそこにいた。景色を変えた者だけが、何も失っていないように見えた。
「ここは……?」
最初の男が、震える声で呟く。
「ここは、次元の中ですよ♪」
「……次元?」
「ええ。この中では、魔法が使えないですよ♪」
男たちの顔が、さらに強張った。
見知らぬ場所へ移され、頼みの力まで封じられる。
その説明を聞いても、すぐに理解できる者はいなかった。
ヘルカイザーは、周囲を確かめる彼らを見ている。
だが、ここで驚くのは、まだ早かった。
ざわ……。
何かが動く音がした。
「……ん?」
ざわざわ……。
恐る恐る振り向いた男の顔が、固まった。
周囲へ、無数の生き物が集まっている。
シーサー。
ヤシガニ。
ハブ。
そして、マングース。
ヘルカイザーが今回連れてきた、沖縄四天王だった。
「な、何だ!? こいつらは……!」
男たちの視線が、次々と動く。
見た目の違う生き物が、同じように周囲を埋めていた。
どれか一種類だけが現れたのではなかった。シーサーの輪郭へ目を向ければ、その近くでヤシガニが動く。さらに視線を下げると、ハブとマングースの姿があった。
男たちは、自分たちを囲むものが何なのか理解しようとした。だが、姿の名前が分かったところで、この状況がどうにかなるわけではない。
そこへいるだけなら、まだ目を逸らせたかもしれない。今は、こちらの動きを囲む位置に集まっている。生き物の姿を確かめるたびに、逃げられると思える隙間が少なくなっていった。
一方だけを見れば、別の方向が気になる。
逃げる道を探しても、視線の先にその姿があった。
ヘルカイザーは、その全体を眺めていた。
「さて……自分に喧嘩を売った愚かさを、その身をもって学習しなさい♪」
男たちへ向けてから、四天王へ顔を向ける。
「沖縄四天王!」
生き物たちが、一斉にこちらを向いた。
「増殖して、この方たちの相手をしなさい♪」
一匹が、二匹になった。
二匹が、四匹になる。
四匹が八匹になり、その先でも同じ変化が続いていく。
男たちは、言葉を失った。
もともと多いと思った数が、目の前で増えている。
十。
百。
千。
万。
見渡す先を、同じ姿が埋めていく。
百万、千万。
やがて、その数は一億へ達した。
それでも、増殖は終わらない。
新しい個体が、次から次へと現れ続けていた。
男たちの視線では、もう増え方を追いきれなかった。さっき何もいなかった場所を見れば、そこにも同じ姿がいる。その向こうにも、さらに奥にも、輪郭が重なっていた。
目で数えようとする間に、その数が変わってしまう。十や百のときに感じた驚きは、すぐ役に立たなくなった。
ヘルカイザーは、その増殖を止める指示をしなかった。生き物たちの向こうを眺め、男たちの反応を確かめる。命令を受けた四天王は、まだ増えていた。
「ひっ……!」
最初の男が、小さく悲鳴を上げた。
先ほどまで、こちらには仲間がいると叫んでいた。
今はその人数など、目の前の光景では意味を持たなかった。
逃げ場は、どこにも見えない。
ヘルカイザーは、にっこりと笑った。
「……おっと。その前に♪」
四天王を向かわせる前に、男たちへ薬を投与する。
その動作は、合計十回。
「今から五時間の不死薬を、打っておきましょう♪」
五時間。
男たちは、その言葉と、周囲へ増え続ける生き物を見比べた。
「では♪ 目一杯、楽しんでくださいね♪」
ヘルカイザーの顔は、明るかった。
「五時間の生き地獄を♪」
増殖した四天王が、一斉に動き出す。
