第28話 本当の願い
戦闘が始まってから、すでに数分が過ぎていた。
アルカディア郊外の森。
巨大樹の周囲には黒い砲撃が穿った痕が幾筋も残り、折れた枝や抉られた地面から薄い煙が立ち上っている。
ステラは、はちとのユニゾンを維持したまま戦いを見守っていた。
はちから告げられた「手を出さないでください」という言葉を守り、自分の意思で戦闘へ介入することはない。
それでも、傷ついていくはちの心も、隠し切れない迷いも、同調を通じて誰より近くで感じ続けていた。
そばにいることと、代わりに答えを出すことは違う。ステラは、はちが自分へ告げた言葉を覚えていた。だから介入せずにいる。それでも、感じ取ってしまう苦しみから離れることはできなかった。戦いが続くほど、はちが本当は何を求めているのかが、近くにいる自分へ伝わってくる。
安藤はちは、ダークアークレイの先端を天城いろはへ向けた。
「はっ!」
三発の黒い魔力弾が放たれる。
一発目は正面。
二発目は上空へ逃げる経路。
三発目は、いろはの右側へ開いた次元の裂け目へ飛び込んだ。
「っ!」
いろはは桃色の翼を噴射し、最初の二発を急上昇でかわす。
だが、裂け目へ消えた三発目が背後の空間から再び現れた。
『Warning』
アークレイの警告と同時に、いろはは身体を横へ捻る。
黒い弾丸が肩の装甲を掠め、木々の奥で爆発した。
爆風に押されながらも、いろはは反撃しない。
アークレイを構え、防ぎ、避け、距離を取り続けるだけだった。
反撃の機会を探すより先に、次の攻撃へ備えなければならない。いろはは翼の噴射で姿勢を整え、はちを視界に戻した。避け続ければよい状況ではないと分かっている。それでも、ここへ来た目的を手放したくなかった。撃ち返す以外の方法で、目の前の相手へ届きたかった。
(なぜ、攻撃してこない……?)
はちには理解できなかった。
このままでは、いろはが傷つくだけだ。
自分を止めたいのなら、本気で倒しに来ればいい。
もっとも――攻撃したところで、今の自分には届かない。
次元神の防御機能が、あらゆる攻撃を自動的に次元の裂け目へ吸収し、攻撃者のもとへ送り返すからだ。
「なぜ攻撃してこないのですか?」
はちはダークアークレイを下げずに問いかけた。
「自分を倒さなければ、本当にいろはさんが墜とされますよ」
いろはは荒くなった呼吸を整え、はちを見つめ返す。
「ハチちゃん。その前に、聞かせてほしいの」
「……何ですか?」
「どうして、その力を持っているの?」
次元を操る力。
魔法が使えないはずの次元空間でさえ、自由に裂け目を開く力。
いろはが疑問を抱くのは当然だった。
(それくらいなら、教えてもいいでしょう)
そう思いながらも、はちはすぐには答えなかった。
いろはが知りたいことは分かる。あの力を見れば、疑問を持つのも当然だった。けれど、答えようとすれば、裂け目へ落ちた時のことまで思い出す。この森にいた自分と、今ここに立っている自分。その間にあった時間を、何事もなかったように語ることはできなかった。
周囲を見渡し、別の話を始める。
「それにしても……懐かしいですね」
巨大樹の葉を通り抜けた昼の光が、二人の間へ降り注いでいる。
「ここは、いろはさんと自分が初めて出会った場所でしたね」
「話を逸らさないで!」
「そして――裏切りの場所でもあります」
「……っ」
いろはの顔が、苦痛に歪んだ。
あの日。
偽造された映像を信じ、はちの言葉を聞こうとしなかった。
その結果、はちは次元の裂け目へ吸い込まれ、自分たちの前から姿を消した。
懐かしさへ目を向ければ、同じ場所に残る別の記憶も蘇る。いろはは唇を引き結んだ。はちが何を言おうとしているのかを、遮ってはいけない。苦しくても、自分がしたことの話を聞かなければならなかった。あの日にはできなかったことを、今、ここで繰り返すわけにはいかない。
