第39話 侵略の準備
マスター社長から制圧の指令を受けて、数時間が過ぎていた。
研究室へ戻ったヘルカイザーは、出発の準備を進めている。
与えられた期間は、三年間。
任務は、ガーディアンの制圧。
最初の目的地には、アルカディアを選んでいた。
社長室で交わした言葉は、簡潔だった。制圧を命じられ、場所と期間を聞き、了承した。準備に戻った今、その命令が変わることはない。
これから何を確かめ、どんな順で進めるかは、ヘルカイザーが考えることになる。三年という時間を、長いと嘆く様子も、短いと焦る様子もなかった。むしろ、考えられることが多い分だけ、研究机に向かうときと同じように興味が湧いている。
「さて……まずは、必要なものを揃えますか」
机の前で、小さな白い竜が顔を上げた。
背中の黒い翼が、僅かに動く。
足元には紫色の影が落ちていた。
ヘルカイザーの声には、急ぐ様子がない。
命令を受けたばかりのときと同じように、口元には笑みが残っている。
これから向かうのは、仕事先だ。
見知らぬ技術があり、魔導師たちがいて、会社にとって手に入れたいものがある。
何を持っていくか、順に考える。
ただし、大掛かりな荷造りが必要なわけではなかった。
武器なら、必要なときに取り出せる。
机の上を武装で埋めるよりも先に、今回連れていく顔ぶれを確かめておけばよかった。
「トロンベと、ヘルシーサーと、マクガンと、ハブと、マングース……このくらいですかねぇ」
名前を口にすると、準備の輪郭がまとまった。
五つ並んだ名は、いずれも見た目だけなら侵略任務と結びつけにくいものだった。
もっとも、ヘルカイザー自身も、小さな白い竜の姿をしている。
外見だけで仕事の内容を判断できない点では、似たようなものかもしれない。
仰々しく武装を並べれば、その場にいる誰にでも任務の物騒さは伝わるだろう。だが、ヘルカイザーが順番に口にしたのは、そういう名前ではなかった。
トロンベ。ヘルシーサー。マクガン。ハブ。マングース。五つを挙げ終えた後も、準備を大げさに見せようとはしない。足りると判断したから、それで済ませる。その気軽さは、出発を前にしても変わらなかった。
まずは、トロンベ。
ガルデローベ社のマスコットだ。
黄色く、小さく、愛嬌のある姿。
分かりやすく言えば、ヒヨコである。
その名前から、会社の制圧任務を思い浮かべられる者は、そう多くないだろう。
なぜヒヨコが会社のマスコットなのか。
そもそも、どうして今回の顔ぶれへ含まれるのか。
その辺りを、ヘルカイザーは今ここで説明するつもりはなかった。
トロンベを思い浮かべると、まず目に浮かぶのは黄色い小さな輪郭だった。会社のマスコットとして、その姿には分かりやすい愛嬌がある。
ただ、その印象と、今回の仕事が結びつくかどうかは別の話だ。ヘルカイザーの中では、もう出発に必要な名の一つとして収まっている。今から長々と由来を語るよりも、残りの準備へ意識を移す方が先だった。
必要だから、名前を挙げた。
準備を進めるうえでは、それで十分だった。
会社の研究室から、見知らぬ世界へ向かう。その大きな移動を前にしても、ヘルカイザーは手元の支度を一つずつ考えていた。武器が必要になれば取り出す。同行させる顔ぶれは、今決めておく。
まだ現地で何が起きるかまでは分からない。だからといって、出発前にすべてを決め尽くそうとはしていなかった。準備を終えた後に待っているものを、実際に見に行こうとしていた。
「さて、次は……」
ヘルカイザーは、残る四つの名を確かめる。
沖縄四天王。
それぞれが、はっきり違った姿を持つ面々だ。
リーダーは、ヘルシーサー。
その姿は、シーサーそのものだった。
守り神を思わせる外見だけを見れば、門の上へ飾られていても違和感がないかもしれない。
だが、今回の名簿では、飾りとして連れていくわけではない。
次が、マクガン。
ヤシガニの姿をした、四天王の一人だ。
