第29話 おかえりなさい
無数の次元の裂け目から放たれた黒い魔力弾が、天城いろはへ殺到した。
逃げ道はない。
正面だけではなく、上空、左右、背後――全方位から迫る砲火が、いろはの視界を黒く埋め尽くしていく。
(まずい……!)
これまで受けた攻撃とは、数も密度も違う。
今から回避しても間に合わない。
防御障壁を展開したとしても、傷ついたアークレイでは受け止めきれないだろう。
「はっ、避けて!」
攻撃を放ったはち自身が、悲鳴のような声を上げた。
その声を聞きながら、いろはは目を閉じる。
(ごめんね、ハチちゃん……)
それでも、足を止めたことを後悔はしなかった。
ここで逃げれば、はちとの心の距離まで、再び遠ざかってしまう気がしたからだ。
近づくなと叫んでいた声が、今は避けてと自分を案じている。その違いを、いろはは聞いていた。傷つけたくないと思っていることを、はちはもう隠しきれていない。ここまで歩いて来た理由が、その声の中にある気がした。いろはは迫る光の中で、はちの名を胸に浮かべた。
直後――無数の魔力弾が着弾した。
ドガガガガガガガンッ!!
轟音が森を揺るがし、爆炎と黒煙が巨大樹の周囲を呑み込む。
いろはは衝撃に備えて身を固くした。
だが、いつまで待っても痛みは訪れない。
「……あれ?」
恐る恐る目を開く。
最初に見えたのは、夜空を思わせる深い青の翼だった。
星の光を宿す巨大な竜が、翼をいっぱいに広げ、いろはと砲火の間へ立ちはだかっている。
翼の前面には、星々を結んだような防御陣が幾重にも展開されていた。
黒い魔力弾はその光へ次々と衝突し、眩い火花となって四方へ弾けていく。
翼の向こうでは爆発が続いている。なのに、その内側へ包まれた身体には、予想していた痛みが届かなかった。いろはは息を呑んだ。視界いっぱいに広がる青い翼と、衝突のたびに輝く防御陣。その背中が、今、自分を守るために立ってくれているのだと、ようやく理解した。
「あ、アステリオン……?」
《星護竜アステリオン》。
機動部隊解散の日、はちがいろはへ託した精霊カードだった。
いろはは腕の小型召喚端末を見る。
そこに装着されたカードが、静かな星明かりを放っていた。
「あなたが……守ってくれたの?」
アステリオンは振り返らない。
ただ短く鳴き、いろはを守るように翼を広げ続ける。
その背中から、確かな意志が伝わってきた。
いろはは胸の前で拳を握り、竜の背へ告げる。
「ありがとう、アステリオン……」
言葉で答えを聞けなくても、翼を広げ続ける姿が伝えてくれることがあった。託された一枚を、いろはは大切にしてきた。その精霊が、自分の意思でここにいる。はちへ会いたいと願った時に寄り添ってくれた温かさを、今はその大きな背中から感じていた。
◇
立ちこめていた黒煙が風に流される。
はちの内側では、戦いが始まる直前にユニゾン・インして以来、ステラが同調を維持していた。
ステラは、はちといろはの間へ自分の意思で手を出そうとはしない。
これは、はち自身が心の答えを見つけなければ終わらない戦いだと分かっていたからだ。
それでも、いつでもはちを支えられるように、同調を通じてその心へ寄り添い続けていた。
煙の向こうに現れた光景を目にして、はちは息を呑んだ。
「アステリオン……お前……」
アステリオンは、悲しそうな瞳ではちを見つめていた。
怒りも、敵意もない。
ただ、これ以上はちが大切な人を傷つけてしまわないよう、静かに立ちはだかっている。
(俺との誓いを守るために……いろはさんへ力を貸すのか?)