「あの時、私は誤解していた」
いろははアークレイを下げた。
「偽物の真実を信じて、ハチちゃんを信じてあげられなかった」
震える声を、それでも止めない。
「ハチちゃんは私たちを信じて姿を現してくれた。誤解を解こうとしてくれたのに、私はそれを拒んだ」
桃色の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「本当なら、最初からハチちゃんを信じて、話を聞くべきだった。家族になりたいと言ったのなら――何より先に、ハチちゃんを信じるべきだった!」
あの時は知らなかったと説明するだけでは、足りなかった。知らなかったからこそ、本人へ確かめなければならなかったのだ。いろはは言葉を続けた。家族になりたいと願った自分が、その願いにふさわしい行動を取れなかった。その過ちを、はちの前で認めたかった。
はちは、何も言えなかった。
(いろはさん……)
いろはも、ずっと苦しんでいた。
自分を傷つけた事実を忘れず、後悔し続けていた。
「私は、ずっとハチちゃんに謝りたかった」
いろはは涙を隠さず、顔を上げる。
「会って、抱き締めて……ごめんなさいって伝えたかったの!」
その言葉が、はちの胸の奥へ届く。
張りつめていた憎しみが、僅かに揺らいだ。
顔を上げているのに、涙を止められずにいる。その姿を前に、はちは用意していた冷たい言葉を見つけられなかった。自分だけが別れた日の中に取り残されていたわけではない。いろはも、その日から続く痛みを抱えて来たのだ。その事実が、張りつめた胸へ触れていた。
同調しているステラには、はちの心が揺れていることが痛いほど伝わっていた。
助けを求めていることも、いろはのもとへ帰りたがっていることも分かっている。
けれど今は、はち自身がその願いを口にする時を待つしかなかった。
「いろはさん……あなたも、苦しんでいたのですね」
「本当に……ごめんなさい……」
いろはは両手で涙を拭った。
はちはダークアークレイの矛先を僅かに下げる。
下げた切っ先は、ほんの僅かだった。それでも、向け続けていた時とは違う隙間が、二人の間に生まれていた。はちはいろはの問いを思い出す。戦いの前に聞かれ、すぐには答えなかったことを、今なら少し話せる気がした。声を整えて、あの時のことへ言葉を向けた。
「先ほどの質問に答えましょう」
いろはが顔を上げた。
「自分が、なぜ次元神の力を持っているのか」
風が、はちの淡い銀紫色の長い髪を揺らす。
「この場所で手に入れたのです。正確には――次元の裂け目へ吸い込まれた時に」
「次元の中で……?」
いろはは驚きを隠せなかった。
「でも、次元空間では魔法が一切発動できなくなるはずだよ」
「次元神の力は、そのような常識さえ覆します」
はちが左手を開くと、掌の上に小さな次元紋様が浮かんだ。
「自分がその気になれば、次元震を意図的に起こすこともできます」
小さな紋様が脈動しただけで、周囲の空間が微かに軋んだ。
いろはの表情が強張る。
その力を暴走させれば、一つの世界だけでは済まない。
無数の世界へ次元震が連鎖し、すべてを破壊する可能性すらある。
掌の小さな紋様と、そこから想像される被害の大きさが釣り合わない。いろはは空間の軋みに意識を向けた。今、目の前で次元震が起きているわけではない。それでも、はちの言葉を聞き流すことはできなかった。その力とともに生きている本人が、どう扱っているのかを知る必要があった。
「それなら、どうして制御できているの?」
いろはは問う。
「次元神の力は、制御が極めて難しいと記録に書かれていた。扱いを誤れば、使う本人まで呑み込まれるはずだよ」
「自分の、もう一つの能力を忘れましたか?」
「もう一つ……」
いろはは考え、すぐに思い出した。
「全世界の知識……」
「正解です」