ヘルシーサーと並べて思い浮かべるだけでも、随分と違う輪郭になる。
そこへ、さらに別の生き物の名が続いていた。
四天王という一括りの呼び名があっても、姿まで揃っているわけではない。シーサーとヤシガニを同じ形として思い違えることは、まずなさそうだ。
ヘルカイザーは、それぞれの名を確かめるたびに、別の輪郭を思い浮かべていた。どれも、これから向かう街で初めて見た者には、すぐ事情が分からない顔ぶれだろう。だが、こちらにとっては、今回連れていくと決めた面々だった。
ハブ。
毒を持つ蛇の姿である。
もっとも、ただ無差別に噛みつくわけではない。
女性には懐きやすく、すぐ近づいてはじゃれつく。
その一方で、男性への当たりは、まったく違っていた。
同じつもりで扱えば、危険な相手だ。
女性へ向ける懐き方だけを見て、安全な生き物だと判断することはできない。相手が変われば、その反応も変わる。ヘルカイザーは、その性格まで含めて承知していた。
だからといって、ここで顔ぶれから外そうとは思わない。困ったところだと感じても、それを知ったうえで連れていく。それぞれを紹介しようとすれば、見た目の説明だけでは済まない面々なのである。
おまけに、なかなかの美食家でもある。
連れていく者を一つずつ挙げていると、戦力以外の性格まで、自然と思い浮かんだ。
最後は、マングース。
イタチに似た姿をしている。
こちらも女性好きで、男性には容赦がない。
小さな生き物だと軽く見て近づけば、取り返しのつかないことになりかねなかった。
「……ふむ」
ヘルカイザーは、五つの名をもう一度、頭の中で並べた。
マスコットのヒヨコに、シーサー、ヤシガニ、ハブ、マングース。
個性的な顔ぶれだった。
だが、そのことを不安に思う様子はない。
任務のために選んだ相手だ。
少なくとも、仕事を始めるには十分だと考えていた。
「こんなもんですね♪」
短く言って、顔を上げる。
準備に際して、長い訓示をするわけでもなかった。
三年間という期限も、目指す組織の大きさも、今はヘルカイザーの声を重くしていない。
まず向かう。
そこで何が見つかるかを確かめる。
考えたことを実際に試す前の、研究室によく似た楽しさがあった。
ただし、今度は装置を動かすだけの仕事ではない。
制圧の命令を受けて、他者の暮らす場所へ向かうのだ。
ヘルカイザーは、そのことにも迷わなかった。
「さて……そろそろ行きますか」
小さな身体が、机の前から離れた。
黒い翼を整え、何もない空間へ片方の前脚を持ち上げる。
その先で、景色が揺れた。
最初は、僅かな歪みだった。
背景の輪郭がずれ、目の前の空間がゆっくり引き伸ばされていく。
やがて中心に、漆黒の裂け目が生まれた。
部屋の向こうにあるはずのものが、その部分だけ見えなくなる。
ヘルカイザーは、開いていく裂け目へ目を向けた。
初めて見るものを恐れるような反応はない。
行き先を思い浮かべるときも、声は変わらず明るかった。
裂け目の向こうへ進めば、今いる研究室の床から離れる。準備を考えていた時間と、任務の現場に立つ時間が、ここを境に切り替わる。
ヘルカイザーは、黒い開口部の輪郭を確かめた。開いていく空間へ、前脚を向ける。それまで頭の中で挙げていた街の名が、もう単なる行き先の言葉ではなくなろうとしていた。
「行き先は、アルカディア!」
黒い翼が、軽く羽ばたいた。
白い身体が、空間の切れ目へ進んでいく。
研究室の景色が背後へ離れ、視界が切り替わった。
そうして、ヘルカイザーはアルカディアへ向かった。
◇
「……おや?」
最初に目へ入ったのは、青い空だった。
風が吹き、木々の葉が擦れ合っている。
陽光を受けた緑が揺れ、その向こうには都市の建物が見えていた。
ヘルカイザーは、ゆっくり周囲を見渡した。
先ほどまでいた研究室とは違う、広い景色。
壁に囲まれていない空の下へ、風が抜けていく。