次元の中へ、男たちの悲鳴が響いた。
ヘルカイザーは、その場の相手を四天王へ任せることにした。
ただし、最初に攻撃を仕掛けてきた男だけは別だ。
まだ、こちらにも用事がある。
彼はその男を連れて、次元の中を後にした。
◇
平原へ戻ると、風が草を揺らしていた。
青空も、遠くの起伏も、先ほどと変わっていない。
次元の内側とは違い、こちらは静かだった。
ヘルカイザーは、連れてきた男を地面へ下ろした。
ドサッ。
「た、助けてくれ!!」
男は、必死に見上げてきた。
「頼む!!」
今度は、一人だった。
強がるために見回せる仲間は、ここにはいない。
男は、目の前の小さな竜へ頼み続ける。
「……ふむ」
ヘルカイザーは、その顔を覗き込んだ。
「では……貴方に、最後の選択を与えましょう♪」
「……え?」
男が、顔を上げる。
ヘルカイザーは、ゆっくり言葉を続けた。
「貴方の命と、仲間たちの命……」
少し、間が空いた。
風が吹き、草が揺れる。
「どちらか、選びなさい♪」
男は、ヘルカイザーを見つめていた。
「それによっては、考えますよ?」
ヘルカイザーは、答えを待った。
何を選ぶだろうか。
今度こそ、すぐには答えないかもしれない。
男の目が、ヘルカイザーと周囲の景色の間を動いた。ここには、仲間たちの姿がない。命を選べと言われた相手の顔も見えず、その向こうで何が続いているかも分からなかった。
今、自分だけが平原へ連れ戻され、問い掛けられている。その違いが、答えを急がせたのかもしれない。
ヘルカイザーは、男の口元を見ていた。返事をせかすことも、どちらを選べばよいかを教えることもしなかった。ただ、次に出てくる言葉を待っていた。
だが、返事は即座に来た。
「俺の命だ」
ヘルカイザーは、黙った。
自分の命。
男は、迷わずそう選んだ。
仲間を連れて戻ってきて、その仲間を置いて助かろうとしている。
そのことに対するためらいは、答えを聞く限り感じられなかった。
男の声には、今度こそ助かりたいという切実さがあった。だが、その答えの中に、連れてきた者たちのことを気にする言葉はなかった。
ヘルカイザーは、その短い返事を聞き終えても、すぐには頷かなかった。自分が問い掛けた二つの選択肢と、男が差し出した一つの答え。その間に、まだ何かが挟まるのを待った。
しかし、男はヘルカイザーを見つめ返しているだけだった。助けてほしいのは自分だと、すでに選び終えていた。
ヘルカイザーの目が、僅かに細くなる。
残念だ。
本当に、残念だった。
「貴方の命ですね♪」
声だけは、穏やかだった。
「では……死になさい♪」
次元の裂け目が、一瞬だけ開いた。
その境界が男を襲い、身体の支えが失われる。
悲鳴とともに、男は地面へ崩れ落ちた。
「ウギャアアアアッ!!」
男は顔を歪め、ヘルカイザーを見上げた。
「なっ……何故……!? 約束が……違う……!」
ヘルカイザーが、首を傾げる。
「おや? 誰も、助けるとは言っていないですよ?」
「……なっ!?」
「自分は、考えると言っただけです♪」
男の顔が、怒りに変わった。
助かると思った瞬間に、その期待を取り上げられた。
歯を食いしばり、言葉を吐く。
「きたねぇ……!」
再び、裂け目が開いた。
男の悲鳴が、平原へ響いた。
ヘルカイザーは見下ろしたまま、小さく息を吐く。
「人聞きが悪いですねぇ……簡単に仲間たちを売る貴方には、言われたくないですよ?」
