第40話 白い小さな侵略者
次元震が発生したと思われる場所へ、天城いろはは調査に来ていた。
アルカディアの郊外。
上空から見下ろすと、緑の大地が広がっている。
風に揺れる木々の間を確かめ、少しずつ視線を動かした。
手には、アークレイ。
地上へ顔を向けたまま、ゆっくりと周辺を見ていく。
「ここは……異常なし……」
今のところ、特に変わった様子は見えない。
だが、次元震が観測された以上、何もないと決めつけることはできなかった。
どこかへ漂流者が現れているかもしれない。
地上の景色が穏やかでも、その中にいる者まで落ち着いているとは限らない。知らない場所へ来て、どうすればよいか分からずにいる人がいないか。その可能性を考えながら、いろはは木々の陰へも目を向けた。
何も見つからない場所を一つずつ確かめ、次へ進む。声を掛ける相手が見つかるまでは、見えているものを丁寧に拾っていくほかなかった。
いろはは移動を続け、視界に入る景色を確かめていた。
その途中で、目が止まる。
「……あれ?」
遠くに、何かがいる。
木々の向こうへ目を凝らすと、二つの影が見えた。
「人影が……二人?」
いや、一つは随分小さい。
こちらからでは、まだ姿までは分からなかった。
それでも、何者かがいるのは確かだ。
(もしかしたら、漂流者かもしれない……)
次元震に巻き込まれ、この世界へ迷い込んだ者たちだろうか。
いろはは、そちらへ向かった。
見えている二つの影へ近づくにつれ、片方が人間だと分かってくる。
もう一つは、やはり小さかった。
「……え?」
いろはは、目を疑った。
一人は、男性だった。
その近くにいるのは、小さなドラゴンに見える。
白い身体。可愛らしい顔立ち。
背中には、悪魔を思わせる黒い翼がある。
ただ、その姿を珍しがっている場合ではなかった。
男性には、鎖が巻き付いていた。
身動きが取れないまま、白い竜を前にしている。
傷ついた男が何を求めているかは、離れたところから見ても分かった。
「もう……勘弁してくれ……!」
弱々しい声が、届いた。
抵抗しようとする声ではない。
近づく前には、二つの影が一緒にいるようにしか見えていなかった。今は、その間にある鎖も、男性が自由に離れられないことも、はっきりしている。
いろはは、小さな竜から男へ視線を動かした。何があってこうなったのかは、まだ分からない。だが、今この瞬間にもやめてほしいと頼む声が聞こえる。その声を聞きながら、事情が分かるまで見ているだけというわけにはいかなかった。
やめてほしいと、必死に頼んでいる。
それなのに、小さな竜は楽しそうだった。
「おやおや。まだ、一時間しか経っていませんよ?」
いろはが、息を呑む。
(……一時間?)
どういう意味だろう。
どれほど長く、あの男を拘束していたのだろうか。
男性はもう、まともに抵抗できるようには見えない。
だが、相手には攻撃をやめる様子がなかった。
見た目は、ぬいぐるみのように小さな竜だった。
その姿と、目の前でしていることが結びつかない。
いろははアークレイを握り、声を張り上げた。
「ガーディアンです!!」
上空から、二者へ呼び掛ける。
「直ちに攻撃を中止してください!!」
相手に話が通じるかどうかは、まだ分からない。
だが、まず止めなければならなかった。
小さな竜が、ぴたりと動きを止める。
その声に反応したのだろうか。
いろはが様子を確かめようとした直後、金属の音がした。
カシャンッ。
「あっ!」
男性を繋いでいた鎖が、切れた。
男はすぐに立ち上がった。
そのまま、転がるように走り去っていく。
(……よかった)
少なくとも、あの場からは離れられた。
ほっとしかけたところで、男の顔が目に入る。
いろはの目が、少し見開かれた。
(あの人……犯罪魔導師!?)