はちは掌の次元紋様を閉じる。
「あらゆる世界の知識があれば、力の構造も、制御方法も理解できます。自分にとっては、決して扱えない力ではありません」
理解していると告げる声には、力の扱いに対する確かさがあった。いろはは、はちがかつて打ち明けてくれた能力を思い出す。材料からあらゆるものを作り、知識を形にしてきたあの子が、今は未知の力まで制御している。知っていたはずの能力が、別の重みを持って迫ってきた。
いろはは暫く黙っていた。
次元神の力。
全世界の知識。
どちらか片方だけでも、ガーディアンが危険視するには十分すぎる。
「いろはさんの質問には答えました」
はちは再びダークアークレイを構える。
「今度は、自分が答えを聞く番です。なぜ、攻撃してこないのですか?」
「攻撃すれば、あの時の無人兵器と同じように墜とされると分かっているから」
はちは僅かに目を見開いた。
「ハチちゃんは、戦う前に私へ警告したよね。殺傷設定なら非殺傷へ切り替えてって」
いろはは、以前の戦いを思い返す。
はちを背後から狙った無人兵器は、放った攻撃を至近距離へ送り返され、自滅した。
「攻撃を次元の裂け目へ吸収して、相手の近くへ返す。だから私が本気で攻撃すれば、そのまま自分へ返ってくる」
(一度見ただけで、そこまで……)
さすがだった。
「なら、分かるはずです」
はちは冷たく告げる。
「自分には勝てない。勝てないと分かっているのに、なぜここへ来たのですか?」
勝てるかどうかを問えば、答えはひとつになるはずだった。それで引き下がってくれれば、これ以上言葉を交わさずに済む。はちはダークアークレイを向けたまま、いろはを見た。強さを示しても、警告を重ねても、その瞳の奥にある願いまでは消えてくれなかった。
いろはは迷わず答えた。
「ハチちゃんを迎えに来たの」
「……!」
「今回は、ガーディアン局員としてじゃない」
いろはは胸へ手を当てる。
「家族として迎えに来たんだよ」
はちの瞳が揺れた。
捕まえるためではない。
連れ戻すためでもない。
もう一度、家族になるために来た。
その言葉を、いろはは自分の気持ちとして差し出していた。ここへ辿り着くまでに聞いたはちの願いを、代わりに答えているつもりはない。自分も同じように願っていると伝えたかった。力の大きさより先に、もう一度一緒に暮らしたい相手として、目の前のはちを見つめた。
「ねえ、ハチちゃん。もう一つだけ聞いてもいい?」
「……どうぞ」
「ハチちゃんは、私たちのことが嫌い?」
答えは、最初から決まっていた。
嫌いなはずがない。
今でも、いろはたちの家族になりたい。
あの部屋へ帰りたい。
けれど――それを認めれば、もう戦えなくなる。
思い浮かぶのは、特別な日のことだけではなかった。そばに誰かがいて、言葉を交わせた時間。大切にされていると感じられた日々。その温かさを欲しがっている自分を、はちはまだ胸の内に抱えていた。嫌いだと言い切るためには、その全てへ背を向けなければならなかった。
「……嫌――」
「嘘!」
「っ!?」
言い終える前に、いろはが否定した。
「バティオスさんから聞いたよ。ハチちゃんは今も苦しんでいるって」
「バティオスは……そのようなことまで話したのですか」
はちは動揺を隠すように顔を背ける。
「うん。それから、約束してほしいって頼まれたの。もう二度と、ハチちゃんを裏切らないでほしいって」
いろはは一歩も引かずに続ける。
「約束されなくても、私はもうハチちゃんを裏切らない」
その声に、嘘は感じられない。
バティオスが話したことへの驚きが、まだ残っていた。自分でも隠そうとしていた思いを、いろはが知っている。そのうえで向けられる約束を、はちはまともに受け止めきれなかった。信じたいという気持ちが動くたび、それを恐れる気持ちも同じだけ強くなっていた。