はちは、カードを託した日のことを思い出した。
自分を犠牲にしてでも、仲間を守ろうとするいろは。
そんな彼女を今度こそ守ってほしいと願い、アステリオンを託した。
その願いが今、自分自身の攻撃からいろはを守っている。
守ってほしいと願ったことを、アステリオンは忘れていなかった。今、攻撃しているのが誰であっても、その願いを守ろうとしている。はちは竜の視線を受け止めた。託した時の自分が、何を大切に思っていたのかを、その姿から突きつけられているようだった。
「ハチちゃん。今、行くからね……」
いろはが再び歩き始めた。
バリアジャケットは裂け、肩や腕には幾つもの傷がある。呼吸も荒く、足取りも決して軽くない。
それでも、いろはは止まらない。
「来るな……」
はちの手が震える。
ダークアークレイの照準が定まらない。
「本当に、来ないで……」
撃ちたくない。
傷つけたくない。
それなのに、いろはが近づくほど、胸の奥に押し込めてきた恐怖が膨れ上がっていく。
信じたい。
けれど、また裏切られるかもしれない。
その二つの感情が、はちの心を内側から引き裂いていた。
近づいてくる相手の傷が、目に入る。自分がつけた傷だった。それでも足を止めずに来る姿を、どう受け止めればいいのか分からない。はちは震える手へ力を込めようとした。迎えてほしいと思うほど、その温かさを失う未来まで想像してしまい、目の前の一歩が怖くなる。
「来ないでよっ!!」
耐えきれず、はちは引き金を引いた。
黒い砲弾が一直線にいろはへ飛ぶ。
だが――。
「アステリオン!」
星光が閃いた。
アステリオンが翼を振るい、いろはの前へ滑り込む。
防御陣が砲弾の軌道を引き寄せ、その巨体が攻撃を真正面から受け止めた。
ドォンッ!!
爆発に青い翼が大きく揺れる。
美しく輝いていた鱗が傷つき、宿していた星の光が幾つも消えた。
砲弾の光が途切れた先で、青い翼が傷ついていた。はちはその姿を見た。守るために託した相手を、自分が傷つけている。その向こうには、同じように守りたいと願ったいろはがいる。遠ざけようとして放つ力が、かつて大切にしたものへ届いてしまう。その事実から目を逸らせなかった。
「アステリオン!」
いろはは思わず足を止める。
駆け寄ろうとした彼女へ、アステリオンはゆっくりと首を振った。
そして鼻先を、はちのいる方向へ向ける。
――行け。
声がなくても、その意志ははっきりと伝わった。
「でも、あなたが……」
アステリオンは傷ついた翼を持ち上げ、もう一度、はちを示す。
いろはは唇を噛んだ。
それから涙を拭い、力強く頷く。
「ありがとう、アステリオン。本当に……ありがとう」
助けてくれた相手へ、ここで手を伸ばしたくもなる。けれど、アステリオンは行く先を示していた。いろははその意思を受け止めた。傷つきながら作ってくれた道を、ここで閉ざしてはいけない。伝えた礼には、守ってもらったことと、なお送り出してくれることへの思いが重なっていた。
竜に背中を押されるように、いろはは再び歩き出した。
一歩。
また一歩。
二人の距離が縮まっていく。
「どうして……」
はちの瞳から、涙がこぼれた。
「どうして、来るんだよ……」
もう武器を構えることさえできなかった。
ダークアークレイを握る腕は力なく下がり、開いていた次元の裂け目も一つずつ閉じていく。
向けていたものを下ろすと、二人の間を隔てる力が少しずつ消えていく。裂け目が閉じた先には、森の景色が戻っていた。それでも、はちの胸にある恐怖まで消えたわけではない。怖いまま、もう撃てずにいる。その先へ進む足音を、涙の向こうで聞いていた。
やがて、いろはが目の前へ辿り着いた。
目の前へ来た相手を、もう遠くへ押し戻せなかった。見上げれば、いろはの顔がある。これまで武器や裂け目を間に置いて保とうとしていた距離が、今はなくなっていた。はちは涙に濡れたまま、そこにいる人へ言葉をぶつけた。