見覚えがあった。
漂流者を見つけたのだと思って来たが、事情は違ったらしい。
だが、男の素性が分かったからといって、先ほどの行為を見過ごせるわけではない。
抵抗できない相手へ攻撃を続けてよい理由にはならなかった。
いろはは改めて、地上の竜を見る。
「……誰です?」
小さな顔が、ゆっくり上がった。
「自分の楽しい時間を邪魔する人は……」
瞳が、こちらへ向けられる。
楽しみを奪われたと、不満そうに見返していた。
「…………え?」
いろはは、一瞬言葉を失った。
(……喋った!?)
ドラゴンなのに。
そう思ってから、慌てて気を取り直す。
先ほど男へ語り掛ける声も聞いていた。驚いている場合ではない。
「先ほどから見ていましたが……あそこまでする必要があるんですか?」
「……ほう?」
「いくらなんでも、やり過ぎです!」
竜は、小さく首を傾げた。
叱責を受けても、慌てた様子はない。
「向こうから攻撃を仕掛けてきましたから、正当防衛です♪」
「……え?」
「自分は、それを何倍にもして返しただけですよ?」
あっさりとした答えだった。
いろはは、白い顔を見つめた。
嘘をついて切り抜けようとしているようには見えない。
それが、かえって怖かった。
男から攻撃したとしても、相手が動けなくなった後まで続けてよいわけではない。
だが、目の前の竜には、その違いが届いていないようだった。
「それでも! やり過ぎです!」
いろはは、声を強めた。
「死んだらどうするんですか!」
「おや? その点なら、ご安心を♪」
竜の声は、どこまでも穏やかだ。
「死なせないために、三時間ほど不死身になる薬を投与してありますから、大丈夫ですよ♪」
「…………は?」
いろはは、すぐに言葉を返せなかった。
不死身にする薬。
死なないようにしたうえで、攻撃を続けていた。
それは、先ほどの男を最初からいたぶるつもりだったということではないのか。
そもそも、三時間も不死身になる薬など、本当に存在するのだろうか。
目の前の相手が語ることへ、次々に疑問が増えていく。
「おやおや……信じていないみたいですねぇ」
竜が、小さく笑った。
「まあ、信じるかどうかは……ええと……」
そこで、声が止まる。
首を傾け、いろはを見直した。
「お名前、何でしたっけ?」
「……あっ」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
いろはは小さく息を整える。
アークレイは手放さず、相手へ向き直った。
「私は、AEGIS所属のガーディアン、天城いろはです」
白い竜が、にっこりと笑った。
「これはこれは、ご丁寧に♪」
黒い翼が、ゆっくり広がった。
右の前脚を胸元へ添え、静かに目を閉じる。
そのまま、上品に頭を下げた。
まるで、格式ある屋敷に仕える執事のような礼だった。
「初めまして。ガルデローベ社技術開発部長の、ヘルカイザーと申します」
顔が、ゆっくり上がる。
「以後、お見知りおきを♪」
「……あ、はい」
いろはは、思わず返事をしてしまった。
ガルデローベ社。
聞いたことのない会社だった。
それ以上に、今の挨拶が妙に印象に残った。
小さなドラゴンなのに、驚くほど礼儀正しい。
先ほどまで男へしていたことを知らなければ、丁寧な相手だと思っていただろう。
名前を尋ね、礼を述べ、相手へ頭を下げる。その所作の一つ一つには、雑なところがなかった。こちらが名乗れば、同じように名乗り返してくる。普通なら、話を続けられると安心する場面だ。
だが、今のいろはには、素直にそう思えない。丁寧なお辞儀をした前脚と、先ほど男へ向けられていた手元が、同じ相手のものだということを知っている。
その違和感へ、言葉をつけようとする前だった。
「今、ドラゴンなのに礼儀正しいと思いましたね?」
「えっ!?」
いろはの肩が、跳ねた。
ヘルカイザーは、その反応を見て楽しそうに笑う。
(心を読まないで……!)
