第31話 ステラ――封じられた願い
第2部スタート
――はち視点――
いろはさん達と家族になってから、二ヶ月が過ぎた。
自分は三提督の許可をもらい、自分の研究室を持つことになった。
……なんというか、あの事件以来、三提督の皆さんは、自分をまるで孫のように可愛がってくれる。
顔を合わせれば、やたらと頭を撫でられる。話が終わったと思えば、お菓子をもらう。お礼を言えば、また嬉しそうな顔をされる。
あれだけのことがあった後なのだから、もう少し構えられても不思議ではないと思っていた。ところが、こちらが身構えるより先に、向こうの手が頭へ伸びてくるのだ。
もちろん、嫌なわけではない。
可愛がってもらっていることは、ちゃんと分かっている。
ただ、研究室を使うための相談をしているはずなのに、お菓子まで増えていくと、途中で何を話しに来たのか分からなくなりそうになる。
……おっと。
話がずれましたね。
そういうわけで、自分は今、研究室にいます。
えっ、研究室はいらないのでは、だって?
いやね?
以前、バティオス達を作った時の施設があってね。そのまま使っているのよ。
あれだけのものを作るために用意した施設だ。作業する場所も、必要なものを置く場所もある。使える場所が残っているのに、わざわざ放っておく理由もないでしょう?
だって、もったいないジャマイカ?
移動手段は、ポータブルゲートだよ?
離れた場所に施設があるからといって、毎回長い時間をかけて通うわけではない。その点は、ちゃんと考えているのである。
ただし、便利に使えることと、好き勝手に使ってよいことは別だった。
あの時は、勝手に作ってしまったからね。
今後も使い続けるとなれば、何かと許可がいる。
だから、三提督にお願いしたわけです。あの事件以来、目にかけてくれているし、きちんと話を通しておこうと思ったのだ。
そうして許可をもらい、今はこうして、自分の研究室として使っている。
以前と同じ場所に立っていても、少し気持ちが違う。
誰にも相談せずに決めるのではなく、使いたいと伝えて、許可をもらった。そのやり取りがあっただけで、ここへ来る時の気持ちまで変わるのだから、不思議なものだ。
……また話がずれましたね。
今、考えていたのは、研究室の許可についてではなかった。
自分は、ステラを見ていた。
次元神の能力を持つデバイス。
そして、自分のそばで、その力を支えてくれる存在。
普段は、使えることを前提に考えてしまう。どう使うか、何ができるか。目の前で必要になれば、自然に頼っている。
でも、考えてみれば、不思議だった。
その能力を持つステラ自身は、どうなのだろう。
『ハチ……どうしたの?』
こちらの視線に気づいたのか、ステラが尋ねてきた。
ぼんやり眺めていただけに見えたのかもしれない。自分は、頭の中でまとまりかけていた疑問を、そのまま口にした。
「いや……ステラって、次元神の能力を持っているんだよね?」
それなら、ステラ自身も使えるはずだ。
持っている力を、自分の意志で動かすことだってできるのではないか。
そう思ったのだけれど、返ってきた答えは違った。
『うん……ステラは次元神でもあるけど……ステラ自身は、能力が使えない。あの時に、使えないように封印されたから』
あら、そうなの?