「ハチちゃん……」
「どうしてなんだよ……!」
はちは両手で、いろはの胸元を叩いた。
ぽか、ぽか、と。
傷つける力など少しもない、幼い抵抗だった。
「来るなって言ったのに……自分を放っておけばよかったのに……!」
いろはは避けず、止めもしない。
はちが胸の奥へ押し込めてきた悲しみを、すべて受け止める。
胸元へ当たる手は、先ほどまで魔力弾を放っていた手だった。今、その手が伝えてくるのは、押し込められていた悲しみだった。いろはは身を引かなかった。どうして来たのかを、言葉だけで返すより先に、ここにいてもよいのだと伝えたかった。
「どうして……どうして……!」
叩く手から、少しずつ力が失われていく。
その瞬間、いろはは両腕を伸ばした。
ふわり、と。
壊れ物を包むように、はちの小さな身体を優しく抱き締める。
「あ……」
はちの指から、ダークアークレイが滑り落ちた。
カラーン……。
黒い杖が地面を転がり、その禍々しい光を失っていく。
地面で鳴った音を、はちは腕の中で聞いた。握り締めていたものが、手元からなくなっている。それを拾い直そうとは思えなかった。抱き締められた身体は小さく強張ったまま、けれど逃げようとする力も出なかった。近づかないでと叫んだ相手が、もうすぐそばにいた。
「本当に……ごめんね」
いろはの声も、涙で震えていた。
「苦しかったよね。怖かったよね。それなのに私は、ハチちゃんを一人にしてしまった」
淡い銀紫色の髪を、何度も優しく撫でる。
「もう我慢しなくていいんだよ。泣きたい時は泣いていい。甘えたい時は、いっぱい甘えていいの」
いろはは抱く腕へ、少しだけ力を込めた。
「もう、寂しくないからね」
いろはは急いで答えを求めなかった。腕の中のはちが何かを言おうとしていても、すぐに言葉にならなくてよかった。髪を撫で、震える身体を抱く。謝りたかった相手がここにいる。そのことを確かめるように、声も腕も、できるだけ優しく添え続けた。
温かかった。
優しかった。
懐かしい匂いがした。
初めていろはに抱き締められた時と同じ、何も恐れなくてよいのだと思える温もりだった。
ずっと忘れたふりをしていた、家族の温もり。
振り払おうとしても、思い出してしまう温かさだった。知らないものなら、こんなにも欲しくはならなかっただろう。はちはその腕の中にいた。もう一度欲しいと言えずにいたものが、今は自分を包んでいる。信じることを怖がった心へ、言葉より近くから触れていた。
「ぐすっ……ごめんなさい……」
はちの中で張りつめていたものが、とうとう崩れた。
いろはの胸へ顔を埋め、声を上げて泣く。
「本当は……分かっていたんです。いろはさんたちは、悪くないって……」
「うん……」
「再会した時も……憎い気持ちより、会えたことが嬉しかった……」
「うん」
「でも、怖くて……! また信じて、また裏切られたらと思うと……怖くて、どうすればいいのか分からなかった……!」
説明しようとすれば、泣き声が混ざった。何をどこから話せばよいのかも、うまく整えられない。それでも、いろはは聞いていた。はちはその胸へ顔を寄せたまま、隠してきた気持ちを少しずつ口にした。会えて嬉しかったことまで、もう否定したくなかった。
「うん……うん……」
いろはは否定せず、ただ何度も頷いた。
「ハチちゃんは悪くないよ。怖くなって当然だよ。ずっと一人で、苦しみながら頑張ってきたんだもん」
怖かったという言葉に、すぐ答えを与えて終わらせようとはしなかった。いろはは何度も頷き、抱き締める腕を離さなかった。ここまで一人で耐えてきた時間を、自分は全て知っているわけではない。だからこそ、今、はちが話してくれることを、途中で遮らずに受け止めたかった。
