第32話 トラブル
――はち視点――
いろはさん達と和解してから、三ヶ月が過ぎました。
そして、自分は今、研究室にいます♪
三ヶ月という時間は、過ぎてみれば短かった。
けれど、振り返ると、あの頃とは随分違う場所に立っている気がする。
いろはさん達と顔を合わせる時、もう、相手の表情の裏ばかりを探らなくてよくなった。名前を呼ばれれば、返事をする。何かあれば、話をする。そんな普通のことが、今は普通に続いている。
もちろん、何もかも一度に忘れられるわけではない。
ただ、誰かが疲れた顔をしているのを見て、何かできないだろうかと考えられる。そのために、研究室へ向かっている。
少なくとも今は、自分の力を、そういうことに使おうと思えているのだ。
研究室の中は静かだった。
作業台へ向かうと、目の前のことに意識が集まっていく。何を作るのか、どこまでできているのか。考える順番がはっきりしている作業は、やはり落ち着く。
……まあ、落ち着いているからといって、何をしても大丈夫なわけではないのだけど。
いやね?
新たな発明をしようと思って、ここにいるのだけど。
最近、皆さん、お疲れのようですからね。
元気になる栄養ドリンクを作ろうと思ったわけですよ。
疲れている時に、無理をしてほしいわけではない。
休める時には、休んでもらいたい。それは、それとして。
少しでも元気になれるものを作れたら、役に立てるかもしれない。そう思ったのだ。
何か大げさなことをするつもりはなかった。飲んでもらって、少し楽になったと言ってもらえれば、それで十分だった。
せっかく、自分にはものを作るための場所も、考えるための時間もある。
作ったものを渡したいと思える相手までいる。
それなら、その相手のために使ってみたいじゃないですか。
もっとも、思いついた時点で完成するほど、調合は都合よく進まない。
目の前にある二種類の液体も、ただ勢いよく混ぜればよいというものではなかった。最後まで、きちんと作り上げなければ、栄養ドリンクとして渡すことはできない。
自分は、作業台の上へ視線を落とした。
あとは最後の調合。それさえ済めば、ようやく形になるところまで来ていた。
「さて! あとは、この二種類のドリンクを調合すれば完成だ!」
ただし、調合は慎重にしないといけない。
何が起こるか分からないからね。
完成が近いと、つい気が緩みそうになる。
長く考えてきたことが、あと少しで終わる。そう思うと、早く結果を見たくなるものだ。
でも、その最後の少しを雑にして、ここまでの作業を台無しにするわけにはいかない。
自分は、手に持った容器を確かめた。
混ぜる量が変われば、反応だって変わる。
頭では分かっていることを、今度は手元で守らなければならない。
だから、慎重に。
容器を傾ける角度にも気を配り、液体の動きを見ながら、少しずつ作業を進めた。
研究室の静けさの中では、そういう小さな動きまで、はっきりと意識に入ってくる。
あと少し。
そう思いながらも、手だけは急がせないようにしていた。
そう思いながら、自分は調合を始めた。
しかし――。
「ハ〜チ〜ちゃん!」
いきなり、誰かに抱きつかれた。
背中から、不意に身体を包まれる。
作業台に向けていた意識が、その一瞬で引き戻された。
聞き慣れた声だった。
誰なのかを考えるより先に、身体の方が驚いてしまった。
名前を呼ばれることも、抱きつかれることも、初めてではない。
普段なら、驚いてからでも返事ができる。少し困った声を出しながら、相手を振り返ることだってできた。
けれど、今は、その普段どおりの間がなかった。
片手には容器がある。
しかも、まさに中身を加えようとしているところだった。
振り返る前に、肩が動いた。
肩が動いた分だけ、手元も揺れた。
「わふっ!」
驚いた拍子に手元が狂い、ドリンクを多めに混ぜてしまった。
傾きが大きくなった。
少しずつ加えていたはずの液体が、思っていたよりも多く流れ込む。
戻そうとした時には、もう遅かった。
容器を起こしても、入ってしまったものまで戻せるわけではない。
目の前にある量を見て、一瞬、頭の中が真っ白になった。
さっきまで、慎重にしようと考えていたのに。
最後に気を抜いてはいけないと、分かっていたはずなのに。
こういう時に限って、考えていた注意事項は、やけにはっきりと思い出せるのである。
思い出せるだけで、起きてしまったことの方は、少しも待ってくれないのだけど。
「わふっ! しまった!」
自分が持っていたドリンクが、みるみる化学反応を起こしていく。
液体の様子が変わっていく。
さっきまで手元の動きに合わせて静かに揺れていたものが、もう違う動きをしていた。
これ、まずいのでは。
そう思った時には、抱きついてきた相手へ説明する余裕もなくなっていた。
何が起きるのかを確かめたい。
でも、目の前で起きている変化は、確かめる間にも進んでしまう。
容器を持つ手を、そのままにしてよいのか。
離れなければならないのか。
考えがまとまる前に、反応の方が先へ進んだ。
――ボンッ!
