第41話 もう一人の次元神
ヘルカイザーが去ってから、数時間が経っていた。
AEGISへ帰還した天城いろはは、かえでたちへ報告を行っていた。
室内にいるのは、見慣れた顔だった。かえでが報告を聞き、隣ではレイがいろはへ向き直っている。それだけで、郊外にいたときとは呼吸の仕方が少し変わった。
だが、帰ってきたからといって、あの短い時間に起きたことまで整理されるわけではない。目の前で消えた砲撃も、突然身体を拘束された感触も、まだ記憶に新しかった。
いろははアークレイへ一度目を落とし、それから顔を上げた。自分だけが見ていたものを、今度は二人へ伝えなければならない。驚いたことと、確かに起きたことを混同しないよう、最初に調査の経緯から話し始めた。
かえでは、途中で結論を急がなかった。レイも口を挟まずに聞いている。その静けさの中で、いろはは一つずつ言葉を選んだ。
発端は、アルカディア郊外で観測された次元震だった。
調査へ向かった先で二つの影を見つけ、漂流者かもしれないと近づいた。
だが、そこにいたのは、拘束された犯罪魔導師と、小さな白い竜だった。
いろはは、そのとき見たことを順に伝えた。
男性が、もう抵抗できない状態だったこと。
「その人は、知ってる相手やったん?」
かえでの問いに、いろはは首を振りかけ、言い直した。
「最初は分からなかった。逃げたときに顔が見えて……犯罪魔導師だって気づいたの」
言葉にすると、その順序は明確だった。素性を知って近づいたのではない。助けを求める声があり、拘束されている姿があったから、止めに入った。
男がどんな者だったのかと、目の前の行為を止める必要があったのかは、同じ話ではなかった。いろははその区別を、曖昧にしたくなかった。
レイが、小さく頷いた。かえでの視線も、先を促すようにいろはへ戻る。説明を聞く二人がそこを取り違えていないと分かり、いろはは男の置かれていた状態から、白い竜の反応へと話を進めた。
それでも白い竜は攻撃を続けようとし、制止を受けると、楽しみを邪魔されたように振る舞ったこと。
その相手が、ガルデローベ社の技術開発部長を名乗ったことも。
「……会社の、技術開発部長」
レイが、その肩書きを繰り返した。
「うん。そう名乗ったの」
いろはの記憶には、名乗り方まで残っていた。翼を広げ、前脚を胸元へ添え、丁寧に頭を下げる。何かを隠すために慌てて捻り出したような名乗りではなかった。
しかし、堂々と名乗ったからといって、その肩書きの中身まで分かるわけではない。いろはが今伝えられるのは、彼が何者だと自称したかだけだった。
ガルデローベ社。ヘルカイザー。技術開発部長。
三つの言葉を順に確かめるような間が、報告の中へ挟まった。どれも耳慣れない情報だったが、だからこそ聞き落とすわけにはいかない。かえでは目を逸らさず、いろはが続きを話すのを待っていた。
聞いたことのない会社だった。
だが、本人の名乗りも、目的を告げた声も、アークレイの記録には残っている。
いろはは、それを自分の感想だけで説明しようとはしなかった。
人間だと告げられたときのことも、話した。いろはが礼儀正しさに驚いた途端、その考えを見透かしたような言葉を返されたことも。
「心を読まれた、ってこと?」
レイが尋ね、いろはは少し迷ってから答えた。
「そう思った。でも、本当に読めるのかは分からない。顔に出てたのかもしれないし……」
あのときは驚きが先に来た。だが、報告では、驚いたことをそのまま能力の断定にはできなかった。本人の口から聞いたのは、人間だという説明と、身を守るためだという短い答えだけだ。
かえではその違いを確かめるように頷いた。人間としての姿も、その理由の詳しい説明も、いろはは見聞きしていない。報告に残せるのは、名乗りと同じく、彼がそう言ったということだった。
目の前に、戦闘データが映し出されていた。
画面の中には、小さな白い身体がある。