「ハチちゃんは……もう、私たちを信じられないの?」
「俺だって……」
はちの唇から、小さな声が漏れた。
「ハチちゃん?」
いろはには聞き取れなかった。
それが、最後だった。
ずっと押さえ込んでいた思いが、堰を切ったように溢れ出す。
「俺だって、いろはさんたちのところにいたいよ!」
はちの声が、森へ響き渡った。
いつもの丁寧な「自分」ではない。
飾る余裕を失い、転生前から胸の奥にいた「俺」が、本音を叫んでいた。
言わないでおこうとしていたことが、一度声になると止められなかった。丁寧な言葉で距離を作る余裕も、相手からどう見えるかを考える余地もない。欲しかったものがある。今も欲しい。その思いを否定し続けてきた苦しさまでが、叫びとともに外へ溢れていた。
「いろはさんたちの家族になりたい! もっと幸せになりたい! もっと甘えたい!」
涙が次々と頬を伝う。
「両親が亡くなってから感じられなかった安らぎを、もう一度感じたい! いろはさんたちにも幸せになってほしい! だけど――!」
「ハチちゃん……」
いろはは、突然ぶつけられた本心に息をのむ。
「怖いんだよ!」
はちは胸を押さえ、声を震わせた。
「信じた後で、また裏切られるのが……あの絶望を、もう一度味わうのが怖いんだよ!」
帰りたいという願いを口にしても、恐怖は消えなかった。むしろ、それほど強く求めているからこそ、失うことが怖い。はちは胸元を押さえたまま、いろはを見た。もう一度手を取った先の温かさを想像するたびに、その先で再び一人になる記憶まで蘇ってしまう。
次に同じ絶望を味わえば、自分は本当に戻れなくなる。
全世界を破壊するほどの憎しみに、心を呑まれるかもしれない。
「それが、ハチちゃんの本当の気持ちなんだね」
いろははアークレイを下げ、ゆっくり歩き始めた。
「近づくな!」
はちの叫びに、いろはは足を止めた。
「もう無理なんだよ!」
はちは涙を拭わず、言葉を続ける。
「ガーディアンも信用できない。他の人も信用できない。それに、今の俺は犯罪者だ!」
バティオスたちへ命じ、ガーディアン局員を襲撃させた。
危険遺物を破壊し、組織へ敵対した。
「そんな俺が、いろはさんの家族になる資格なんてない!」
もう幸せになる資格はない。
はちは、本気でそう思っていた。
家族になりたいと叫んだばかりなのに、その願いを自分で退ける言葉が続いた。傷つけられたことだけを理由にしてはいられない。今度は自分も、誰かを傷つける側へ動いた。その事実を抱えたまま幸せを求めることが、はちには許されないことのように思えていた。
「そんなことないよ!」
いろはが強く否定する。
「罪は償える。間違えたなら、これから正していけばいい!」
いろはは倒れた局員たちの姿を思い出す。
「それにハチちゃんは、バティオスさんたちへ手加減するよう命じていたでしょう? 襲撃を受けた局員は、全員生きていた」
はちは人を殺していない。
世界へ絶望しながらも、最後の一線だけは守り続けている。
してしまったことを消してあげることはできない。それでも、はちが守ったものまで見えなくしたくなかった。命を奪わないという選択を、怒りの中でも手放さずにいた。いろはは、その事実をはち自身へ伝えた。自分には何も残っていないと、思い込んでほしくなかった。
「ガーディアンに問題があるなら、中から変えることだってできる。だから――」
「もういい」
はちは話を遮った。
「話は終わりです。戦闘を再開しましょう」
「ハチちゃん!」
「無理なんです……」
どれほど優しい言葉をかけられても、恐怖は消えない。
「俺の正義が勝つか、いろはさんの正義が勝つか。それがすべてです」
はちはダークアークレイを次元収納へ戻した。
『はち……』
ステラが同調の内側から、もう一度その名を呼ぶ。
はちは一瞬だけ目を伏せ、その声を受け止めた。だが何も答えず、再びいろはを見た。