爆発した。
抱きついてきた人物は、とっさに防御して自分を守ろうとした。
それでも、自分は爆発に巻き込まれてしまった。
「はちちゃん!」
薄れていく意識の中、驚いた表情のいろはさんが見えた。
いろはさん、なんてことを……。
そして自分は、煙の中で意識を失った。
◇ ◇ ◇
――いろは視点――
私が研究室へ来た時、はちちゃんは作業台へ向かっていた。
こちらを振り返る様子はない。
それだけ、手元のことへ集中しているのだろう。
その姿を見ていると、つい声をかけたくなった。
何を作っているのか聞いてみたいし、名前を呼んだら、どんな顔で振り返るのかも見たかった。
この時の私は、作業のどの段階なのかを、まだ確かめていなかった。
あとから考えれば、最初に聞くべきことだったのに。
その時は、会えた嬉しさの方が先に立っていた。
今、はちちゃんの研究室にいるんだけど……。
はちちゃんが作った、ポータブルゲートだっけ?
あれは便利だよね〜。
あれだけで、どこへでも行けるし♪
研究室まで来ることが、こんなにも簡単になる。
行きたい場所がある時に、そこへ向かうための手間を、あっさりと変えてしまう。
使う側になってみると、便利だなと思う。
でも、それを作ったのは、今、目の前で一生懸命に何かをしている、はちちゃんなのだ。
普段、一緒に過ごしている時には、つい可愛らしいところへ目がいってしまう。
名前を呼ぶと返事をしてくれる声も、少し驚いた時の反応も知っている。
その同じ子が、こういうものまで作ってしまう。
何度見ても、不思議な気持ちになるところだった。
……おっと、いけない、いけない。
それを使って研究室まで来たんだけど、はちちゃん、何やら一生懸命に作っているね。
ちょっと、驚かせてみようかな?
そう思った時、私はもう、はちちゃんの方へ近づいていた。
振り返ってくれるのを待つより、こちらから呼んでしまおう。
驚いたら、その後で話を聞けばいい。
そのくらいの、軽い気持ちだった。
困らせたいと思っていたわけでも、作業を失敗させたいと思っていたわけでもない。
ただ、今いることに気づいてほしかった。
顔を見て、いつものように話したかった。
相手が手に持っているものへ、先に目を向けていれば。
そんなふうに考えることになるとは、この時はまだ思っていなかった。
「ハ〜チ〜ちゃん!」
私は、はちちゃんに抱きついてみた。
「わふっ!」
はちちゃんは、何か液体を調合していたみたい。
……何か、嫌な予感がする。
はちちゃんの手が揺れた。
容器が傾き、液体が流れ込むところが見えた。
その動きに、はちちゃん自身が驚いていた。
私に抱きつかれた時の声とは、少し違う。
何か、してはいけないことをしてしまった。
そのことだけは、顔を見て分かった。
声をかける前に、手元の液体へ視線が移った。
今まで普通に見えていたものが、急に、何が起きるか分からないものへ変わっていた。
抱きしめる腕から、力を抜かなければ。
そう思うのと、はちちゃんの声を聞くのが、ほとんど同時だった。
「わふっ! しまった!」
予感は当たってしまった。
はちちゃんが持っていた液体が、みるみる化学反応を起こして――。
――ボンッ!
