第33話 もう一度、会うために
――咲視点――
「……享司……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
声にしてから、また呼んでしまったのだと気づいた。
口にしないように決めたわけではない。ただ、何度呼んでも同じことだと、自分で分かっているはずだった。
それでも、名前は簡単に出てきてしまう。
長い間、そうしてきたからだ。考えてから呼ぶより、話したいことが浮かんだ時には、もう呼んでいる。その後で、返ってくるはずの声を待ってしまう。
ほんの少しの間だけ、待つ。
それから、何も聞こえないことを確かめる。
昨日も知っていたことを、今日も同じように確かめてしまった。もうすぐ一年になるというのに、こういう小さなところでは、まだ、あいつがいた時の順番で動いてしまう。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、ふとした拍子に口からこぼれてしまう。
幼い頃から、ずっとそばにいた。
一緒に笑って、言い合いをして、また何でもない顔で話す。
それが当たり前だった。
一緒にいる時に、いつも特別な話をしていたわけではない。
笑ったり、言い合ったりする、その一つひとつに、わざわざ理由をつけていたわけでもなかった。
ただ、話す相手として、自然にあいつを選んでいた。
何かを見て、これを話したらどう思うだろうと考える。面白いと思っても、腹が立っても、聞いてほしい相手が同じだった。
幼馴染。
その言葉は、便利だった。
ずっと一緒にいる理由を、細かく言わなくてもよくなる。あいつへ向けている気持ちについても、それで説明したつもりになれた。
でも、その言葉に頼っていたのは、私の方だったのかもしれない。
言わなくてもよいことと、言わなければ届かないことを、きちんと分けていなかった。
明日も、その次の日も。
同じように過ごせるものだと思っていた。
今、全部話さなくても、次がある。
言いそびれたことがあっても、また会った時に話せばいい。
そう思える時間の中にいると、それが、いつまでも残っているもののように感じてしまう。
明日の予定を、何も怖がらずに考えられる。その中には、あいつがいる。少なくとも、会えなくなる可能性まで、毎日確かめたりはしなかった。
私は、そこへ甘えていた。
ずっと一緒にいたという過去が、この先も一緒にいられることまで保証してくれるように思っていた。
でも、過ぎた時間が長いからといって、次の一日まで約束されるわけではなかった。
そんな当たり前のことを、あいつを失ってから、思い知らされることになった。
……あいつの両親が亡くなった時も、そうだった。
車線を逸脱したトラックとの正面衝突。
二人とも、即死だったという。
その短い説明の中に、享司が失ったものの大きさまで収まるはずがなかった。
両親が帰ってこない。
それまで続いていた暮らしが、本人には選びようのないことで変わってしまう。
私は、あいつのそばにいた。
同じ出来事を聞いても、あいつが失ったものと、私が感じたことを、そのまま同じだとは言えなかった。
悲しかっただろう。
苦しかっただろう。
そう思っても、何を言えばよいのか分からないことがある。
そばにいるからこそ、簡単な言葉で済ませたくないと思うこともあった。
今になって思い返しても、その時のあいつの時間を、私が全部分かっていたとは言えない。
突然、大切な人を失う。
享司は、そんな出来事を経験していた。
その享司まで、いなくなってしまった。
大切な相手が突然いなくなることを、知らなかったわけではない。
享司の身に起きたことを、私は知っていた。
それでも、自分も同じように、明日を奪われるかもしれないとは考えなかった。
あいつがそばにいる毎日を、疑わずに受け取っていた。
だから、何度考えても、心のどこかが追いつかない。
知っていたはずなのに。
大切なものは、突然なくなってしまうことがあると、分かっていたはずなのに。
その分かっていたという言葉が、今は、何の役にも立たなかった。