耳に入る音も、研究室とは違っていた。葉が揺れ、風が草を撫でていく。遠くの建物を見た後で足元へ目を戻すと、自分がその景色の中へ来たことが、はっきりした。
到着まで思い描いていた土地が、こうして目の前の景色になっている。遠くの街にどんな魔法の技術があるのかは、まだ見えていない。今見えているのは、その街へ繋がる空と大地だった。
ヘルカイザーは、地面の上で身体の向きを変えた。研究室にいたまま考えるのとは違い、こちらから進めば、次の景色が見えてくる。静かな場所へ来たという感想も、その先へ動き出すまでの短いものにすぎなかった。
予定していた場所に着いた。ヘルカイザーはそれを確かめながら、もう一度空を見た。任務の対象に繋がる土地であっても、出迎えの者がいるわけではない。今はただ、晴れた空と、穏やかな景色が広がっていた。
「ここが、アルカディアですか……」
遠くの街と、周囲の自然へ目を動かす。
建物の形が、緑の向こうへ幾つも見えている。まだ街の中へ入ったわけではない。そこにどんな道があり、どんな者たちが行き交っているのかは、こちらから眺めるだけでは分からなかった。
今のところ、何かが迫ってくる様子はない。
こちらへ呼び掛ける声も、聞こえてこなかった。
なかなか綺麗な場所だ。
ヘルカイザーは、しばらくその景色を眺めた。
青空。
緑の広がる大地。
揺れる木々と、穏やかな風。
少し遠くに見える都市の建物も、今は静かに景色の中へ収まっている。
これからそこを制圧するために動く者が来たとは、まだ誰も知らないのだろう。
「平和そうですね〜」
口元へ、笑みが浮かんだ。
感心したようにも聞こえる声だった。
続いた言葉さえなければ。
景色を褒めたように聞こえた声の後にも、黒い翼は静かに収まっていた。身構えていなければ聞き逃しそうなほど、次の言葉も軽かった。
「……ヘドが出ますけどね♪」
風が、白い身体の脇を通り過ぎる。
声も、表情も、穏やかなままだった。
見慣れない土地へ着いて、景色を楽しむ者のようにも見える。
だが、その目の前に広がる平和を、守りに来たわけではない。
社長から下された命令は、頭の中へ明確に残っていた。
ガーディアンの制圧。その始まりに選んだ場所が、ここだ。
ヘルカイザーは、街のある方へもう一度目を向けた。
眺めているだけでは、何も分からない。
まずは、このアルカディアを探索するとしよう。
身体の向きを変える。
移動を始めようとした、その瞬間だった。
ドカァァァンッ!
凄まじい爆発が、ヘルカイザーを襲った。
足元から土砂が舞い上がる。
衝撃で草木が揺れ、爆煙が一気に視界を覆った。
青空も、遠くの都市も、見えなくなった。
周囲の景色は、巻き上がる煙へ変わっていた。
「……おや?」
ヘルカイザーの声だけが、先ほどと同じ調子で響いた。
いきなり攻撃とは。
初めて足を踏み入れた場所で、探索を始めるより先に歓迎を受けるとは思わなかった。
煙の中で、ヘルカイザーは気配を探った。
視界は遮られている。
だが、攻撃してきた者がいるなら、どこかにいるはずだ。
小さな白い身体は、慌てて逃げようとはしなかった。
爆発が収まった後も、土の落ちる音がしていた。煙の流れる先へ目を向けても、まだ相手の顔までは見えない。だが、攻撃のあった方向へ意識を向けることはできる。
ヘルカイザーは、身を隠す場所を探す代わりに、その向こうを確かめようとしていた。予想外の出来事に驚いてはいる。それでも、不意打ちをした相手へ怯えるような反応は、声にも動きにも表れていなかった。
「ちっ……生きていやがったか……!」
少し離れた場所から、男の声がした。
ヘルカイザーが、そちらへ顔を向ける。
なるほど。
今の攻撃を放ったのは、あの声の主らしい。
声には驚きと、不満が混じっていた。
こちらが生きていることを、歓迎してはいない。
「……ふふっ♪」
黒い翼が、大きく広がった。
白い身体の背で、悪魔を思わせる輪郭が開く。
バサァッ!