言い掛けた言葉は、声に出なかった。
どうして分かったのだろう。
今までの話も、どこまで見抜かれていたのだろうか。
「まあ、なりはドラゴンですが、これでも人間ですよ♪」
「…………え?」
いろはは、もう一度相手を見た。
小さな身体。白い顔。背中の翼。
どう見ても、ドラゴンだった。
「ど、どうしてそんな姿をしているんですか?」
「身を守るためです」
即答だった。
何から身を守るのか。なぜ、そのためにドラゴンになる必要があるのか。
質問は、まだ増え続けている。
だが、先に口を開いたのはヘルカイザーだった。
「では……自分からの質問です♪」
「……はい?」
「ここはアルカディアで、間違いないですか?」
いろはは、少し戸惑った。
今いる場所を、確かめたいのだろうか。
知らない世界へ迷い込んだ漂流者の可能性も、まだ完全には消えていない。
「そうですが……」
ヘルカイザーが、頷いた。
「なるほど……これで、仕事に取り掛かれますね♪」
「……仕事?」
いろはが、聞き返した。
ここへ来た理由がある。
少なくとも、彼の言う仕事と、この街は繋がっているらしい。
「ヘルカイザーさんは、何をしにこの世界へ来たんですか?」
ヘルカイザーの顔が、ぱっと明るくなった。
尋ねられたことを喜ぶように、満面の笑みで答える。
「この世界を制圧しに来ました♪」
いろはは、瞬きをした。
「…………え?」
聞き間違いだろうか。
だが、相手の笑顔は変わらない。
いろははアークレイを握り直した。
「……何故です?」
「上からの命令です♪」
「……命令?」
「ええ。我が社のマスター社長からの指令ですよ♪」
ヘルカイザーは、何でもないことのように続ける。
「まあ、うちの社長がガーディアンを嫌いだからだと思いますが……」
いろはは、唇を引き結んだ。
そんな理由で、この世界へ来たというのか。
しかも、相手はガーディアンのことを知っている。
手の中のアークレイを、ヘルカイザーへ向けた。
「そんなこと、させると思いますか?」
ヘルカイザーが、小さく笑う。
「ふふっ♪ しますよ♪」
「……っ!」
「我が社のために、ガーディアンを制圧します」
両の前脚が、広げられた。
何もない空間から、二丁のライフルが現れる。
いろはの視線が、その武器へ移った。
ヘルカイザーは左右の前脚で、それぞれを握っている。
小さな姿と、手にした武装が、いやでも目に入った。
先ほどまでの会話に、聞き違いがあったわけではなかった。言葉だけで制圧を語っているのでもない。彼はもう、そのために使う武器を手にしている。
いろはは照準を保った。礼儀正しい話し方に反して、相手は一度も制圧を諦めるとは言っていない。命令だと説明した後も、こちらの警告を受けた後も、その笑顔のまま進めようとしていた。
「それにしても……綺麗な景色ですねぇ……」
「……え?」
突然、話が変わった。
ヘルカイザーは、アルカディアの景色を見回していた。
青空と、風に揺れる木々。遠くの街並み。
その一つずつを眺め、満足そうに頷く。
「うん♪」
いろはは、その声の先を待った。
「破壊しましょう♪」
「――っ!?」
黒い翼が、大きく羽ばたいた。
ヘルカイザーの身体が空へ上がる。
その手元で、二丁のライフルが組み合わされた。
ガシャンッ。
連結された銃口が、眼下の大地へ向く。
いろはの目が、その先を追った。木々があり、緑が広がっている。さっきまで上空から異常がないかを確かめていた場所だった。
撃たれてからでは、遅い。相手が笑っていても、構えた武器と向けられた場所は変わらない。いろはは考えるより先に腕を動かした。何の被害もないうちに、その銃口を止めなければならなかった。
(……駄目!!)