この選択には、別の結末も用意していた。
もし男が、自分ではなく仲間の命を選んでいたなら、助けるつもりだった。
仲間を裏切らない相手なら、考えは違った。
だが、男は自分だけ助かる方を、迷わず選んだ。
ヘルカイザーは、その答えを許すつもりがなかった。
先ほどまで仲間の数を頼みにしていた顔を、ヘルカイザーは覚えていた。自分一人ではなく、皆で来たのだと男は叫んでいた。
その皆が、助かるための問いには含まれなくなった。自分の命を選んだ瞬間に、男の中で何が残り、何が切り捨てられたのか。ヘルカイザーは、それを答えとして受け取っていた。
男には、選択の裏にあった考えは分からない。目の前の相手が、どうして残念そうにしているのかも、理解できないままだった。
男は、まだ睨み返していた。
残った力で腕を向け、魔力を集中させる。
「くそがぁぁぁっ!!」
魔力弾が、放たれた。
「……おや?」
ぽちゃん。
ヘルカイザーの目の前へ、波紋が広がった。
その中心が歪み、漆黒の裂け目が開く。
飛んできた魔力弾は、そのまま吸い込まれた。
「……なっ!?」
男の目が、見開かれる。
最後の攻撃も、相手へ触れなかった。
「無駄な足掻きを……」
ヘルカイザーは、小さく呟いた。
何度やっても、同じことだ。
そろそろ、次へ移るとしよう。
パチンッ。
前脚を動かすと、景色が再び歪んだ。
今度は、先ほどとは別の次元だった。
平原が消え、男はまた見知らぬ空間へ連れていかれる。
「なっ……!?」
周囲を見る男を、ヘルカイザーは眺めていた。
薬の効果で、その身体の傷は再生していく。
だが、恐怖までは消えていない。
新しい場所へ来たことも、安心には繋がらなかった。
「さて……」
そろそろ、あの子の出番だ。
ヘルカイザーは、今回連れてきた相手を呼ぶことにした。
男の前へ、一匹のヒヨコが現れた。
黄色い、小さな身体。
丸く、愛嬌のある姿。
短い脚で、ちょこんと立っている。
ガルデローベ社のマスコット、トロンベだった。
「…………」
男は、ぽかんと口を開けた。
しばらくヒヨコを見つめ、それからヘルカイザーへ顔を向ける。
「おい……」
「はい?」
「まさか……このヒヨコが相手だと言うなよ?」
「そうですよ?」
ヘルカイザーは、当然のように頷いた。
「ちなみに……このトロンベに勝てたら、命を助けてあげても良いですよ♪」
勝てたら、の話だ。
ヘルカイザーはそう思いながら、男の顔を見た。
男は、もう一度トロンベへ視線を落とした。
傷は再生している。
今、目の前にいるのは、小さなヒヨコだ。
「へっ……!」
恐怖に強張っていた口元が、歪んだ。
「後で吠え面かくなよ!?」
男が、立ち上がった。
そのままトロンベへ駆け出していく。
素手だった。
ヘルカイザーは、その姿を見送った。
相手がヒヨコだから、簡単に勝てると思ったのだろう。
だが、トロンベへそのやり方で挑むのは、少々無謀だった。
男が、殴りかかろうとした瞬間。
ゲシッ!
「……がっ!?」
男の身体が、大きく揺れた。
何が起きたのか理解する前に、小さな黄色い姿が、次の動きへ移っている。
ゲシッ! ゲシッ!
「いだっ!? いだだだっ!?」
反撃しようとすると、その前に当たる。
腕を振るよりも、トロンベの動きの方が速い。
小さな身体からは想像できない鋭さで、次々に攻撃が届いた。
「なっ!? 何だ、こいつは!?」
男が、距離を取ろうとした。
だが、そこへもトロンベが追いつく。
ゲシッ!