愛嬌のある顔立ち。背中に広がる、悪魔を思わせる黒い翼。
ぬいぐるみのようにも見える姿だった。
それなのに、本人は人間だと言った。
身を守るために、その姿をしているのだとも。
画面の中で、その小ささはよく分かった。男と同じ場所へ立っていても、背丈も輪郭も違う。遠くから見つけたときに、人影を二人と数えかけたことさえ、今は不思議に思えるほどだった。
いろはが顔を向けると、レイも白い姿を見ていた。大きな怪物が暴れていたという報告なら、もっと簡単に恐ろしさを想像できたかもしれない。けれど、そこに映っているのは、愛嬌のある小さな顔なのだ。
可愛らしいと思ったことまで、なかったことにはできなかった。実際に近づいたときにも、最初はドラゴンだと驚き、その姿に一瞬気を取られた。
その後で何を見たのかを話すとき、同じ顔の印象をどう伝えるべきか、いろはは少し迷った。
かえでは、画面を見つめていた。
レイも、映し出された姿から目を離さない。
いろはにとっては、つい先ほど見た顔だ。
だが、こうして室内の画面に映ると、現地で感じた違和感が、また別の形で戻ってきた。
丁寧に頭を下げた相手と、男を苦しめていた相手。
どちらも、この白い竜だった。
かえでの顔にも、似た戸惑いがあった。眉を寄せているのに、視線は小さな顔と、彼が立つ場所の間を何度か行き来していた。
「見た目だけやと、分からへんな……」
低い声だった。
いろはは頷いた。目の前で会話した後でさえ、礼儀正しい返事に、つい普通の受け答えをしてしまった。怖い相手だと分かっているのに、声を聞くとその認識が僅かに揺れる。
それは、危険がなかったという意味ではなかった。むしろ、警戒していなければならない理由を、何度も思い返さなければならなかったのだ。
レイは黙って記録を見ていた。いろはがどこで戸惑ったのかを、姿だけではなく、その前後の行動と重ねて確かめているようだった。
そして、報告の中でも、最も説明の難しい場面がある。
もう一人の、次元神。
「そんな……ありえない……」
かえでが、信じられないという顔で呟いた。
いろはも、その反応をすぐに否定することはできなかった。
自分だって、目の前で起きるまでは考えもしなかったのだから。
かえでの呟きに、いろははすぐ返事をしなかった。「そうなんだよ」と肯定するだけでは、自分の見たものまで、推測で塗りつぶしてしまいそうだった。
次元神という言葉は、いろはたちにとって遠い噂ではない。はちと暮らし、その力を知っているからこそ、別の相手が同じ名を口にしたことが重かった。
いろはは、画面へ目を戻した。驚いているのは自分一人ではなかった。そのことに少しだけ落ち着く一方で、分かる者が増えたわけではないとも感じた。
かえでもレイも、まだヘルカイザー本人とは話していない。だから、まず見てもらわなければならない。自分が何に驚き、どうしてその言葉を持ち帰ることになったのかを。
映像が、問題の場面へ進む。
空にいるヘルカイザーへ、いろはの砲撃が迫っていた。
五発のカートリッジを使い、アークレイから放った魔力の奔流。
いろはは、発射直前の音まで思い出した。続けて作動する内部機構。先端へ集まる魔力。両手で支えたアークレイの重さ。
あのときは、地上へ向けられた銃口を止めようとしていた。ヘルカイザーが景色を眺めた後で破壊しようと言い、二丁のライフルを連結した。その先に広がっていた大地へ、撃たせるわけにはいかなかった。
だから、目の前の相手へ狙いを定め、砲撃を放った。画面では、その一連の動きが途切れずに繋がっている。
レイの目が、桃色の光を追った。かえでは口を閉じ、相手がどう対応するのかを見ている。いろはだけが、次に起きることを知っていた。それでも、この場面を見る直前には、自然と肩へ力が入った。
それを前にして、白い竜は逃げようとしない。
『次元神発動!』
記録された声が、室内へ響いた。
いろはは、無意識に指へ力を込める。