いろはは、すぐにアークレイを構えた。
狙いを定める間も、相手の銃口は下へ向けられている。
「やめてください!!」
魔力弾を放った。
桃色の光が、ヘルカイザーへ一直線に飛ぶ。
「おっと♪」
ヘルカイザーは、ひらりと身体を傾けた。
魔力弾が、その横を通り過ぎる。
いろはは、歯を食いしばった。
「自然を破壊しないで!!」
「おやおや……掃除しようと思ったのですが……」
心外だとでも言うように、ヘルカイザーが首を傾げた。
いろはは、アークレイを強く握る。
掃除。
目の前の大地を壊すことを、彼はそう呼んでいる。
先ほどの男への行為と同じだ。
こちらが止めたい理由を、何でもない言葉で片づけてしまう。
「……ヘルカイザーさん」
アークレイへ、魔力が集まり始めた。
「少し……頭を冷やそうか……」
先端の装飾部が、展開した。
花弁のような部品が左右へ開き、中央の収束部が前へせり出す。
砲撃のための形態へ切り替わり、固定された。
桃色の光が、強くなる。
いろははヘルカイザーへ、真っ直ぐ照準を合わせた。
カシュンッ。
カシュンッ。
内部機構が作動し、カートリッジが排出されていく。
一発、二発。
三発、四発。
そして、五発。
五発分を受けた魔力が、先端で一気に膨れ上がった。
排出の音を聞きながら、いろはは相手の位置を追っていた。銃口を地上へ向けさせたままにはできない。自分から意識を逸らせず、こちらへ対応しなければならない一撃を放つ。
光が収束していく間にも、腕の中のアークレイが確かな重みを持っていた。いろははそれを支え、目の前の白い姿から狙いをずらさなかった。
ヘルカイザーの白い姿を、その光の向こうへ捉える。
「――はあああああっ!!」
巨大な桃色の砲撃が、アークレイから放たれた。
眩い光が、空を照らす。
魔力の奔流が、一直線にヘルカイザーへ迫っていった。
ヘルカイザーが、顔を向ける。
「……おや?」
避けようとする様子はなかった。
今からでは、間に合わないのかもしれない。
(……当たる!)
いろはが、そう思った瞬間だった。
「次元神発動!」
声が、響いた。
ぽちゃん。
水滴を落としたような、小さな変化が空中に生まれた。
「……え?」
いろはの目が、その一点へ向く。
ヘルカイザーの目の前に、波紋が広がっていた。
ゆらり。
ゆらり。
透明な輪が、幾重にも広がる。
そこに水はない。
空中にあるはずのない揺らぎへ、いろはの視線が引き寄せられた。砲撃はもう放っている。桃色の光が相手へ迫る、その間に、透明な輪が広がっていく。
何が起きようとしているのか、すぐには分からなかった。けれど、ただ防御のための壁が立ち上がったのとは違う。輪の向こうに見えていた景色そのものが動き始め、空の見え方まで変わっていった。
だが、空間そのものが、水面のように揺れている。
波紋の中心が、大きく歪んだ。
向こう側の景色が、奥へ引き込まれるように曲がる。
ピシッ。
細い亀裂が走った。
次の瞬間、それは漆黒の裂け目へ変わっていた。
いろはの放った砲撃が、その中へ入る。
直撃するはずだった光が、ヘルカイザーへ触れるより先に吸い込まれていく。
巨大な魔力の流れが、消えていった。
障壁へぶつかった音も、相手へ命中した衝撃もない。
最後の光が飲み込まれると、裂け目は静かに閉じた。
後には、青空だけが残る。
いろはは杖を構えたまま、その場所を見続けていた。砲撃が抜けた先を探そうとしても、もう光はない。ヘルカイザーの手前で、すべての行き先が途切れていた。
手応えがない。命中を阻まれたというだけでなく、自分が放った力を別の場所へ持っていかれたようだった。先ほどまで確かに見えていた巨大な光が、空から跡形もなく消えた。その事実を、目が追いかけていた。
「…………嘘」
いろはは、そこを見つめた。
全力で放った砲撃が、消えた。
だが、衝撃は、そのことだけではなかった。
(……はちちゃんと同じ能力……?)