「自分は……」
はちは涙に濡れた顔を上げる。
「自分は、いろはさんたちの家族になっても……いいんですか?」
声が震えていた。
「自分は、いろはさんへ酷いことをいっぱいした。いっぱい攻撃して……いっぱい傷つけたのに……」
問いかけているのに、答えを聞くのが怖い。はちは涙の残る顔で、いろはを見上げた。望んでいることは、もう伝えてしまった。そのうえで拒まれたらと思うと、声が震える。家族になりたいという願いを、願ってもよいのだと、目の前の相手から聞きたかった。
「それでもだよ」
いろはは迷わず答えた。
「ハチちゃんが私を傷つけたことより、ハチちゃんが受けた傷の方が、ずっと深い。それに、間違えたことがあるなら、これから一緒に向き合えばいい」
目線を合わせ、涙の跡が残る頬へ微笑む。
目を合わせた先に、拒む気配はなかった。傷つけたことを知ったうえで、一緒に向き合うと言ってくれる。はちはその微笑みを見つめた。何も間違えなかった自分へ戻らなければ受け取れないのではない。今の自分へ向けて、その言葉が差し出されていた。
「だから、家族になろう。今度こそ、本当の家族に」
「……はい」
はちは小さく頷き、再びいろはの胸へ身体を預けた。
頷いた後にも、涙はすぐには止まらなかった。それでも、身体を預ける先がある。はちはいろはの胸へ戻った。もう冷たい声を作らなくてよかった。欲しかったものを遠ざけるために、次の言葉を探さなくてもよかった。そのことが、張りつめていた身体から少しずつ力を抜いていった。
安心した途端、全身を強い眠気が包み込む。
次元神の力を使い続けた疲労だけではない。
張りつめていた心が、ようやく休むことを許したのだ。
「温かい……」
はちは幸せそうに目を細める。
「まるで……お母さんみたいです……」
その言葉を最後に、意識は穏やかな眠りへ落ちていった。
同調を通じて見守っていたステラにも、はちの安堵が静かに伝わった。
戦いの間ずっと張りつめていたステラの心も、僅かに和らぐ。
苦しみの近くにいたから、緩んでいく心の変化も分かった。ステラは同調を保ちながら、その安堵を受け止めた。はちが自分で求め、自分で受け取った温かさだった。何も言わずに見守る時間の中へ、ようやく、痛みとは違う静けさが広がっていた。
◇
「ハチちゃん?」
いろはは腕の中が急に静かになったことに気づき、そっと顔を覗き込んだ。
「すぅ……すぅ……」
はちは目を閉じ、安らかな寝息を立てている。
先ほどまでの苦しみが嘘のように、幼く穏やかな寝顔だった。
「寝ちゃったんだ……」
相当、疲れていたのだろう。
いろはは起こさないよう抱き方を整え、頬にかかった髪を指で払った。
顔を覗き込んでも、はちは目を覚まさなかった。いろはは眠る身体の重みを支え直した。さっきまで震えていた小さな身体が、今は腕の中へ安心して預けられている。起こしてしまわないよう、指先の動きもゆっくりになる。その寝息を聞けることが、いろはには何より嬉しかった。
『はちを……どうするつもり……?』
不意に、眠るはちの内側から少女の声が響いた。
いろはは腕の中のはちへ視線を落とす。
「何もしないよ」
いろはは眠るはちを抱いたまま、穏やかに答えた。
「この子を家へ連れて帰るだけ。あなたが、ステラちゃんだよね?」
『……うん』
「ステラか。いい名前だね」
いろはが微笑むと、ユニゾンを通じて伝わってくるステラの警戒が僅かに和らいだ。
「ハチちゃんが付けてくれたの?」
『うん……はちは、優しいから……』
名を付けてもらったことを認める声に、いろはは耳を傾けた。自分たちの知らない時間に、はちはこの相手と出会い、名を贈ったのだ。今も内側から支えている声へ、いろはは穏やかに答えた。はちを大切に思う気持ちを、ここでも確かめ合いたかった。