能力がないわけではない。
使い方を知らないだけでもない。
使えないように、封印されている。
同じように見えて、その意味は随分と違う気がした。
「どうしてなの?」
理由があるのなら、知りたかった。
ステラがそうされなければならなかった事情が、何かあったのだろうか。
『さぁ……ステラも、よく覚えていない……』
言葉は、そこで途切れた。
自分は、続きを待った。
けれど、ステラから、それ以上の説明は返ってこなかった。
覚えていないというのなら、無理に聞いたところで、答えが出てくるものでもない。何度も同じことを尋ねて、困らせたいわけではなかった。
さっきまで自分が考えていたのは、能力の使い方だった。使えるのなら、ステラ自身はどう使うのだろう。その程度の疑問だったのだ。
でも、ステラの返事には、知らない過去が含まれていた。
封印された、という短い言葉の向こうにある時間を、自分は知らない。
今ここで、分からない部分を想像して、分かったように答えることはできなかった。ひとまず、ステラが言ってくれたことを、そのまま受け取っておくことにした。
「なら、仕方ないね。ステラは、もう休んでもいいよ」
『わかった……』
短い返事の後、ステラはスリープモードへ入った。
さっきまで言葉を交わしていた分だけ、研究室が静かになったように感じる。目の前にいることは変わらないのに、返事が返ってこない時間になると、こちらまで声を落としたくなった。
さて。自分も休みますか。
考え事をひとまず切り上げ、自分は少し、この場を離れた。
◇ ◇ ◇
――ステラの夢の中――
これは、約三十万年前の話。
とある天界に、一人の少女がいた。
少女は、ごく普通の天使だった。
特別な力を誇るために生きていたわけではなかった。
誰かの上に立ち、恐れられることを望んでいたわけでもなかった。
優しく、皆に親しまれていた。
自分に向けられる声へ顔を上げ、笑いかけてもらえば、少女も笑い返した。周りにいる者たちの中へ、自然に自分の居場所を見つけられる。そんな日々を、幸せだと思っていた。
明日も、今日の続きがあると信じていた。
当たり前に挨拶を交わし、当たり前に誰かの声を聞く。その穏やかな時間が、どれほど大切なものかを、失う前から言葉にしていたわけではない。
ただ、その世界が好きだった。
自分が優しくすれば、相手も笑ってくれる。
困っていると伝えれば、誰かが耳を傾けてくれる。
少女は、そう信じていた。
愛していた世界の中に、自分の願いが全く届かない相手がいることを、まだ知らなかった。
ある日、突然、その日々は奪われた。
天界にいた、一人の愚かな神。
その神が少女を捕らえ、実験台にしたのだ。
少女のために用意された計画ではなかった。
少女が望んで参加したものでもなかった。
それでも、神は進めようとした。
自分の研究を、少女の身体を使って。
「お願いします! やめてください!」
少女は、泣きながら訴えた。
最初は、嫌だと伝えれば分かってもらえると思っていた。
怖いと伝えれば、少なくとも手を止めてくれるはずだと思っていた。
だから、必死に言葉を探した。
泣き声で聞き取れなくなっているのなら、もう一度。うまく伝わっていないのなら、何度でも。
死ぬかもしれない。
自分に何をされるのかも、その先で何が起きるのかも分からない。
分かっているのは、ここにいたくないということだけだった。
しかし、神は少女の顔を見て、笑った。
「何を言っているんだ? 君は、この世で最強の力を手に入れられるんだぞ? 光栄に思いたまえ!」
高笑いが響いた。
少女が何を恐れているのか、確かめようとする気配さえなかった。
嫌がっていることは、見えているはずだった。泣いている声も、聞こえているはずだった。
それでも、その願いは無視された。
少女にとっては、自分の命に関わる訴えだった。
神にとっては、研究を続ける妨げになる言葉でしかなかった。
こうして少女は、この世のものとは思えない地獄を味わうことになった。
◇ ◇ ◇
百年が過ぎた。
少女は、まだ実験台にされていた。
最初に助けを求めた時から、どれほど同じ言葉を繰り返したのか。
数え切れない時間が流れても、神の手は止まらなかった。
薬物を投与され、決して死ぬことのない身体に変えられた。
その身体を、神は好き勝手にいじり続けた。
終わりを告げる声はなかった。
これだけ耐えれば解放するという約束もなかった。