次元神。
ヘルカイザーは、確かにそう言った。
はちが使う力と、目の前の現象が重なる。
いろはは思わず、その場へ意識を奪われた。
その僅かな隙に、小さな重みが肩へ落ちた。
ポトッ。
「……え?」
いろはは、ゆっくり肩へ目を向けた。
細長い身体が、そこで動いていた。
二股の舌が、顔の近くで揺れる。
蛇だった。
「うにゃあああああっ!! へっ、蛇ぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴が、空へ響いた。
だが、一匹で終わらなかった。
どさっ。
どさどさっ。
「えっ!? な、何!?」
次々に、蛇が現れた。
一匹が腕へ巻き付き、別の一匹が脚へ絡む。
いろはは慌てて振りほどこうとした。
肩だけへ向いていた注意が、腕、脚へと移る。どこを先に払えばよいのか考える間にも、別の蛇が視界へ入った。身体を引けば、それに合わせて巻き付いたものが動く。
次元神のことを考えていた頭が、一気に目の前の蛇でいっぱいになった。さっきの現象を確かめたい。それよりも、今はこの身体を離してほしい。その切実さが、悲鳴と一緒に出てしまった。
「いやあああっ! ちょっ、待って! 待ってってば!!」
だが、蛇たちは離れない。
バリアジャケットの上から、次々と身体へ巻き付いてくる。
腕を動かそうとすると、さらに別の身体がその動きを妨げた。
「うっ……動けな……っ!」
腕も、脚も、思うように動かせなくなっていた。
アークレイを握ることはできても、狙いをつけ直せない。
いろはは顔を上げ、相手を探す。
少し離れた場所で、ヘルカイザーが笑っていた。
「ふふふっ♪ いろはさん♪」
相変わらず、優しげな声だった。
「ハブに巻き付かれる気分は、いかがですか♪」
「ハ、ハブ!?」
いろはの声が、裏返った。
毒を持つ蛇。
自分の腕に巻き付いているものへ視線を落とすと、身体が強張る。
「嫌っ! ほどいて!!」
必死に動こうとした。
だが、幾重にも絡んだ身体がそれを許さない。
肩の上の一匹が、顔へ近づいてくる。
舌が、揺れた。
いろはは、思わず顔を背ける。
(……咬まれる……!)
いつ毒牙を向けられるか、分からない。
避けようにも、身体を動かせない。
その恐怖が、冷たく頭の中を占めていた。
「良いですねぇ……その表情♪」
ヘルカイザーが、楽しそうに言った。
いろはは、そちらを睨もうとする。
だが、頬の近くで動く蛇から、目を離すのも怖かった。
「ですが、ご安心ください」
「……え?」
「そのハブは、女性には咬みませんよ♪」
いろはは、言葉を失った。
咬まれない。
その一言に、ほんの僅かだけ安堵が生まれる。
だが、身体はまだ拘束されている。
目の前に蛇がいることも、離してもらえないことも変わらなかった。
「……それでも! ほどいてください!!」
声を絞り出した。
ハブたちは、こちらの言葉では動かない。
ヘルカイザーへ頼むほかなかった。
彼は、少し首を傾げた。
「おや? お気に召さないですか?」
「当たり前です!!」
答えは、即座に出た。
ヘルカイザーは、しばらくいろはを眺めていた。
何を考えているのか、分からない。
「ふむ……仕方がないですねぇ……」
片方の前脚が、軽く上がった。
パチンッ。
乾いた音がした。
その瞬間、巻き付いていたハブが一斉に消える。
「……え?」
突然、腕が動いた。
いろはは慌てて肩を確かめ、脚へも目を向ける。
先ほどまで幾重にもあった蛇の姿が、一匹も残っていない。
アークレイを持ち直す。
腕も、脚も、自由に動く。
身体を拘束していた感触だけが、まだ記憶に残っていた。
「た、助かったぁ……」
大きく、息が漏れた。
安堵してしまった後で、すぐに相手へ顔を戻す。
そもそも、あの蛇を出したのはヘルカイザーなのだ。