「ぐはっ!?」
ヘルカイザーが、楽しそうに目を細めた。
見た目だけで判断すると、こうなる。
トロンベは、肉弾戦にめっぽう強かった。
本気になれば、人間を軽く四回転させるほどの勢いで殴り飛ばせる。
小さなヒヨコへ素手で挑んだ男は、その実力をまったく知らなかったのだ。
男が腕を振ろうとする位置より、トロンベはずっと低いところにいる。小さすぎて困る相手だと思うより早く、その位置から鋭い動きが届いてしまう。
追い払うつもりで出した手も、攻撃の勢いを止められない。男は大きく身体を動かし、その分だけ、また次の動きへ遅れた。
ヘルカイザーは、そのやり取りを眺めていた。小さな黄色い姿を見て笑った口元が、今は引きつっている。相手の見た目が変わったわけではない。変わったのは、男の方の受け止め方だった。
しかも、今日は機嫌まで悪かった。
「……おや?」
トロンベの様子を見て、ヘルカイザーが思い出す。
そういえば、まだ天屋物から餌を貰っていなかった。
それなら、この勢いも納得できる。
男の方は、そんな事情を知るはずもなかった。
「痛い! 痛い!!」
悲鳴が、響く。
ヒヨコを追い払うつもりだった男が、今は小さな身体に追い回されている。
「止めてください!!」
ヘルカイザーが、少し目を見開いた。
「……ふむ」
初めて、敬語になった。
先ほどまでの威勢は、すっかり消えている。
ヘルカイザーへ向ける呼び掛けも変わっていた。吠え面をかくなと叫んだ声と、止めてほしいと頼む声。その違いは、聞き分けようとしなくても分かるほどだった。
男は、トロンベを見るために下を向き、助けを求めるために顔を上げる。そのたびに、小さな黄色い姿を視界から外してしまう。
ヘルカイザーは、丁寧な言葉になったことには気づいた。それでも、相手を引き受けているトロンベへ、止めるよう命じることはしなかった。
だが、それだけでトロンベの相手が終わるわけではなかった。
「それは、無理ですね♪」
「……えっ!?」
ヘルカイザーは、トロンベへ目を向けた。
小さな身体が、男の後を追っている。
「どうやら、トロンベは貴方をオモチャにするつもりみたいですので♪」
これで機嫌がよくなるとよいのだが。
ヘルカイザーは、そんなふうに考えていた。
「助けてください!! お願いします!!」
男が、必死に叫ぶ。
ヘルカイザーは、にっこり微笑んだ。
「では……トロンベが飽きるまで、頑張ってくださいね♪」
「そ、そんなぁぁぁぁ!!」
男の悲鳴を背に、ヘルカイザーはその場を後にした。
◇
次元の裂け目から、アルカディアの平原へ戻った。
ヘルカイザーは、ゆっくり周囲を見渡す。
青空。
草原。
穏やかな風。
相変わらず、平和な場所だった。
先ほどまでいた場所の騒ぎは、ここには届かない。
ただ、草が揺れる音が聞こえていた。
沖縄四天王には、男たちの相手を任せた。
トロンベも、しばらくは退屈しないだろう。
これで、ようやく次の作戦を考えられる。
「さて♪」
ヘルカイザーが、笑った。
「次の作戦に取り掛かりますか♪」
考えたのは、アルカディアへハブを大量に撒くことだった。
女性へ懐き、近づいていくハブたち。
街のあちらこちらで、その姿を見つければ大騒ぎになるだろう。
いろはの驚いた顔が、思い浮かぶ。
突然の出来事に、どうしてよいか分からなくなる人々。
想像した光景に、ヘルカイザーの笑みが深くなった。
「素晴らしいマイナスエネルギーが、出来上がるでしょうねぇ♪」
まだ、実行したわけではない。
だが、次に試すこととしては、なかなかよさそうだった。
制圧のために、できることは多い。
その一つを思いついただけで、退屈せずに済みそうだと思えた。
先ほどまで、頭を悩ませるほどの作戦を考えていたわけではなかった。だが、一つの案が浮かぶと、その結果を見てみたくなる。
平原で聞こえるのは、草を撫でる風の音だ。今は静かな街も、ハブの姿があちこちへ現れれば、違った声を上げるだろう。ヘルカイザーが思い浮かべているのは、その変化だった。
次にどんな反応を見るのか。何が起こるのか。制圧のための仕事と、その興味は、彼の中で自然に重なっていた。
「……ふふっ♪」
小さな白い身体の背で、黒い翼がゆっくり広がる。
「お仕事を、続けるとしましょうか♪」
ヘルカイザーは、次の作戦の準備に取り掛かった。