画面の中で、空間に波紋が生まれた。
水のない場所に、透明な輪が広がっていく。
その中心が歪み、やがて漆黒の裂け目が開いた。
桃色の砲撃が、吸い込まれる。
ヘルカイザーへ命中するはずだった光は、一度も彼へ触れなかった。
最後の光が消え、裂け目が閉じる。
青空だけが、残った。
室内に、すぐ次の言葉は出なかった。画面の中で起きた変化が大きすぎて、見終えた直後の空白まで、三人の間へ持ち込まれたようだった。
砲撃を受け止めたのなら、ぶつかる場所があったはずだ。避けたのなら、光はその先へ進んだはずだった。だが、見えていた奔流は空間の中へ消え、後には変わらない空が残っている。
かえでが、僅かに前へ身を寄せた。いろはも同じ場所を見ていた。すでに閉じた裂け目の先に何があったのか、画面を見続けても分からない。
ヘルカイザーの姿だけは、はっきり残っていた。砲撃の前と後で、彼のいる場所は大きく変わっていない。あれだけの光が向かった相手が、何事もなかったようにそこにいる。それが、かえでの言葉をさらに奪っていた。
かえでは、言葉を失っていた。
先ほどまで疑っていたというよりも、信じがたいものを、そのまま目の前に示されてしまった顔だった。
いろはも、画面を見続ける。
現地で砲撃を放ったときには、狙った相手へ届くと思った。
だが、飲み込まれた瞬間には、命中した手応えどころか、何かへぶつかった感覚さえなかった。
自分の放ったものが、別の場所へ消えてしまった。
その感覚が、映像を見ているだけで蘇る。
「……受け止めたんやなくて、消したんか」
かえでが、ようやく口を開いた。
「うん。私には、どこかへ吸い込まれたように見えた」
いろはは、見えた範囲のことを答えた。消滅させたのか、転送したのか。その先まで確かめられたわけではない。
ただ、裂け目の手前で魔力がなくなったのではなく、その中へ流れ込んでいったことは覚えている。ヘルカイザーへ届くはずの道が、別の場所へ繋ぎ替えられたようだった。
答えながら、いろはは左手の指を少し緩めた。アークレイを構えていない今も、あの砲撃を放った腕の感覚が残っている。自分のしたことが、そのまま自分の知らない現象へ変わった。見直すほど、その違和感が鮮明になった。
(……やっぱり、はちちゃんの能力に似ている)
思い出すのは、はちの使う次元の力だった。
見えている距離や、攻撃の進む方向だけでは測れない力。
同じ名前を口にした相手が、よく似た現象を起こしていた。
はちの顔が、自然と思い浮かんだ。家で話しているときの声。驚いたときの「わふっ」という返事。そして、その小さな姿からは想像しにくい力。
力を持っていることと、そばにいて怖いことは、いろはの中では同じではなかった。はちが何を大切にしているのか、誰を心配して動くのかを知っているからだ。
目の前の画面にいる相手については、それを知らない。知っているのは、男へ向けた行為と、制圧すると告げた言葉、そして、砲撃を消した瞬間だった。
似た力を見たからといって、同じように声を掛ければよいわけではない。そのことも分かっている。それでも、見慣れた力に似ていたという印象だけは、切り離せなかった。
ただの偶然だと片づけるには、共通点が多すぎる。
かといって、その場で同じものだと断定できるほど、事情を知っているわけでもなかった。
帰り際のことを考えても、疑問は残る。ヘルカイザーは、制圧をまた今度にすると言った。時間はまだあるとも。その後で空間を開き、自分から去っていった。
いろはが退けた、と簡単に言える終わり方ではなかった。相手がどこまで戦うつもりだったのかも、何をもって区切りとしたのかも分からない。
かえでへその点を伝えたとき、いろはは言葉を慎重に選んだ。帰ったのだから、ひとまず目の前の攻防は終わった。けれど、もう来ないという約束はしていない。むしろ、また会おうと告げていたのだ。