爆発した。
私は、とっさに防御したから無事だった。
けれど、はちちゃんが巻き込まれてしまった。
「はちちゃん!」
慌てて名前を呼ぶ。
まさか、こんなことになるなんて思っていなかった。
ほんの少し前まで、そこには、作業をしているはちちゃんがいた。
いつものように名前を呼べば、振り返ってくれるはずだった。
それが今は、煙の向こうへ見えなくなっている。
私は、もう一度、声をかけようとした。
名前を呼ぶ以外に、すぐ口から出てくる言葉がなかった。
返事を聞きたかった。
どんな声でもいいから、こちらへ返してほしかった。
自分が急に抱きついたことを、今さらなかったことにはできない。
だからこそ、目の前の様子を確かめなければならなかった。
煙が薄くなるのを待つ時間が、やけに長く感じられた。
やがて、煙が引いていく。
私は、驚いた。
だって……。
はちちゃんに……。
犬耳と尻尾が、生えているんだもん。
最初は、見間違えたのかと思った。
煙が残っているせいで、髪が違う形に見えているのかもしれない。
でも、そう考えかけたところで、その耳が動いた。
ぴくり、と。
私の方へ向いている。
背後では、尻尾も揺れていた。
髪が揺れているのとは違う。こちらを見ているはちちゃんの気持ちに合わせるように、ぱたぱたと動いていた。
顔は、はちちゃんだった。
さっきまで作業していた子が、目の前にいる。
それなのに、見慣れた姿の中へ、見慣れない耳と尻尾が加わっている。
心配しなければならないのに、驚きの方へ意識を引っ張られてしまった。
思わず、唖然としてしまった。
そのまま、しばらく動けずにいると――。
「わふっ♪」
はちちゃんが、いきなり私に向かって抱きついてきた。
今度は、こちらが何も言う前だった。
嬉しそうに近づいてくる。
その表情を見て、一瞬、返事をしてくれたのだと思った。
けれど、近づいてくる勢いは、そのまま止まらなかった。
受け止めようとした腕の中へ、小さな身体が飛び込んでくる。
さっきは、私から抱きついた。
今は、はちちゃんの方から来ている。
その違いに驚く間もなく、足元のバランスが崩れた。
「わっ!?」
驚いた私はバランスを崩し、はちちゃんと一緒に倒れてしまった。
――ばたんっ。
はちちゃんは私の上に乗ると、そのまま顔を舐め始めた。
顔を覗き込まれたのだと思った、その直後だった。
頬に触れる感触に、思わず首が動く。
避けた先まで、はちちゃんの顔がついてきた。
間近で見る犬耳が、また動いていた。
尻尾も止まらない。
何を考えているのか、いつものはちちゃんなら言葉で聞ける。
けれど、今は、こちらを見る目も、動く耳も、揺れる尻尾も、同じように楽しそうだった。
怒っているわけではなさそう。
苦しがっているようにも見えない。
そのことには少し安心した。
でも、だからといって、このままでいいわけではない。
ぺろぺろ。
……ちょっと、はちちゃん?
「は、はちちゃん、くすぐったいよ」
そう言ってみたのだけれど。
ぺろぺろ。
止めてくれない。
言葉は、届いているのだろうか。
名前を呼べば、こちらを見てくれる。
でも、私が困っていることまでは、うまく伝わっていない気がした。
はちちゃんの肩へ手を添え、少し距離を取ろうとする。
すると、その手に寄ってくるように身体を動かす。
起き上がろうとすれば、顔を覗き込んでくる。
顔を離せば、また近づく。
一つ動くたびに、次の動きが返ってくる。
私が遊びに付き合っているように見えているのかもしれない。
でも、私は、ちゃんと話をしたかった。
何が起きたのか確かめて、元に戻す方法を考えなければならないのだから。
はちちゃん、ふざけているの?