享司がいないということを考えるたび、今までの当たり前へ、手を伸ばしそうになる。
「……何なのよ、もう……」
あいつは、困っている相手を放っておけない。
人でも、動物でも。
最後だって、仔犬を助けようとしていた。
そう聞けば、あいつなら、と考えてしまう自分がいる。
放っておけなかったのだろう。
目の前に助けられるかもしれない相手がいれば、手を伸ばしてしまう。
そこを知っているから、事情を聞いても、全く想像できない話にはならなかった。
でも、想像できることが、苦しくもあった。
違う行動を選んでほしかったと思う。
同時に、そうしなかったあいつのことも、私は知っている。
優しかったことを、責めたいわけではない。
誰かを助けようとした気持ちまで、嫌いになれるわけでもない。
ただ、その結果として、あいつが帰ってこなくなったことを、どう受け止めればいいのかが分からなかった。
……享司らしい。
そう思うことはできる。
けれど、それで納得できるわけではなかった。
誰かを助けたから。
優しい人だったから。
そんな言葉をいくつ並べられても、もう会えないという事実は変わらない。
頭の中では、いろいろな言葉を考えられる。
あいつらしいことをしたのだと、言うことだってできる。
けれど、その言葉を口にした後にも、私はまた、あいつに話しかけたくなってしまう。
自分の言ったことへ、あいつがどう答えるのかを知りたくなる。
そこで、止まる。
本人に聞けないことを、また一つ増やしてしまったと気づく。
どんなふうに説明しても、あいつの声は返ってこない。
納得したような言い方を覚えることと、本当に心が追いつくことは違っていた。
私は、その間に、ずっと立ち尽くしているような気がした。
顔が見たかった。
声が聞きたかった。
くだらないことで言い合いをしたかった。
ただ、そばにいてほしかった。
その願いを、自分で口にすることが、ひどくわがままに思える時もあった。
あいつが誰かを助けようとしたのだと知っていながら、私のそばへ戻ってきてほしかったと思ってしまう。
でも、思わないようにしたところで、なくなる気持ちではなかった。
今ここにいれば。
もう一度、顔を見ることができれば。
そう考えるたび、私は、あいつを好きだったのだと分かる。
失ってから気づいたことだった。
けれど、一度気づいてしまえば、幼馴染だからという言葉だけで、また隠してしまうことはできなかった。
好きだった。
そして、今も、会いたい。
それを伝える相手がいないことが、何より悔しかった。
幼馴染だから。
ずっと一緒だったから。
そう言えば、説明できると思っていた。
けれど、それだけではなかった。
もう会えなくなってから、何度も同じことを考えた。
幼馴染という言葉に隠していた気持ちが、恋だったのだと、ようやく気づいた。
「……今さら、気づいたって……」
答えを伝える相手は、いない。
自分の気持ちに名前をつけられても、それだけでは何も変わらなかった。
明日、会えるようになるわけではない。
呼びかければ、返事をしてもらえるようになるわけでもない。
それでも、気づかなかった頃へ戻りたいとは思えなかった。
何もかも幼馴染だからで済ませていた時には、私は、自分がどれほどあいつを求めていたのかを見ようとしていなかった。
今は、分かっている。
分かっているから、苦しい。
好きだと伝えたら、どんな顔をしたのだろう。
驚いたのか、それとも、何か言い返したのか。
いくら考えても、それは私の想像の中から出られない。
本人の返事を、一度でいいから聞きたかった。
◇ ◇ ◇
仔犬がいた。
その小さな姿に目が留まり、私は足を止めた。
しゃがみ込むと、仔犬はこちらへ近づいてくる。
「……こんにちは」
そっと手を伸ばした。
近づいてきた仔犬に、こちらから顔を寄せる。
小さな動きを目で追っている間だけ、考えていたことが、少し遠くへ引いていった。
目の前には、今、動いているものがいる。
手を伸ばせば、その手へ反応してくれる。
こちらの存在に気づき、近づいてくれる、その単純なやり取りが嬉しかった。
何を言えばいいのかと、考え込まなくてもよかった。