離してもらえた直後、もう一度肩へ目が向いてしまう。頭では消えたと分かっていても、さっきまでの重みを身体が覚えていた。いろはは腕を動かし、握った杖の感触を確かめた。
今は、自由に構えられる。だが、相手が次に何をするかまでは分からない。安堵した息を整えながら、ヘルカイザーから視線を外さないようにした。
自分の頼みは聞き入れられた。
だが、それだけで優しい相手だとは思えなかった。
制圧すると告げたことも、先ほどの男へしたことも、なくなっていない。
「さて……」
ヘルカイザーが、ゆっくり翼を広げた。
「制圧は、また今度にしましょう♪」
「……え?」
「時間は、まだありますからねぇ♪」
満足そうな笑顔だった。
いろはは、アークレイを握ったまま相手を見る。
突然始まった攻防が、相手の都合で終わろうとしていた。
ヘルカイザーの背後で、空間が揺らぐ。
景色が歪み、漆黒の裂け目が開いた。
「……っ!」
いろはは、もう一度杖を構え直した。
だが、ヘルカイザーは、こちらへ武器を向けなかった。
顔をこちらへ向け、優雅に頭を下げる。
「では……また、お会いしましょう♪」
黒い翼が動いた。
白い身体が、裂け目の中へ入っていく。
その姿が消えると、空間も静かに閉じた。
いろはは、閉じていく裂け目を目で追った。つい先ほどまでそこにいた相手が、もういない。制圧すると告げ、こちらを拘束し、今度は自分の都合で去っていった。
引き止める言葉を出すより早く、目の前の空は元へ戻っていた。いろはは、すぐにはアークレイを下げられなかった。もう一度裂け目が開くのではないかと、その場所を確かめ続けてしまう。
青空が、元に戻る。
いろはは、しばらくその場を動けなかった。
◇
風が、長い髪を揺らしていた。
眼下には、緑の大地がある。
遠くの街並みも、先ほどと変わらない。
その中で、いろはだけが、考えをまとめきれずにいた。
(……ヘルカイザーさん)
ガルデローベ社。
技術開発部長を名乗った、小さな白い竜。
本人は、人間だと言っていた。
制圧という言葉も、冗談には聞こえなかった。
景色を破壊しようとしたときにも、その声にはためらいがない。
最後には、また今度だと言って、姿を消してしまった。
そして、もう一つ。
(……次元神)
いろはは、無意識にアークレイを握り締めた。
五発のカートリッジを使った砲撃が、空間へ消えた瞬間を思い返す。
何もない空に広がった、波紋。
そこから開いた、漆黒の裂け目。
巨大な魔力を飲み込んだ後で、何事もなかったように閉じた空間。
ヘルカイザーは、確かに言った。
『次元神発動!』
はちが使う力と、重なって見えた。
だからこそ、その瞬間に意識を奪われてしまったのだ。
(……どうして、次元神がもう一人いるの?)
いろはの中では、次元神は一人しか存在しないはずだった。
だが、目の前で起きたことを、なかったことにはできない。
別の力だったのか。
それとも、知らない事情があるのか。
考えても、答えは出なかった。
知っていることより、知らないことの方が多すぎる。
それでも、伝えなければならないことは明確だった。
この世界を制圧すると宣言した者が現れ、ガーディアンを標的にしている。
しかも、その相手は次元神と名乗る力を使った。
自分一人で判断できる問題ではなかった。
「……かえでちゃんたちに、報告しないと……」
最後に、ヘルカイザーの消えた場所を見つめる。
そこには、もう何も残っていない。
何かが現れる気配もなく、風だけが吹き抜けていた。
いろはは、踵を返した。
アークレイを手に、AEGISへ向けて飛び立つ。
穏やかに見えた郊外で出会った、小さな白い侵略者。
その名と宣言を持ち帰るため、いろははガーディアン本部へ帰還した。