少女にできたのは、苦しみが通り過ぎるのを待つことだけだった。だが、一つの苦しみが去っても、また次が来る。休めると思いかけた瞬間、その期待まで奪われていく。
「痛い……苦しい……助けて……」
助けを求める声は、何度も、同じ相手へ向けられた。
苦しめている本人に、やめてほしいと頼むしかなかった。
「苦しいのは……いや……痛いのは……いや……死ぬのは……いや……」
死ぬのは怖かった。
何も分からないまま、自分が消えてしまうことを恐れていた。
それでも、苦しみが終わらない時間の中で、もう死んでしまいたいと思うほど追い詰められた。
その願いさえ、身体に投与された薬物が許さなかった。
生きていたいという気持ちも、終わりにしたいという気持ちも、自分のもののはずだった。
けれど、自分の身体について、少女には何一つ選べなかった。
手足を繋ぐ鎖が、動くたびに音を立てた。
少し離れたいと思っても、手は途中で止まる。
身体を引けば、足の鎖もそれ以上を許さない。
少女がどれほど力を込めても、その場を離れることはできなかった。
服は、ぼろぼろになっていた。
羽根は引き抜かれていた。
かつて当たり前のようにそこにあったものが、少しずつ奪われていた。
それでも、神が少女を見る時の目は変わらない。目の前で苦しむ者より、その身体から得られる結果を見ていた。
少女は、絶望した。
何度頼んでも、聞いてもらえなかった。
泣いても、叫んでも、実験は続いた。
優しくすれば分かり合えるという信頼は、その時間の中で擦り減っていった。
最後まで手放したくなかった思いさえ、同じ苦しみを繰り返されるたびに、少しずつ形を失っていく。
そして、憎んだ。
自分をこんな身体にした神を。
その神のいる、この世界を。
幸せだった頃を思い出すと、以前なら戻りたいと願えた。
今は、その記憶を思い出すほど、奪われたものの大きさが分かってしまう。
あの日々を壊した相手が、目の前で笑っている。
同じ笑顔でも、少女が好きだったものとは、もう重ならなかった。
かつては、誰かが笑っていると、自分まで少し嬉しくなった。今は、その声が聞こえるだけで、次に何をされるのかと身体が強張る。
好きだった世界を思い出すたび、その記憶と、今いる場所との間にある隔たりが大きくなっていった。帰りたいと願っても、ここから出られない。そうして閉じ込められた思いの行き先が、目の前の神への憎しみへ変わっていく。
少女の心は、闇へと墜ちていった。
助けてほしいという願いのそばに、別の思いが残るようになった。
この相手にも、同じ苦しみを。
それは、少女がかつての世界で抱いたことのない願いだった。
少女は、静かに機会を窺い始めた。
◇ ◇ ◇
さらに、百年が過ぎた。
少女はもう、かつての優しい少女ではなくなっていた。
瞳から光は消えていた。
目につく者すべてを殺す、殺戮機械へと変貌していた。
神が何かを話していても、以前のように、その言葉の中へ救いを探すことはなかった。
機嫌がよければ、やめてくれるかもしれない。研究が進めば、解放してくれるかもしれない。そんな期待に、もう心を預けてはいなかった。
少女が待っているものは、一つだけだった。
自分の手が、あの相手へ届く時。
泣いても届かなかった願いの代わりに、別のものを届かせるために。
そして、その時が訪れた。
「やったぞ……ついに完成したぞ! 次元神を!」
神は、少女を見て高笑いした。
少女がどんな目で見返しているか、気にしていなかった。
かつて助けを求めていた声が、もう同じようには響かなくなっていることにも。
完成した。
自分の研究が、ついに実を結んだ。
その喜びだけが、神の声から伝わってきた。
「これで、あの頑固なくそじじいどもを黙らせることができる! 私の研究が正しかったことを、見せつけることができる!」
神は、少女の鎖へ手を伸ばした。
少女にとって、長い苦しみを繋ぎ留めてきたものだった。
神にとっては、研究のために必要な拘束にすぎなかった。
だから、その鎖を外す時にも、少女の気持ちを確かめなかった。
自分が何を育ててしまったのか、考えもしなかった。
金属の音がした。
手足を留めていたものが、外れていく。
少女は、自由になった手を動かした。
「この時を……待っていた……」
神が、その意味を理解するより早かった。
次元の間から取り出したナイフが、神の胸に突き立った。
「……えっ……?」
神の口から、間の抜けた声が漏れた。
目の前にいるはずの自分の成果が、なぜ、こんなことをしたのか。