「はちちゃん! いい加減にしないと、怒るよ」
私は、はちちゃんに警告した。
しかし――。
「わふ〜」
今度は、肩口に頬を寄せて、すりすりと甘えてくる。
そこへ落ち着こうとするように、小さな身体が寄ってくる。
さっきまで顔を覗き込んでいたのに、今度は、私が起き上がるのを待つ気配もなかった。
嬉しそうなのは、分かる。
それは、分かるんだけど。
抱きとめたままでは、こちらも身動きが取りづらい。
姿勢を変えようとしても、その動きを、さらにじゃれつくきっかけにされてしまう。
私は、肩口へ寄ってくる頭を見た。
ふわりとした耳が、すぐそばにある。
可愛い、と思ってしまう気持ちと、今はそれどころではないという気持ちが、頭の中で行ったり来たりしていた。
「はちちゃん、ちょっと待って……!」
これでは、起き上がることもできない。
このままではいけないと思い、私は、はちちゃんを無理やり引き離した。
「キャイン!」
驚いたのか、はちちゃんは、すぐさま研究室から逃げ出してしまった。
……まさか。
犬化している?
耳や尻尾の見た目だけの問題ではないのかもしれない。
顔を舐めてきたこと。
何度声をかけても、普通の返事がなかったこと。
引き離した時の鳴き声。
一つずつ思い返すと、さっきまでの行動が、違う意味に見えてきた。
ふざけているのだと決めつけて、怒りそうになってしまった。
でも、今のはちちゃんは、いつものように説明を聞ける状態ではないのかもしれない。
そう思った途端、逃げていった先が心配になった。
知らない相手に同じように近づいたら、驚かせてしまう。
はちちゃん自身が、困ることになるかもしれない。
とにかく、追いつかなければ。
「大変……すぐに捕まえなきゃ!」
私は、急いではちちゃんの後を追った。
◇ ◇ ◇
はちちゃんは、すぐに見つかった。
かなでちゃんやレイちゃん達が、はちちゃんを追いかけていたのだ。
二人の様子を見て、何かが起きたことは、すぐに分かった。
はちちゃんの方を見ている顔が、いつもと違う。
驚きもある。
困っているようにも見える。
そして、顔が赤い。
事情を知らずに、あの調子で近づかれたのなら、無理もないと思った。
私だって、最初は何をしているのか分からなかったのだから。
でも、二人は、研究室の爆発を見ていない。
どうして耳と尻尾が生えたのかも、何が原因でこうなっているのかも、知らないはずだった。
追いかけるだけではなく、説明しなければ。
二人とはちちゃんの間へ目を向けながら、私は急いだ。
レイちゃん達も、私と同じようにじゃれつかれたのかな?
私も追いかけないと。
「さあ、もう逃げられへんで」
かなでちゃんは顔を真っ赤にして、恥ずかしそうな表情ではちちゃんを追い詰めていた。
「はち、どうしてこんなイタズラしたの!」
レイちゃんも、恥ずかしそうな顔ではちちゃんを問い詰めている。
はちちゃんは、二人を見ていた。
耳が動き、尻尾が揺れる。
いつもなら、ここで何か言うはずだった。
どうしてそんなことになったのか、慌てながらでも説明するはずだ。
けれど、言葉が返ってこない。
二人の方は、返事を待っている。
説明してほしいのに、いつもの返事がない。
それが余計に、イタズラをしているように見えてしまうのかもしれない。
私には、さっきの自分の姿が重なった。
名前を呼べば、分かってくれると思った。
少し強く言えば、やめてくれると思った。
でも、そのやり方では、うまくいかなかったのだ。
まずい。
止めないと。
「待って! かなでちゃん! レイちゃん! 今のはちちゃんは、犬化しているだけだよ!」
私は、二人にはちちゃんの今の状態と、その原因を説明した。
研究室で、はちちゃんが液体を調合していたこと。
そこへ、私が急に抱きついたこと。
手元が狂い、混ざった液体が爆発したこと。
そして、煙が引いた時には、もう耳と尻尾が生えていたこと。
話しているうちに、どこから間違えたのかが、はっきりしてくる。
はちちゃんは、私を驚かせるためにこうなったわけではない。
自分から二人へイタズラを仕掛けようと考えていたのでもない。
その説明だけは、きちんとしなければならなかった。
二人の視線が、私へ向いた。
私は、都合の悪いところだけを飛ばさずに話した。
急に抱きついたのは、自分なのだから。
それから、なんとかはちちゃんを捕まえ、シャマルさんにお願いした。