「そうだね」
いろはは腕の中の寝顔を見つめ、深く頷いた。
「私も、そう思うよ」
ステラは暫く、はちの感覚を通じていろはの表情を確かめていた。
『いろは……これからは、はちを守ってくれる……?』
「うん。約束する」
いろはは迷わず答えた。
ステラの安堵が、温かな光となってはちの全身へ広がった。
『今のはち、心も身体も疲れている……だから、戦いが完全に終わるまでステラが支える』
戦いが完全に終わるまで、という言葉を、いろはは静かに聞いた。抱き締めたからといって、周囲の全てが解決したわけではない。ステラはまだ、はちを支え続けてくれている。腕の中の穏やかな寝息を守るために、自分もこの存在と力を合わせて帰りたかった。
戦いが始まる直前に交わしたユニゾンは、まだ解除されていない。
はちの腰まで届く髪は、星の光を宿したような淡い銀紫色。閉じられた瞼の奥では、瞳も澄んだ紫色へ変化している。
服装は、白いフード付きジャケットと黒を基調としたインナー、黒いプリーツスカートによる次元神衣装へ再構成された。
胸元のペンダントとジャケットの背面には次元の神を象徴する意匠が浮かび、腰回りや肩、袖には異世界的なストラップと小さなチャームが揺れている。
左腕にはSIA。
右手中指には、精霊カードケースの指輪。
どちらも失われることなく、同調形態の装備として正しく残されていた。
ステラ同調形態――次元神衣装。
姿が変わったのは戦いが始まる前。それでも、その穏やかな寝顔は、いろはの知るはちのままだった。
「いろは!」
森の向こうからレイ・シルビアが飛び込んできた。
「ハチは――」
「レイ。しーっ」
いろはは片目を閉じ、唇の前へ人差し指を立てる。
レイは目を丸くしたが、いろはの腕で眠るはちを見つけると、すぐに声を落とした。
「……寝ちゃったんだね」
淡い銀紫色へ変わった長い髪と次元神衣装に驚きながらも、レイは今のはちが安らかであることを察した。
「うん。見て、すごく幸せそうな顔をしてる」
レイも、はちの寝顔を覗き込む。
「本当だね」
二人は顔を見合わせ、ようやく笑った。
レイの声が小さくなり、二人で同じ寝顔を見た。その短い時間の中で、ここまで抱えてきた思いが少しずつほどけていく。生きていてくれた。会うことができた。そして今、ここで眠っている。言葉を重ねなくても、その喜びを分かち合える相手が隣にいた。
長く止まっていた時間が、再び動き始めたような気がした。
「それじゃあ、帰ろうか」
「うん。みんなも待ってる」
いろはが歩き出そうとした、その時だった。
「お主ら、主を離さぬか!」
低く響く声とともに、二つの巨影が木々の間から姿を現した。
一体は、黒と赤の装甲を持つ格闘戦型レグナム。
余計な武装を持たず、研ぎ澄まされた拳と脚のみで戦場を支配する《魔星》。
もう一体は、白と青の装甲を持つ剣撃戦型レグナム。
右腕に大型剣を構え、全身へ複数の剣を装備した《グレシア》。
「聞こえぬのか。主を離せと言っておる!」
《魔星》が大地を踏みしめる。
ただそれだけで地面に亀裂が走り、重い闘気が森を震わせた。
新たに現れた二体の視線は、眠るはちへ向けられていた。いろはは抱いている身体を確かめる。こちらが助けたつもりでも、その事情を知らない相手には別の光景に見えるのだろう。今ははちを起こしたくない。その思いを抱えたまま、いろはは声を届けようとした。
「待って! 私たちはハチちゃんを――」
「指示に従わないなら、お前たちを駆逐する」
《グレシア》が大型剣を引き抜いた。
白青の機体が一瞬で加速し、一直線にいろはへ迫る。
「いろは!」
レイが前へ出て武器を構える。
しかし、いろはは眠るはちを庇うように身体を捻った。