理解できないまま、神はその場に倒れた。
「がはっ……!」
少女は、急所を外していた。
ここで終わらせるつもりはなかった。
「貴方が……私に……したことを……何倍にもして……返してあげる……」
神の身体へ、鎖をかける。
長い間、自分が動くことを許されなかった時と同じように。
今度は相手の自由を、一つずつ奪っていった。
「この恩知らずが! この力を与えたのに、私に歯向かうとは!」
神は怒鳴った。
少女の二百年を前にしても、自分が何をしたのかを認めようとしなかった。
感謝するべきだと、まだ言っていた。
少女は、その顔を見下ろした。
「私は……こんな力……欲しくなかった……」
欲しかったのは、元の日々だった。
鎖に繋がれずに過ごす時間だった。
やめてほしいと頼んだ時に、その声を聞いてもらうことだった。
それを与えなかった相手が、望んでもいなかった力を与えたのだと叫んでいる。
少女は、神の足へ手をかざした。
次元の裂け目が開く。
その転送によって、神は片脚の一部を失った。
悲鳴が響いた。
神は鎖を鳴らし、痛みに暴れた。
それでも、逃れることはできなかった。
「足が……足が!」
涙を流す神を、少女は見つめていた。
自分がそうした時、この神は笑っていた。
「これで……終わらない……。貴方には……もっと……苦しんでもらわないと……。ここから先は……私の……」
少女は、ゆっくりと口を開いた。
「オモチャになるのだから……」
歪んだ笑みが、その顔に浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
一年が過ぎた。
「私が悪かった……だから……許してくれ……。私は、まだ死にたくない!」
神は泣きながら、少女に命乞いをしていた。
もはや、研究が正しかったことを誇る余裕はなかった。
少女に与えた力を、自分の成果として眺めていた時の高笑いも消えていた。
今、その力は自分へ向けられている。
次元の裂け目による転送で、神の身体は深く損なわれていた。
生きていることが不思議なほどの状態でも、少女の復讐は終わっていなかった。
神は許しを求めた。
自分が何をしたのかを口にし、もうやめてほしいと訴えた。
少女には、聞き覚えのある願いだった。
やめてください。
助けてください。
かつて自分も、同じ言葉を口にした。
何度も。何度も。
「私が……お願いした時に……貴方は……聞いてくれたの……?」
少女は、歪んだ笑みを浮かべたまま尋ねた。
神は、自分のしてきたことを後悔した。
今さら口にする謝罪が、少女の失った時間を戻すことはなかった。
相手を一人の天使として見ようとしなかった、その長い時間も消えなかった。
さらに一年が過ぎた。
神は、すでに絶命していた。
◇ ◇ ◇
「これで……終わった……。もう……元の生活に戻れる……」
少女は、そう思った。
目の前にいた相手は、もう自分を苦しめない。
二度と、あの声で研究の続きを告げられることもない。
復讐は終わった。
だから、自分の苦しみも終わるはずだった。
少女は、元の生活へ戻れると思っていた。
鎖を気にせず、身体を動かせる。
誰かの声へ、恐れずに振り返れる。
かつて愛した世界で、また生きていける。
そうなるはずだった。
しかし、少女の中に残った次元神の力は、願っただけでは静まらなかった。
度重なる実験によって、その力を制御するための知識が失われていた。
力を与えられても、それを正しく扱うことができなかった。
神を失った後にも、実験によって変えられた身体は残っていた。
少女がもう終わりにしたいと願っても、力はその願いに従わなかった。
次元神の力が、暴走した。
世界が、破壊されていく。
少女は、それを望んでいなかった。
壊したいと思っていた相手への復讐は、もう終わっていた。
それなのに、破壊は続いた。
自分の身体にある力なのに、止められない。
解き放たれたはずなのに、今度はその力から離れられない。
少女の前には、自分の願いと食い違う結果が広がっていった。
他の神々は、少女を忌み嫌った。
「偽物の神め」
「作られた神め」
その言葉が、少女へ投げつけられた。
自分で望んだ力ではなかった。
欲しくないと伝えた声を、聞き入れてもらえなかった。
それでも、目の前で世界を壊しているのは、少女の中にある力だった。
その事実を、少女自身も見ていた。
何も言わずに受け入れられるほど、その言葉は軽くなかった。