その声を思い返すと、青空だけが残った場所が、もう一度浮かぶ。姿が消えたことと、危険がなくなったことを、同じにはできなかった。
次元神は、一人しかいないはず。
いろはは、そう認識していた。
かえでの信じられないという声も、その認識と繋がっている。
だが、画面の中には、確かにヘルカイザーがいた。
誰かの伝聞でも、曖昧な噂でもない。
アークレイが記録した、自分の目の前で起きたことだった。
レイが、かえでの方を一度見た。かえでも視線を返したが、すぐには何も言わない。
言葉にすれば、分からないことが増える気がした。別の次元神がいるのか。それとも、同じように見える何かを使っただけなのか。本人が名乗った力の名前を、どこまでそのまま受け取ってよいのか。
いろはは、そのどれにも答えを持っていなかった。ヘルカイザーが説明したのは、自分の目的や肩書きであって、力の仕組みではない。
今ここで断定してしまえば、知っていることよりも、想像したことの方が大きくなってしまう。いろはは、画面の中へ視線を留めた。分からないままでも、この現象が起きたことだけは、二人へ伝わっていた。
「いろは!」
隣から声を掛けられ、顔を向ける。
レイが、真剣な目でこちらを見ていた。
「ヘルカイザーは、確かにガーディアンを制圧すると言ったんだよね?」
能力の謎だけに、気を取られてはいられない。
レイが確かめているのは、その相手の目的だった。
砲撃を消された直後には、ハブに拘束された。驚いて相手から意識を外したところへ、次の手が来た。そのことも、いろははすでに伝えていた。
自分が恐怖で声を上げたところを説明するのは、少し気恥ずかしかった。だが、その隙を使われたことまで省けば、相手がどう攻防を進めたのかが抜け落ちてしまう。
レイはそれをからかわなかった。かえでも、ただ相手の手段として聞いていた。いろはは二人の反応に支えられながら、恐ろしいと思ったことと、実際に身動きが取れなかったことを分けて話した。
彼がハブを消すまで、こちらから自由になることはできなかった。その事実は、同じ力に驚いたという話とは別に、相手へ主導権を握られた理由として残っていた。
かえでも顔を上げた。驚くべき力を見せられた直後だからこそ、その力を持つ相手が何をしようとしているのかを、見失うわけにはいかなかった。
いろはは、レイの目を見返した。怖がらせたいのではない。だが、聞いた言葉を曖昧に伝えて、実際より軽い話にしてしまうこともできない。
小さな竜が、にこにこと笑いながら話したこと。その言い方だけなら、深刻に聞こえなかったかもしれない。しかし、彼は実際に武器を取り出し、地上へ銃口を向けていた。
声の明るさに引っ張られず、何を告げられたのかを答える。いろはは一度だけ呼吸を整え、それから頷いた。
いろはは、小さく頷いた。
「うん……」
はっきりと、覚えている。
アルカディアで間違いないかと尋ねられ、そうだと答えた。
すると、これで仕事に取り掛かれると、彼は笑ったのだ。
「迷い込んだだけ、という感じではなかった?」
レイが、慎重に尋ねた。
「最初は、私もそうかもしれないと思った。でも、場所を確かめた後で、そう言ったの」
いろはは、やり取りの順を辿った。どこにいるのか分からず、助けを求められたわけではない。自分がアルカディアだと答えると、彼は納得し、仕事の話を始めた。
同じ質問でも、その後に続いた言葉で意味が変わってしまう。彼にとって必要だったのは、保護ではなく、仕事先の確認だったように見えた。
かえでは黙って聞いていた。いろはは、相手の内心まで断言しないようにしながら、それでも自分が感じた違いを伝えた。
『この世界を制圧しに来ました♪』
あの明るい声。
楽しみな予定を聞かれたような、満面の笑顔。
その顔を見ていた瞬間、いろはは返事に詰まった。制圧という言葉と、明るい表情が、すぐには繋がらなかったからだ。