今ここで迎撃すれば、せっかく眠ったはちを再び戦いの中へ戻してしまう。
大型剣が振り上げられ――。
『待って……《魔星》、《グレシア》』
眠るはちの内側から響いたステラの声が、戦場を止めた。
《グレシア》の刃が、いろはの寸前で静止する。
刃が止まったことを、いろはは目の前で確かめた。腕の中のはちは、まだ安らかに眠っている。緊張で固くなりかけた身体を、その寝息が今いる場所へ引き戻した。ステラの声が届いたのだ。いろはは口を挟まず、続く言葉を聞いていた。
「ステラ? なぜ止める?」
《魔星》も構えを解かないまま問う。
『ハチは、これ以上の戦いを望んでいない……』
『ハチは……この人たちに、もう一度心を許した』
二体のレグナムは、眠っているはちを見つめた。
涙の跡は残っている。
だが、その表情に怯えも憎しみもない。
家族の腕に抱かれた子供のように、安らかに眠っている。
二体が見ているのは、誰かに答えを押しつけられた顔ではなかった。涙の跡を残したまま、はちは身を預けている。ステラの言葉と、目の前にある安堵が重なった。守ろうとして急いできた相手が、今は何を望んでいるのか。その答えは、眠る姿の中にあった。
「そうか……」
《魔星》がゆっくりと拳を下ろした。
「主は、自ら答えを見つけ出したのだな」
《グレシア》も大型剣を収める。
「そのようだ」
二体から放たれていた殺気が消え、森に静けさが戻った。
構えが解かれたのを見て、いろはもようやく息を緩めた。ここで再び刃を交えずに済んだことが、胸へ落ちる。はちの仲間たちも、この子の望みを大切にしてくれている。そのことを、いろはは二体の姿から受け取った。穏やかな寝息を守ったまま、話を終えられたのだ。
『……もう、大丈夫』
はちの内側から、ステラの安堵した声が響く。
『ユニゾン――アウト』
いろはの腕の中で、眠るはちの身体が淡い星明かりに包まれた。
次元神衣装が光の粒子となってほどけ、淡い銀紫色の長い髪が、本来の灰黒色へ戻っていく。閉じられた瞼の奥では、瞳も元の灰色へ戻っていた。
白いフード付きジャケットと黒を基調とした衣装は、同調前の暗色のバリアジャケットへ再構成される。
左腕のSIAと、右手中指の精霊カードケースの指輪は、そのまま残されていた。
ほどけた光は、いろはの隣へ集まり、人の姿を形作る。
姿を取り戻したステラは静かに着地し、眠るはちの頬へそっと触れた。
「はち……もう、戦わなくていい……」
隣に姿を取り戻したステラを、いろはは静かに見た。内側から響いていた声の主が、今はそばに立っている。頬へ触れる仕草にも、はちを案じる気持ちが表れていた。いろはは眠る身体を支え続けた。はちが安心して休める時間を、みんなで守っているのだと思えた。
《魔星》と《グレシア》は、はちを案じるステラを黙って見守った。
傷ついたアステリオンも、遠くから穏やかに一声鳴いた。
それが、長く続いた戦いの終わりを告げる声となった。
◇
安藤はちは、再びAEGISへ迎えられることになった。
記録の上では、次元神の力と深い心の傷を抱える、保護と観察が必要な存在。
けれど、いろはにとっては違う。
腕の中にいるのは、任務の対象でも、危険な力の所有者でもない。
寂しさに耐え、傷つきながらも、それでも人を思う優しさを失わなかった大切な子。
今度こそ守り、共に笑い、同じ家へ帰る家族だった。
いろはは、眠るはちを抱き締め直す。
帰った後に向き合わなければならないことは残っている。けれど、その全てを、はち一人に抱えさせる必要はなかった。今はこの子を抱き、同じ家へ帰る。いろはは腕の中の重みを確かめた。ずっと伝えたかった言葉を、ようやく、こんなふうに届けられる時が来たのだ。
「お帰りなさい」
そして、誰よりも優しい声で告げた。
「ハチちゃん」
――第29話 END――