今度は、はちちゃんが何をしているのかを、皆で分かった上で動くことができた。
名前を呼んでも、普通の返事は返ってこない。
嬉しそうに近づいてきても、話を理解しているとは限らない。
さっきまでと同じ動きが目の前にあっても、こちらの受け止め方は変わっていた。
ただイタズラをしているのだと思って追うのと、元に戻すために捕まえようとするのでは、手を伸ばす時の気持ちも違う。
ようやく、その小さな身体を確保できた時、私は、ほっと息をついた。
だからといって、それで全部終わりではない。
耳や尻尾も、いつもと違う振る舞いも、そのままだ。
何が起きているのか、きちんと見てもらう必要があった。
処置を受けたはちちゃんは、ようやく元の姿に戻ることができた。
見慣れない耳が消え、尻尾もなくなる。
さっきまでそこへ向いていた私の目は、今度は、はちちゃんの顔へ戻った。
元に戻った。
そのことを、何度も確かめたくなった。
普通に話せるのか。
こちらの言っていることが、分かるのか。
目が合っただけで、また飛びついてくることはないのか。
ひとつずつ、いつものはちちゃんだと思えるところが戻ってくる。
それが分かるにつれ、ようやく肩から力が抜けていった。
驚かせてみようと思った時には、こんなところまで来ることになるなんて、考えてもいなかった。
研究室で振り返ってくれる、その顔を見たかっただけだったのに。
はちちゃんは、ただ栄養ドリンクを作っていただけだったみたい。
皆が疲れているから、元気になるものを。
そう思って、作業をしていたのだ。
その話を知ると、胸が痛くなった。
はちちゃんは、こちらのことを考えてくれていた。
私は、その作業の途中へ飛び込んでしまった。
完成したものを、嬉しそうに見せてくれたかもしれない。
何を作っているのか、先に聞いていれば、その気持ちを知ることができたかもしれない。
でも、今考えても、液体を混ぜる前の時間へは戻れない。
目の前にいるはちちゃんへ、起きたことをきちんと伝えなければならなかった。
作っていたものの名前を聞いても、疑問だけは残った。
どうして、犬化したのだろう?
◇ ◇ ◇
――はち視点――
いろはさんから話を聞いて、自分は驚いた。
爆発したところまでは、覚えている。
手元が狂ったことも、液体の反応が変わったことも。
でも、そこから先の話は、聞かなければ分からなかった。
自分が何をしたのかを、他の人から教えてもらうことになるとは思っていなかった。
犬耳。
尻尾。
顔を舐めて、じゃれついて、研究室から逃げ出したこと。
一つ聞くたびに、自分の中にある最後の記憶から、話が遠ざかっていく。
栄養ドリンクを完成させようとしていたはずなのに、どうしてそんなことになるのだろう。
しかも、それは、自分自身の話なのだという。
人違いではないかと聞けるような状況でもなかった。
まさか……。
自分が犬化して、いろはさん達に迷惑をかけていたなんて。
……いや、本当に、まさかである。
皆さんに元気になってもらおうと思っていたのだ。
走り回ってもらうために作ったわけではない。
結果だけ聞くと、随分と元気に追いかけてもらったようなのだけど。
それは、自分が考えていた元気とは、かなり違う。
作りたかったものと、起きてしまったことの差が大きすぎる。
しかも、こちらが意識を失っている間に、話がそこまで進んでいる。
自分がいなければ成立しない出来事なのに、当の自分は説明を受ける側だ。
恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、どういう顔をして聞けばよいのかも分からなくなった。
ただ、耳と尻尾がなくなったことだけを喜んでいるわけにはいかなかった。
しかも、シャマルさんによると、副作用があるという。
元の姿に戻れたことには、安心していた。
ちゃんと考え、話せることも、ありがたいと思っていた。
けれど、それだけで全部が済んだわけではないらしい。
副作用。
その言葉を聞くと、作業台に並んでいたものが頭に浮かんだ。
何を混ぜ、どの段階で、量が変わったのか。
自分が調合していた以上、その時の作業について、こちらにも分かることがある。
今度こそ、そこで考えなければならなかった。
驚いてばかりでも、恥ずかしがってばかりでも、残っている問題は片づかない。
皆に迷惑をかけてしまったことと、元に戻すために動くこと。