羽ばたきに押され、まとわりついていた煙が流された。
木々と地面が、再び見えてくる。
そして、その先に立つ男の姿も、はっきりした。
男は、こちらを睨んでいた。
敵意を隠そうとしていない。
先ほどの爆発で、こちらを仕留めるつもりだったのだろう。生きていることへの悪態は、そのまま男の思惑を示していた。
ヘルカイザーは、相手の表情を眺めた。顔を見せる前から攻撃し、その結果を煙の向こうで確かめていた者がいる。こちらは、その声を聞いて姿を探した。そうして相手が見えた今、今度は向こうが驚いている。口元へ浮かんだ笑みは、消えなかった。
だが、煙の中から現れたヘルカイザーを見ると、表情が変わった。
「なっ!?」
目が合った。
ヘルカイザーは、にっこり微笑む。
「ヤベッ! 見つかった!」
男が、踵を返した。
その場から離れようと、足へ力を込める。
攻撃を仕掛けたときの勢いは、もう残っていなかった。
だが、遅かった。
ガシッ。
「はい、捕まえました♪」
「なっ!?」
男は、目を見開いた。
逃げ出すより早く、ヘルカイザーに捕らえられていた。
小さな相手だった。
見た目だけなら、自分の方が大きい。
それなのに、振りほどこうとしても離れない。
男は、自分の身体と、捕らえた相手を見比べた。煙の中でこちらの姿を見つけたときには、まだ逃げる道があると思っていた。今は、目の前の小さな姿が、その道を塞いでいる。
動き出すまでの僅かな間に、立場が変わっていた。先ほどまで相手を睨んでいた目が、今度は、どうすればこの手から離れられるかを探している。
男は肩を捻り、腕へ力を込める。
ジャラララッ。
鎖の音がした。
ヘルカイザーが取り出した鎖が、男の身体へ巻き付いていく。
腕を動かす間もなく拘束され、続いて脚も自由を失った。
金属が鳴った。
動こうとしても、鎖がそれを許さない。
「くそっ! 離せ!!」
男は、身体を揺さぶった。
ヘルカイザーは、落ち着いた様子でその前へ降り立つ。
「さて……」
見上げるように男の顔を見た。
そこに浮かんでいるのは、相変わらず穏やかな笑顔だった。
「不意打ちをする子には、お仕置きが必要ですねぇ♪」
男が、動きを止めた。
ヘルカイザーの顔を、まじまじと見つめる。
「お前……喋れるのか!?」
ヘルカイザーは、少し首を傾げた。
そこに驚くのか、という顔だった。
捕らえたときにも声を掛けていたが、男の方には、聞き取る余裕がなかったのかもしれない。
「貴方には、関係ない話ですよ……」
ゆっくりと、言葉を区切る。
「今から……」
男は、口を閉じた。
柔らかな声の先に、何が続くのか。
その続きを待つ時間だけ、鎖の音が止まった。
ヘルカイザーは、大きな声を出して脅したわけではなかった。最初に捕まえたときからずっと、相手へ話し掛ける調子を崩していない。
男には、その声の軽さと、動かなくなった自分の身体が結びつかなかった。すぐに怒鳴り返せそうな口調なのに、相手はこちらの抗議を聞いて手を止める様子もない。次に何をされるのかが分からないまま、男は小さな白い顔を見下ろしていた。
「貴方は、地獄を見るのだから♪」
◇
ヘルカイザーが取り出したのは、注射器だった。
男がそれを見て、もう一度身体を揺さぶる。
だが、鎖は緩まなかった。
短い動作で、薬が投与された。
「なっ! 何をした!?」
男は、自分の身体を見下ろした。
すぐに何かが変わったようには見えない。
だからこそ、何をされたのか分からず、顔が強張っていた。
「ご安心を♪」
ヘルカイザーは、穏やかに言った。
「今打った薬は、今から約三時間、不死身な身体になるだけです♪」