怒りや憎しみを向けられたのなら、相手が何に反応しているのかを探ろうとしたかもしれない。だが、ヘルカイザーは、こちらを責めるよりも先に、自分の予定を告げていた。
その場へ来たばかりのいろは個人へ、何かを恨んでいたようには見えない。それでも、彼の目的を止めようとすれば、戦う相手になる。
レイは眉を寄せ、かえでも口元を引き結んでいた。記録に残る声を聞けば、どれほど気軽な調子だったのかは分かる。だからこそ、いろはが言葉を選ぶ理由も、二人へ少しずつ伝わっていった。
こちらが警告し、杖を向けても、答えは変わらなかった。
『我が社のために、ガーディアンを制圧します』
その言葉の後で、二丁のライフルが現れた。
景色を綺麗だと言って見渡し、次には破壊しようと言った。
口だけの宣言だと思える要素は、どこにもなかった。
「ライフルは……最初から持ってたん?」
かえでの問いに、いろはは首を振った。
「ううん。何もないところから出てきた。二丁あって、それを組み合わせたの」
小さな身体から取り出したようには見えなかった。会話しているときにはなかった武器が、次の瞬間には左右の前脚へ収まっていた。
いろはは、その後に銃口が向いた先を思い出す。自分へではなく、下に広がる大地へ向けられた。だから、止めるために魔力弾を放った。
レイの視線が、記録へ戻った。かえでも同じ場所を見る。彼が持つ力の全ては分からないが、目的を口にした直後に、実行へ移る動きを見せた。その事実は、言葉とは別に画面へ残っていた。
いろはは、もう一度画面へ目を戻した。
アークレイの記録には、彼の姿が残っている。
丁寧な話し方も、にこにことした顔も、今見る限りでは穏やかにさえ見えた。
いろはは、自分の受けた印象を、どこまで説明するべきか迷った。彼の声を聞くだけなら、柔らかく、相手に気を配る人のようにも聞こえる。
けれど、質問に答える丁寧さと、こちらの制止を聞き入れるかどうかは別だった。名乗れば名乗り返す。問い掛ければ返事をする。それなのに、止めてほしいことが何かを伝えても、彼の予定は変わらなかった。
「話は……できるんだね」
レイの声は、単純な安堵ではなかった。
「うん。でも、話していることが、同じ意味で伝わってるのか分からなくなるの」
いろはは、ようやくその違和感の一部を言葉にした。会話ができることだけを、安心の理由にはできなかった。
だが、相手を安心させる顔と、していることが一致しない。
男が命乞いをしていても、やめようとしなかった。
いろはが制圧を止めると言っても、あっさり実行すると答えた。
男への行為を咎めたときも、同じだった。向こうが攻撃したから返しただけだと、彼は答えた。死んだらどうするのかと尋ねれば、死なないようにしていると説明された。
いろはが訴えたかったのは、死ななければよいという話ではなかった。男が抵抗できず、やめてほしいと頼んでいる。その状態で続けるべきではないということだった。
だが、ヘルカイザーの説明では、そこが問題になっていないように聞こえた。自分が何をしたのかは隠さない。むしろ、ちゃんと対処してあるとでも言うように教えてくる。
いろはは、二人の顔を見た。かえでもレイも、すぐに気の利いた言葉を返せる様子ではなかった。
人を傷つけることへの躊躇いは、見えなかった。
そう報告するとき、いろはの声は少し重くなった。自分が見たものの中で、間違って伝えてはいけない部分だった。
彼が何を考え、どんな事情を抱えているかは知らない。だが、男が苦しむ姿を見て、楽しそうにしていたことは覚えている。止めに入った自分を、邪魔する者だと言ったことも。
レイは、いろはの顔を確かめるように見ていた。かえでは画面へ目を落とし、そこに残っている表情を見つめている。
誰も、姿が可愛いから危険ではないとは言わなかった。いろはも、そう言って安心したかったわけではない。その姿に気を取られた分まで、現場で見えた行為を正確に伝えたかった。
それなのに。
(……何だろう?)