どちらも、自分のこととして引き受ける必要があった。
「まずいな……ワクチンを作らないと……」
そう言って、自分はワクチンを作った。
調合に使ったものを確かめ、起きた反応について考える。
あの時は、完成が近いというところへ意識が向いていた。
今は、何が起きたのかを、ひとつずつ辿り直していた。
急いで済ませたい気持ちはあった。
けれど、急いだせいで、また違う問題を起こしてしまっては意味がない。
手元を確かめる。
途中で思い込みだけを先に進めず、確かめられることから進めていく。
自分が作ったものに、自分が振り回される形になってしまった以上、今度の作業は、なおさら慎重にする必要があった。
皆に元気になってもらいたい。
最初に考えていたことまで、なくなったわけではない。
それでも今は、その前に片づけなければならないことがあった。
そして、元に戻すことに成功した。
やっと、ひと息つくことができた。
栄養ドリンクの調合から、犬化騒動。
そこから、副作用に対処するためのワクチン作成。
最初にここへ来た時には、想像もしていなかった流れである。
研究室へ向かっていた時の自分に説明しても、きっと同じように驚いただろう。
でも、起きてしまったことは、起きてしまったことだ。
意識を失っている間の自分を追いかけ、捕まえて、元に戻すために動いてくれた人たちがいた。
その手を借りて、ようやく今、ここで考えられている。
騒動が収まったことに安心しながらも、そのことは忘れずにいたかった。
◇ ◇ ◇
――??視点――
あいつのことを考えないようにしようとすると、かえって、何を考えないようにしているのかが分かってしまう。
日常の中に、いくつも、あいつへつながるものが残っていた。
何かを見て、話そうと思う。
言葉が浮かんでから、話す相手がもういないことに気づく。
その順番を、何度繰り返したのだろう。
誰かに会えない日があることと、二度と会えないことは違った。
会えないだけなら、次を考えられる。
また会った時に話せばいいと、今日の続きを、明日へ残しておける。
私は、その続きを、置く場所をなくしていた。
あいつが亡くなって、私は後悔した。
あいつがいなくなって、初めて気づいた。
私は、あいつが好きだったのだと。
一緒にいる時には、わざわざ確かめなくてもよいと思っていた。
あいつがそばにいることを、いつの間にか、自分の毎日の中へ入れてしまっていた。
好きだから、話したかった。
そばにいたいから、一緒にいたかった。
そう言えば、きっと分かることなのに、私は、もっと慣れた言葉で済ませていた。
いつも一緒だから。
今まで、そうだったから。
その当たり前の内側に隠していた気持ちが、あいつを失ってから、はっきりと見えてしまった。
気づいた時には、本人に聞いてもらえなかった。
どんな顔をされるのかも、何と言われるのかも、もう確かめられなかった。
いつも一緒だった。
だから、何も変わらないと信じていた。
でも、運命は残酷だった。
突然の死に、私は驚いた。
次に会ったら、と考えていたことがあったはずだった。
すぐに言わなくてもよいと思っていた言葉もあったはずだった。
それが、一度に行き先を失った。
驚いたままでいられたなら、まだよかったのかもしれない。
でも、時間は過ぎていく。
同じ名前を口にしても、昨日と同じように返事がない。その積み重なりの中で、あいつがいないことだけが、少しずつ現実になっていった。
私は、あいつを好きだった。
その気持ちまで、時間と一緒に遠ざかってくれたわけではなかった。
何も伝えないままでも、毎日は続くと思っていた。
その思い込みだけが、今になって、何度も胸を痛くする。
「あれから……もうすぐ一年になるね……」
言ってみても、そんなに時間が過ぎた気がしなかった。
一方で、あいつの声を聞かずに過ごした日が、それだけ積み重なってしまったことも分かる。
もうすぐ一年。
その言葉を、誰に向かって話しているのだろう。
答えてほしい相手は、一人しかいなかった。
どんな言葉でもいいから返してほしい。いつもみたいに、こちらを振り返ってほしい。
そう思うたびに、返ってくる声がないことを、また確かめてしまう。
名前だけなら、まだ呼べた。
何度呼んだのか分からなくても、それだけは、口にすることができた。
胸が張り裂けそうな思いで、私は、その名前を呼んだ。
「享司……」