「……何だと……?」
男は、意味を測りかねた顔をした。
死ななくなる。
それだけを聞けば、むしろ自分を守る薬のようにも思える。
「不死身……だと?」
「ええ♪」
ヘルカイザーが、頷く。
その前脚には、いつの間にかナイフがあった。
「どうやら、信じられないようですねぇ……」
男の視線が、その刃へ落ちた。
鎖が、もう一度鳴る。
「その証拠に……ほら♪」
男が、息を呑んだ。
次に自分の身体を見下ろしたときには、与えられた傷が、目の前で消えようとしていた。
「……なっ!?」
つい先ほどあったはずのものが、なくなっていく。
痛みを覚えているのに、その理由になった痕跡が残らない。
「そ……そんな……」
男は、ヘルカイザーを見た。
小さな白い竜は、実験の結果を確かめたように頷いている。
「ね? 嘘ではないでしょう?」
薬の説明は、嘘ではなかった。
だが、そのことが安心には繋がらない。
男の目が、鎖と、ヘルカイザーの手元を行き来した。
死なない身体。
だから、何をされても終わらない。
その考えへ辿り着いたとき、男の顔から血の気が引いた。
「ま、待て……! 何を――」
声は、最後まで続かなかった。
ヘルカイザーは、笑顔のまま男へ向き直った。
◇
男の声と、鎖の音が続いた。
穏やかだった場所には、もう先ほどまでと同じ静けさはなかった。
ヘルカイザーは、男が反応するたびに、その顔を見ていた。
最初の敵意が、驚きに変わる。
驚きが恐怖になり、やがて、口にできる言葉まで変わっていく。
もう襲いかかるための声ではなかった。
逃げるための勢いも残っていない。
それでも、薬の効果が終わる気配はなかった。
傷は消えても、その間に何が起きたかは、男の記憶に残る。
拘束からは、逃れられない。
顔を背ければ済む相手でもなかった。
ヘルカイザーの声だけが、時折、明るく混ざった。
研究室で新しい結果を見つけたときのように、穏やかだった。
その調子が変わらないことが、男には何より恐ろしかった。
時間が過ぎた。
「もう……」
ようやく出た声は、掠れていた。
「……勘弁してくれ……」
ヘルカイザーが、男へ目を向ける。
不意打ちをして逃げようとしたときとは、まるで違う顔になっていた。
「相手が悪かったですね♪」
男の顔が、僅かに上がった。
だが、その先に見えた笑顔には、やめる様子がない。
「……た……頼む……!」
鎖が、小さく揺れた。
ヘルカイザーは、少し首を傾げる。
「それに……まだ、一時間しか経っていませんよ?」
男が、凍りついた。
三時間。
最初に告げられた長さが、頭の中へ戻ってくる。
すでに長すぎると思っていた時間が、まだその一部でしかない。
男の唇が動いた。
声にはならなかった。
ただ、ヘルカイザーを見つめる目が、恐怖へ染まっていく。
あとどれだけ続くのかを考えることも、男には耐えがたかった。今まで過ぎた時間さえ長すぎたのに、終わりはまだ遠いと言われた。
止めてほしい。そのための言葉を探しても、口から出てくるのは、もう同じ願いばかりだった。ヘルカイザーは、それを聞いている。聞いたうえで、同じ穏やかな顔を向けている。そのことだけが、はっきり分かった。
ヘルカイザーは、その変化を見届けていた。
社長からの任務に取り掛かる前に、予定外の足止めをされた。
それなのに、今は不満そうには見えない。
「さて……」
手元を整え、男へ近づこうとする。
「それでは、続きを楽しみましょうか♪」
男は、反射的に身を強張らせた。
鎖が、乾いた音を立てる。
そのときだった。
「ガーディアンです!!」
女性の声が、響き渡った。