声をかけて、様子を見て、また手を伸ばす。
ただ、それだけの時間だった。
小さな身体に触れると、仔犬が嬉しそうに動く。
思わず、笑みがこぼれた。
「あんたも、人懐っこいのね」
しばらく、その仔犬と戯れていた。
小さな身体の動きにつられて、私の手も動く。
顔を上げられると、こちらも自然に目を合わせていた。
いつの間にか、口元が緩んでいる。
笑おうと考えて笑ったわけではなかった。
目の前の相手を見ているうちに、そうなっていた。
そんな自分に気づくと、少しだけ、不思議な気持ちになる。
悲しいことがなくなったわけではない。
享司へ会いたいという思いも、さっきまでと変わらず胸の中にあった。
それでも、仔犬を見て、可愛いと思える。
近づいてきてくれたことを、嬉しいと感じる。
その短い時間の中にも、あいつだったら、という考えが、また顔を出した。
享司だったら、どうしただろう。
きっと、同じように足を止めたはずだ。
目の前で動く小さな姿から、あいつのことへ考えが戻る。
話して聞かせたい、と思ってしまった。
こんな仔犬がいた。
人懐っこくて、近づいてきたのだと。
そこまで考えて、また、言えないことを思い出す。
私は、伸ばしていた手を、仔犬の方へ向けたままでいた。
この相手は、私のそんな事情を知らない。
ただ、今、ここにいる私へ近づいてくる。
だから、こちらも、その小さな動きを見ていればよかった。
少なくとも、その時は、自分に何かが起きるなどとは考えていなかった。
そんなことを考えた、その時だった。
後頭部に、硬いものが当たった。
何かの気配に気づいて、身構えたわけではない。
危ないと思い、避けようとした時間もなかった。
さっきまで見ていたものが、急に、うまく捉えられなくなる。
仔犬へ向けていた意識を、どこへ戻せばよいのかも分からなかった。
何が当たったのだろう。
考えようとした、その問いさえ、最後まで形にならなかった。
声を出せたのかどうかも、分からない。
何かを確かめる前に、すべてが途切れてしまった。
何が起きたのか、分からなかった。
振り返ることも、声を上げることもできない。
ただ、視界が途切れた。
◇ ◇ ◇
次に気がついた時、私は白い空間にいた。
「……何、ここ……?」
自分の声が出たことを、少し遅れて確かめた。
話せている。
考えることもできる。
それなのに、さっき見ていた景色がない。
どちらへ目を向けても、見覚えのある場所へつながらなかった。
最後に何をしていたのか、思い返す。
仔犬がいた。
しゃがんで、手を伸ばしていた。
それから、何かが当たった。
そこまでは覚えている。
でも、その先に、この白い場所へ来るための時間が見つからない。
どれくらい意識を失っていたのかも、ここへどうやって来たのかも分からなかった。
見回しても、さっきの仔犬はいない。
歩いていた場所でもない。
訳が分からずにいると、目の前に二人の女性がいた。
一人は、ひどく申し訳なさそうな顔をしている。
もう一人は、その隣で私を見ていた。
二人とも、私には見覚えがなかった。
ここが何なのかを知っているのなら、まず、それを教えてほしかった。
けれど、口を開こうとして、相手の表情が気になった。
片方の女性は、私へ何かを言おうとしている。
その言葉が、なかなか出てこないようにも見えた。
私が何かをしたのだろうか。
それとも、私に何かが起きたのだろうか。
最後に覚えている衝撃を思い出すと、後者の方が近いような気がした。
それでも、ここにいる二人へ、どう話しかければよいのかは、まだ分からなかった。
「……すみません……」
最初に口を開いたのは、申し訳なさそうにしていた方だった。
「え?」
「本当に、申し訳ありません……」
私は、二人の顔を交互に見た。
何を謝られているのだろう。
そもそも、ここはどこなのだろう。
謝罪だけでは、何も分からなかった。
相手が悪いことをしたのだと言われても、何についてのことなのかが見えてこない。
私は、さっきまでの自分と、今ここにいる自分の間を、つなぐ説明を待っていた。