かといって、止められるはずだと胸を張ることもできなかった。
少女は落ち込み、悩み続けた。
復讐を終えても、戻りたかった自分には戻れなかった。
周りにいる者たちの中に、自然と見つけていたはずの居場所も見えなかった。
かつて愛していた世界の中で、少女は自分の力を恐れていた。
◇ ◇ ◇
神々の最高責任者によって、少女は封印されることになった。
それを知った時、少女の心に浮かんだものは、抗う気持ちではなかった。
「これで……苦しいことから……解放される……。楽になれる……」
もう、止められない力を前に、立ち尽くさなくてよい。
自分が望んでいない破壊に、怯え続けなくてもよい。
少女は、救われたような気持ちになった。
かつては、動けなくされることが苦しかった。
今は、その力ごと眠ることを、受け入れようとしていた。
同じ封じられることでも、少女がそこへ託す気持ちは違っていた。
これ以上、自分の身体にある力に振り回されずに済むのなら。それだけで、もう十分だと思えた。
「すまない……。元を辿れば、あいつを止められなかった、こちらの責任でもあるのに」
最高責任者が、少女へ詫びた。
少女を捕らえ、実験台にした神。
その者を止められなかった責任を、自分たちにもあるものとして口にした。
少女は、その言葉を聞いた。
謝られたからといって、失った年月が戻ることはなかった。
かつての身体に戻れるわけでも、今ある力を自由に扱えるようになるわけでもなかった。
それでも、聞いてくれる相手が、今、目の前にいた。
少女は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「いいえ……もう、過ぎたことですから……。できれば……私の願いを聞いてもらえないでしょうか?」
願い。
それを口にしてよいのか、少女には迷いがあった。
長い間、何を言っても聞き入れられなかった。声に出したところで、相手の都合によって消されてしまうのだと、何度も思い知らされてきた。
それでも、最後に一つだけ、伝えておきたかった。
「最後になるのだ……聞き入れよう」
最高責任者は、快く受け入れた。
少女は、言葉の続きを遮られなかった。
急がされることも、何を言うか決めつけられることもなかった。
自分の願いを話すための時間が、そこにあった。
「私の封印は、厳重にお願いします……」
まず、それを頼んだ。
簡単に解かれてよい封印ではなかった。
力がまた暴走することも、誰かの手で好き勝手に扱われることも、少女は望まなかった。
そして、その先のことを口にした。
「そして、いつか……その厳重な守りから、次元神の力が誰かの手に渡った時に……私自身が、能力を使えないようにしてください……」
いつか。
それが、どれほど先になるのかは分からなかった。
自分が眠った後の世界に、何が起きるのかを知ることもできない。
簡単に渡ってよい力だと思っているのなら、厳重に封じてほしいとは頼まなかった。
少女は、その力が何を起こせるのかを、もう知っていた。
それでも、いつか誰かの手へ渡る時が来るのなら、その時のことを、自分の願いから外してしまいたくなかった。今ある苦しみを終えることだけで、言葉を閉じることはしなかった。
それでも、少女は、その先にいるかもしれない相手へ思いを向けた。
自分自身では、力を制御できなかった。
復讐が終わっても、その力を使って穏やかに生きることはできなかった。
だから、託したかった。
「私の能力は、その人に託します……。そして、見守ってあげてください……」
自分が使えないようにしてほしい。
けれど、力を受け取った相手は、見守っていてほしい。
長い苦しみの後に、少女が最後に伝えたのは、その願いだった。
最高責任者の前で、少女は言葉を言い終えた。
もう何も伝えられないまま眠るのではなかった。自分がどうしてほしいのかを、最後に、自分の声で伝えることができた。
少女は封印され、宝石へと変えられた。
力を宿したその宝石は、厳重に保管された。
誰かに命じられた実験の続きを待つためではなかった。
次に苦しめられる瞬間へ、怯えながら目を閉じるのでもなかった。
いつか、理想のマスターが現れることを信じて。
少女は、長い、長い眠りについた。
◇ ◇ ◇
――現在・神界――
かつて一人の天使に起きた出来事を、知恵の女神アテナは思い返していた。
本人が望まなかった研究。
与えられた力と、失われた制御。