いろはの中に、小さな引っ掛かりが残っていた。
怖かったから、だけではない。
突然、次元神という言葉を聞いたから、というだけでもなかった。
報告しておくべきことは、言葉にできている。いつ、どこで出会ったか。何をしていたか。何者と名乗り、何を目的に来たのか。どんな力で砲撃を消したか。
それらを順に辿っても、心に残ったものが全部説明された感じはしなかった。話す必要がないほど小さな印象なのか、それとも、まだ言葉が見つかっていないのか。
いろはは口を閉じ、画面を見た。かえでたちの前で何かを取り繕うつもりはない。だが、ただの印象を事実のように混ぜてしまうのも違う。
いろは自身、どうして気になっているのかを知りたかった。目の前の白い姿へ視線を留めながら、現地で向き合ったときの顔を、静かに思い返した。
ふと、記憶の中の顔が浮かぶ。
こちらを見上げた、ヘルカイザーの笑顔。
穏やかな声と、楽しそうな口元。
その奥にある、瞳。
いろはへ顔を上げたとき、彼の目が見えた。こちらの声を聞いて振り向き、不満そうに見返してきた目。名乗った後に微笑んだときも、制圧のことを尋ねたときも、こちらを見ていた。
いろはは、どの一瞬にそう感じたのかを探った。恐ろしいことを平気で語る相手へ、別の感情を読み込もうとしているのだろうか。自分の方が、何かを見間違えただけなのかもしれない。
だが、思い返すたびに、その瞳が残る。笑った口元ほどはっきりしたものではない。声のように記録を聞き直せば確かめられるものでもない。それでも、目が合ったときの、ごく短い印象を忘れられなかった。
(……あの人の瞳)
いろはは、画面を見つめたまま動かなかった。
ただ映像を確かめているのとは、少し違う時間だった。
目の前にいたとき、自分は何を感じたのだろう。
かえでが、いろはの方を見た。報告の続きを急かすような目ではなかった。いろはは一度視線を返し、また記録へ戻した。
口にすれば、誤解されるかもしれない。彼に危険がないと言いたいわけでも、制圧の宣言を軽く扱いたいわけでもないからだ。
男の頼みを聞かなかったことも、銃口を大地へ向けたことも、忘れてはいない。自分の砲撃を飲み込み、身体の自由を奪った相手だ。今も、その力への警戒は消えていなかった。
それなのに、顔を思い浮かべると、警戒する理由とは別の何かがついてくる。いろははその違いを、心の中でそっと確かめ続けた。
言葉にしようとすると、うまくまとまらない。
あれほど楽しそうにしていた相手へ、こんな感想を抱く理由も分からない。
(……なんだか、悲しそうだった……)
そんなふうに、見えた気がした。
気のせいかもしれない。そう思っても、すぐには打ち消せなかった。
悲しそうなことを言われたわけではない。辛いのだと訴えられたのでもない。ヘルカイザーは終始楽しそうで、帰るときまで丁寧に頭を下げていた。
だから、この印象を彼の事情だと決めつけることはできなかった。まして、悲しみがあるからあんなことをしたのだと、勝手に繋げることもできない。
いろはが知っているのは、ほんの短い出会いだけだ。その短い時間の中で、なぜ自分にはあの瞳がそんなふうに見えたのか。その問いだけが、説明できないまま残っていた。
だからといって、彼の行動が変わるわけではない。
制圧の宣言も、男へ向けた仕打ちも、いろはが止めなければならなかったことも、すべて確かに起きている。
悲しそうに見えたのは、自分の思い違いかもしれない。
何か事情があるのかも、今は分からなかった。
レイの問いへ返した頷きを、いろはは思い返す。彼は確かに制圧すると言った。そこは曖昧にしていない。皆に伝えるべき危険を、伝えなかったわけでもない。
そのうえで、まだ分からないことがある。目的を知っても、名前を聞いても、使う力を見ても、本人のすべてが分かったわけではなかった。
いろはは、画面へ向けていた顔を少しだけ下げた。知っている事実と、抱いてしまった印象。その両方を持ち帰ってきたのだと、ようやく自分でも分かる。
答えを今ここで出すことはできない。かえでたちが見つめる記録の中で、白い竜はまだ同じ笑顔をしていた。いろははその笑顔を見上げ、もう一度、瞳へ視線を戻した。
ただ、その瞳だけが、なぜか心に引っ掛かっていた。
いろはは答えのない疑問を抱えたまま、画面の中の、小さな白い竜を見つめ続けていた。