ここへ来る前に、何があったのか。
自分の身に、何が起きたのか。
相手の申し訳なさそうな顔を見ているうちに、簡単な話ではないのかもしれないと思い始めた。
それでも、まずは聞かなければならなかった。
謝っている理由も、私がここにいる理由も。
その疑問に答えるように、説明が始まった。
ここにいる二人は、フィナとアテナ。
フィナは天使、アテナは女神だと知った。
聞き慣れた言葉なのに、目の前の二人へ結びつけるには、少し時間が必要だった。
そんな相手が、本当にいる。
そして、私へ説明をしようとしている。
何も知らないまま、二人の話すことを、すぐに全部飲み込むことはできなかった。
それでも、ふざけているようには見えない。
フィナの表情は、先ほどから変わらず重かった。
アテナの方へ目を向けると、説明の続きが返ってきた。
そして、私が元の場所にいない理由。
「……死んだ?」
聞かされた言葉を、そのまま繰り返した。
さっきの衝撃。
何も分からないまま途切れた意識。
あれで、私の人生は終わったというのだ。
死んだ。
その言葉を、私は知っている。
知らないものの説明を受けたわけではなかった。
享司がいなくなってから、何度も考えてきた言葉だった。
けれど、今それは、私自身について使われている。
享司のことを思う側にいたはずだった。
失った相手を、もう一度呼んでしまう側にいた。
その自分が、今度は、もう元の場所にはいないのだと言われている。
説明は聞こえていた。
言葉の意味も分かる。
それなのに、聞いた言葉の方へ、自分の感覚が追いついてこなかった。
「……そんな……」
実感がなかった。
今もこうして考えているし、話している。
それなのに、私はもう死んでいる。
白い空間を見回しても、その答えは変わらなかった。
目に入るものの中に、いつもの暮らしへ戻る手がかりは見つからない。
あの衝撃の前まで、私は、こんなことを聞かされるとは思っていなかった。
何かを終える覚悟も、誰かへ最後の言葉を伝えるつもりもなかった。
何も選ばないまま、突然、終わっていた。
享司の死を知った時に感じた理不尽さが、今度は、自分の身に起きたこととして目の前に置かれている。
怒ればよいのか。
悲しめばよいのか。
何から考えればよいのかさえ、すぐには決められなかった。
さらに説明を聞き、私はフィナを見た。
原因は、彼女の失敗だった。
私は、もう一度、フィナを見た。
彼女が謝っていたのは、そのことだったのだ。
最初から、理由もなく頭を下げていたわけではなかった。
けれど、理由が分かったからといって、それで、すぐに何かが片づくわけでもなかった。
私の人生が終わった。
その原因が、目の前にいる相手の失敗だという。
ただ聞いて、分かりましたと答えられるような話ではない。
相手が申し訳なさそうにしていることも、私の中に生じた戸惑いも、どちらも同時にそこにあった。
私は、説明を聞き続けた。
まだ分からないことが、多すぎた。
「……同じ過ちを、また……」
フィナは、顔を上げられずにいた。
その言葉が引っかかった。
「……同じ?」
初めてではない、ということだろうか。
同じ過ち。
その言い方は、以前にも何かがあったことを示している。
自分だけではないのか。
ほかにも、こうして突然、終わりを告げられた相手がいるのだろうか。
私は、フィナの言葉を、もう一度、頭の中で辿った。
うっかり聞き流してよい言葉だとは思えなかった。
でも、この時は、まだ、その先に誰の名前が出てくるのかなど、想像していなかった。
自分に起きたことを、どう受け止めるか。
それだけでも、考えることは多すぎたのだから。
その疑問から、話は思いがけない方向へ進んだ。
「金城享司さんのことを、ご存じですね」
アテナが、その名前を口にした。
私は、息を止めた。
白い空間も、目の前の二人も、一瞬、意識の端へ遠ざかった。
金城享司。
聞き間違えるはずがない。
私が、何度も呼んできた名前だった。
その名前を、どうして、この人が知っているのだろう。
ここに来るまで、私は二人を知らなかった。
享司のことを話した覚えもない。