「直ちに、攻撃を中止してください!!」
◇
「……おや?」
ヘルカイザーの動きが、止まった。
声のした方向へ、意識が向く。
突然、大きな声が割り込んできた。
制止する言葉は、こちらへ向けられている。
ヘルカイザーがそちらを確かめようとした、その瞬間。
カシャンッ。
「……あら?」
手にしていたナイフが、男を繋ぐ鎖へ当たっていた。
ちょうど切断された部分が、地面へ落ちる。
男は、その音へ目を向けた。
さっきまで動かなかった場所が、動く。
拘束が緩んだことを理解すると、すぐに身体を起こした。
声の主が誰なのかを確かめるより早かった。助けが来たのか、この小さな竜を止められる相手なのか、考える余裕はない。今動ける。それだけで、十分だった。
男は、ヘルカイザーの方を見なかった。目が合えば、また動けなくなる気がしたのかもしれない。地面へ落ちた鎖から離れ、とにかく遠くへ行こうと足を動かした。
「あっ……!」
立ち上がる。
そのまま、逃げ出す。
先ほどまでの命乞いも、相手へ向けた敵意も、今は言葉にならなかった。
ただ、この場から離れることだけを選んでいた。
ヘルカイザーは、走り去る背中を見送った。
すぐに追おうとはしない。
切れた鎖と、声のした方へ、順に目を向ける。
「……あらあら」
逃げられてしまった。
せっかくの時間を、途中で止められてしまった。
先ほどまで楽しそうだった口元が、ほんの少しだけ変わる。
「……ちっ」
小さな舌打ちが、漏れた。
男が逃げた方ではなく、女性の声がした方へ身体を向ける。
誰だろう。
人の楽しみを邪魔する、無粋な相手は。
ガーディアンだと、声は名乗っていた。社長から制圧を命じられた組織の名だった。もっと街を探索してから知るはずの相手が、向こうから制止に現れたことになる。
ヘルカイザーは、逃げた男へ向けていた意識を、ゆっくり切り替えた。今、こちらへ声を掛けた者を見る。予定とは違っていても、目の前の出来事を確かめることに、ためらいはなかった。
ヘルカイザーは、ゆっくり顔を上げた。
「……ほう?」
青空を背に、一人の女性が浮かんでいた。
白と紺を基調としたバリアジャケット。
左右で結われた長い髪が、風に揺れている。
手には、白と金の魔導杖。
その女性は、それを構え、険しい表情で地上を見下ろしていた。
その視線の先にいるのは、小さな白い竜だった。
背には黒い翼があり、足元には切れた鎖が落ちている。
声を掛けられた相手は、怯えるどころか、興味深そうにこちらを見返していた。
女性は、その視線を受け止めた。先ほどまで男がいた場所と、地面の鎖。そして、小さな相手が手にしている物。見えるものを確かめる間も、杖は下げなかった。
対するヘルカイザーも、こちらを見続けている。名乗りを聞いてすぐに従う者の顔ではない。かといって、制止されたことを取り繕う様子もなかった。穏やかな表情のまま、初めて現れた相手へ興味を向けていた。
ヘルカイザーは、女性の姿を確かめた。
身に纏う装備。構えた杖。そして、自分へ向ける目。
随分と可愛らしい相手だ、という感想が浮かぶ。
だが、楽しみを邪魔したことには変わりがない。
空にいる女性が何を見て、何を考えてここへ来たのかも、まだ聞いていなかった。
ヘルカイザーの口元へ、ゆっくり笑みが戻る。
女性は、杖を下げない。
ガーディアン制圧の命令を受けてきた者と、その場の攻撃を止めに入った魔導師。
アルカディアの空の下で、二人の視線が初めて交わった。
ヘルカイザーは、黒い翼を僅かに動かした。
さて。
この方を、どうして差し上げましょうか。