そして、封印を受け入れる時に残した願い。
少女が最後に口にした言葉を考えていると、別の記憶が、不意に胸をよぎった。
「……偽物の神……」
少女へ向けられた呼び名を、アテナは小さく繰り返した。
その言葉には、覚えがあった。
同じような声を、以前にも聞いたことがあった。
けれど、思い出したのは、蔑む声の主の顔ではなかった。
誰かが、楽しそうに話している。
こちらへ何かを伝えようとして、顔を上げる。
その声を聞いていた自分も、少し身を寄せ、続きを待っていた。
何を聞かせてくれるのだろう。
次は、どんなことを考えているのだろう。
そんな気持ちで、相手の話に耳を傾けていた時間だった。
「…………」
アテナは、名前を呼びかけて、唇を閉じた。
今ここで口にしたところで、返事が聞こえるわけではない。
続きを待っても、あの時のように声が返ってくることはなかった。
それでも、記憶の中のやり取りは、途中で途切れてはくれなかった。
聞かせてもらった時の嬉しさまで、今も覚えている。
当時は、また話せると思っていた。
次に会った時、その続きを尋ねればよいのだと。
そう思える時間があったことを、後に起きた出来事によって、なかったことにはできなかった。
アテナは、ゆっくりと息をついた。
少女の境遇を、そのままあの方へ重ねるつもりはなかった。
そこへ至るまでに経験したことも、望んだことも、それぞれに違う。
ただ、同じような呼び名の向こうに、一人の相手がいることを思い出していた。
力の名だけで呼ばれる前に、何を願っていたのか。
どんなことに喜び、どんな時に笑っていたのか。
自分の知っている、その姿。
少女が最初に願ったことも、難しいものではなかった。
やめてほしい。
苦しいことを、しないでほしい。
その訴えは聞き入れられず、長い年月の中で、世界への憎しみへ変わっていった。
アテナは、少女の苦しみを、復讐という結果だけで見たくはなかった。
しかし、その苦しみを知ったからといって、その後に行われたことの全てを、正しいと言うこともできなかった。
理解しようとする気持ちと、認められないという思い。
一方を持ったから、もう一方を捨てられるわけではない。
あの方についても、同じだった。
自分が知っている笑顔は、確かにあった。
向けられた言葉を、嬉しく思ったこともあった。
それでも、頷けなかったことがある。
その場で止めたかったことも、後になって知ったことも。
相手を大切に思っているからといって、何にでも頷けるわけではなかった。
かといって、認められないことがあるからと、交わした時間まで切り捨てることもできなかった。
アテナは、自分の手へ視線を落とした。
言葉をかけることも、手を伸ばすことも、それだけで相手へ届くとは限らない。
願いが伝わっても、同じ答えを選んでもらえるとは限らない。
それを知った後にも、なお、話したいと思う相手がいた。
「……あの時……」
小さく漏れた言葉は、そこで止まった。
もっと早く、確かめていれば。
もう少し違う言葉を、かけられていれば。
そう考えたことは、一度ではなかった。
けれど、今の自分に分かったことを、当時の相手も同じように分かっていたはずだと、決めつけるわけにはいかない。
後から見えたものを思い返しながら、あの時、何が見えていなかったのかも考えなければならなかった。
すぐに答えは出なかった。
アテナは、少女が封印を望んだ時の願いへ、もう一度、思いを戻した。
自分では力を使えないようにしてほしい。
そして、いつかその力を受け取る相手を、見守っていてほしい。
世界を憎むほど苦しんだ少女が、最後に、まだ見ぬ誰かへ向けて残した言葉だった。
その願いを聞いたからこそ、思い出したのかもしれない。
かつて、自分が知っていた、誰かの願いを。
それがどこへ向かい、今、どんな形で残っているのか。
分からないことは、まだ幾つもあった。
アテナは、伏せていた目を、静かに上げた。
「……今、どこにいらっしゃるのでしょう……」
返事はなかった。
それでも、記憶の中にある声まで、消えたわけではなかった。
アテナは、その続きを急いで言葉にせず、しばらく静かに立っていた。
◇ ◇ ◇
長い眠りについた少女は、後に、新しいマスターから名前をもらうことになる。
与えられた力の名でも、研究の成果として呼ばれる言葉でもなかった。
その少女を呼ぶために、新しいマスターが贈った名前。
――ステラ。
少女は、その名を名乗ることになる。