それなのに、まるで、私に関わる話の続きとして、その名前が出てきた。
問い返す声を出すまでに、少し時間がかかった。
何を言われるのかを、先に怖がってしまった。
「……享司?」
どうして、ここであいつの名前が出るのだろう。
驚きより先に、胸が痛くなった。
もう会えない幼馴染の名前を、こんな場所で聞くとは思わなかった。
「……知ってるけど……」
声が、少し震えた。
「あいつが、どうしたの?」
聞かずにいられなかった。
何も知らない人の前で、あいつのことを話し始めるのとは違う。
向こうは、名前を知っている。
その名前と私との間に、何かがあることまで知っているようだった。
また、死について説明されるのだろうか。
すでに知っていることを、もう一度聞くのだろうか。
そう身構える気持ちもあった。
けれど、私が知らない何かを知っているのなら、聞きたかった。
享司に関することを、そのまま聞かずに済ませることなどできなかった。
アテナは、私を見つめた。
「あの方は、別の世界へ転生されています」
アテナの口が、その言葉を形にする。
私は、その声を聞いていた。
一つひとつの言葉は、聞き取れていた。
けれど、全部を合わせた時に、何を言われたのかが分からなくなる。
別の世界へ。
転生している。
死んだという話の続きに、そんな言葉が来るとは思っていなかった。
私の中で、享司についての説明は、ずっと、もう会えないというところで止まっていた。
その先が、今、目の前で語られている。
私は、どう受け止めればよいのか分からず、アテナを見つめた。
「……え?」
言葉の意味が、すぐには分からなかった。
別の世界。
転生。
聞こえた言葉を、頭の中で繰り返す。
「……それって……」
喉が詰まった。
続きを口にするのが怖かった。
もし、勘違いだったら。
私が勝手に、都合のいい意味で受け取っているだけだったら。
それでも、聞かずにはいられなかった。
私が知りたいのは、聞こえのよい言葉ではなかった。
転生という言い方の、細かな意味を聞きたいのでもなかった。
享司は、今も、どこかにいるのか。
自分の知らない場所で、考えたり、話したりしているのか。
そのことを、確かめたかった。
期待してしまうのが怖い。
そんなふうに考える間にも、もう、期待は胸の中へ入ってきていた。
違うと言われたら、何も聞かなかった時よりも苦しくなるだろう。
でも、聞かなければ、この先の言葉へ進めなかった。
「享司は……生きてるの?」
アテナが頷いた。
「はい。転生先の世界で、生きていらっしゃいます」
はっきりとした返事だった。
私が問いかけたことへ、アテナは、そのまま答えてくれた。
生きている。
あの人は、生きていると言った。
何か別の意味に受け取らないよう、私は、聞こえた言葉を何度も考え直した。
それでも、答えは同じだった。
あいつが、この世界にはいない。
そのことと、もう、どこにもいないということは、同じではなかったのだ。
ずっと一つにして考えていたものの間に、急に、道ができたような気がした。
その先がどこなのかも、まだ見えていないのに。
「…………」
しばらく、何も言えなかった。
死んだと思っていた。
二度と会えないと思っていた。
何度呼んでも返事がなかった。
伝えたいことがあっても、伝えられなかった。
その享司が。
「……生きてる……」
自分で繰り返した途端、目の奥が熱くなった。
何度も名前を呼んだ。
返事がないことを、そのたびに確かめていた。
その声が、どこにも存在しないわけではなかった。
私が聞けなかったところに、あいつはいる。
もうすぐ一年。
その間、自分が何を考えてきたのかを思い出すと、簡単な言葉では言い表せなかった。
嬉しい。
そう思うだけでは、追いつかなかった。
驚きも、信じたい気持ちも、もっと確かめたいという思いも、いっぺんに胸へ押し寄せた。
ただ、さっきまでとは違っていた。
あいつを思う気持ちの行き先が、もう会えないというところだけではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
私にも、転生するという選択が示された。
今度は、自分についての話だった。
知らない場所で、新しく生きる。
白い空間へ来たばかりの時なら、その説明を聞いても、何を望めばよいのか、すぐには分からなかったかもしれない。
でも、今は、一つだけ、はっきりしていることがあった。
享司が生きている。
そして、私にも、別の世界へ行く選択がある。
まだ、会えると決まったわけではない。
同じ世界へ行くことと、本人を見つけることは、きっと別の話だろう。
それでも、自分でそこへ向かうことができる。
何もできずに名前を呼ぶだけだった時間から、一歩、動けるのかもしれなかった。
別の世界で、新しい人生を始める。
説明を聞きながら、もう答えは決まっていた。
「享司と、同じ世界に行きたい」
私は、二人に告げた。
言葉にしてから、自分の答えを、もう一度聞いた。
享司と同じ世界。
別の行き先を考えてみようという気持ちには、ならなかった。
自分の人生が突然終わったことを、簡単に納得したわけではない。
フィナの説明も、白い空間へ来るまでの出来事も、驚きが消えたわけではなかった。
ただ、そのことと、ここから先へどこに行きたいかは、別に考えることができた。
望みを聞かれたのなら、これを伝えたかった。
もう一度、あいつに会うために。
私が向かいたいのは、あいつのいる場所だった。
どんな世界なのか。
どんな暮らしが待っているのか。
まだ、分からないことばかりだった。
けれど、行き先だけは迷わなかった。
あいつが生きている。
もう一度、会えるかもしれない。
それを知ってしまったら、別の場所を選ぶことなどできない。
転生にあたっての希望も伝えた。
「能力は、チートって呼べるくらいのものが欲しい」
知らない世界へ行くのだから、何も起きないとは言い切れない。
その場所で、何ができるのか。
どうやって、自分の望むところへ向かえばよいのか。
今は、まだ、何も分かっていなかった。
だから、力も欲しかった。
どんな暮らしが待っているのか分からないままでも、自分で動いていけるように。
願いを口にできるのなら、遠慮して、後から困りたくはなかった。
享司を探したいという思いだけを持っていても、何もできずに立ち尽くすことになったら意味がない。
具体的に何が起きるのかは、想像しきれなかった。
それでも、手に入れられる力については、きちんと希望を伝えておきたかった。
そして、自分の姿についても。
「容姿は、今のままで」
新しい世界へ行っても、新里咲として享司に会いたかった。
私自身が、あいつへ会いに行く。
その気持ちを、途中で曖昧にしてしまいたくなかった。
幼い頃から一緒に過ごしていた私が、知らない世界まで追いかけていく。
会えたら、驚くかもしれない。
何をしているのかと、聞かれるかもしれない。
それでも、あいつの顔を見て、自分の言葉で話したかった。
知らない誰かになって、遠くから様子を見るために行くのではない。
容姿を今のままにしてほしいと伝える時、その気持ちは、はっきりしていた。
新しい人生という言葉の中へ、自分と享司の間にあった時間まで、置いていきたくなかった。
いくつもの思いが、胸の中にあった。
会えたら、何を言おう。
どんな顔をするだろう。
言いたいことは、山ほどある。
でも、今はまだ、うまく順番をつけられなかった。
亡くなったと思っていた間のことも、好きだと気づいたことも、話したいと思えば、いくつも言葉が浮かんだ。
けれど、そのどれを最初に言うのかと考えると、また分からなくなる。
あいつの顔を見れば、もっと違う言葉が出てくるかもしれない。
今すべてを決めておく必要はなかった。
まだ会ってもいないのに、本人の返事まで想像して、話を終わらせたくはない。
私は、あいつの本当の声を聞きたい。
想像の中で、自分に都合のよい答えを返してもらいたいのではなかった。
どんな顔をするのかは、会ってから確かめればいい。
そのために、今、行き先を選んでいるのだから。
まずは、会いたい。
その思いだけは、はっきりしていた。
こうして私は、享司のいる世界への転生を選んだ。