内側から届く声へ、返す言葉が見つからなかった。ステラが案じていることは分かる。いろはが何を願っているのかも、もう聞いている。それでも、心は同じところで立ち止まったままだった。はちは目を開く。決めようとする気持ちだけを前へ出し、再び相手を見た。
「遊びは終わりです」
空いた両手を、左右へ広げる。
「いろはさん。次元神の力は――このようなこともできます」
「えっ……?」
いろはの真横に、小さな裂け目が開いた。
そこから黒い魔力弾が撃ち出される。
「っ!」
いろはは反射的に身を屈め、弾丸を避けた。
直後、上空、背後、左右、足元。
無数の次元の裂け目が一斉に開く。
裂け目の奥には、異なる世界から引き出された武器が見え隠れしていた。
星の光を纏う長剣。
因果を貫くような深紅の槍。
雷を帯びた戦斧。
魔力を収束させた弓と、無数の砲口。
どの方向へ逃げても、別の裂け目が待ち受けている。
「これが、次元神の能力の一部です」
武器の切っ先が、すべていろはへ向く。
逃げ道を塞ぐように並んだ裂け目の奥で、武器がこちらを向いていた。いろはは周囲へ意識を配った。ひとつの砲口を避ければ終わる状況ではない。はちが示そうとしている力の大きさが、そのまま二人の間を隔てるものになっていた。それでも、見つめる相手を変えることはできなかった。
「このような力を持つ自分を、ガーディアンが見逃すはずがない」
はちの右手へ、再びダークアークレイが現れた。
「危険な存在として恐れるか、犯罪者として拘束するか。あるいは力を奪い、利用し、必要がなくなれば切り捨てる」
全世界の知識だけでも、はちの恐怖は変わらない。
兵器をいくつでも造り出せる知識は、次元神の力がなくとも狙われる理由になる。
「だから、自分はガーディアンを潰します」
ダークアークレイが、いろはを捉える。
「ハチちゃん……」
いろはは悲しそうに名前を呼んだ。
その声を聞くたび、はちの決意が揺らぐ。
「だけど……自分も、いろはさんを傷つけたくない」
はちの声が掠れた。
「頭では、戦わなければならないと分かっているのに……本能が、それを拒むのです」
力を示し、潰すと言い切った後に、傷つけたくないという声が漏れた。矛盾した思いのどちらも、はちの中では切実だった。戦う以外に進めないと思っている。それなのに、そこに立っているいろはを傷つければ、自分の胸まで苦しくなる。その行き場のなさが、声を掠れさせていた。
「ハチちゃん」
いろはは何かを決意し、再び歩き始めた。
「来るな!」
それでも止まらない。
アークレイを下げ、防御障壁すら張らず、真正面からはちへ近づいていく。
(どうして来るんだよ……)
来るな。
来ないで。
近づかないで。
「近づくな!!」
はちはダークアークレイを撃った。
黒い魔力弾が、いろはの左肩へ命中する。
「うぐっ!」
非殺傷設定の低出力弾。
それでも衝撃でいろはの身体が揺れ、肩の装甲へ亀裂が入る。
左肩へ走った衝撃に、いろはは身体を揺らした。歩みを止めたくないと思っていても、痛みを感じなくなるわけではない。亀裂の入った装甲が、受けた力を伝えていた。いろはは顔を上げた。はちが何を恐れているのかを聞いた今、その恐怖だけを残して退きたくはなかった。
「どうして避けないんですか……!」
はちは地面を狙い、威嚇射撃を繰り返した。
いろはの足元で土が弾け、煙が上がる。
それでも、いろはは歩みを止めない。
次の弾が脇腹を掠め、桃色の装甲を削る。
さらに一発が太腿へ当たり、片膝が沈んだ。
いろはは痛みに耐えて立ち上がり、再び一歩を踏み出す。
(嫌だ……)
自分は、いろはを傷つけたくない。
なのに、引き金を止められない。
止めれば信じてしまう。
信じれば、また失うかもしれない。
近づいてほしいと願った相手を、自分で遠ざけようとしている。はちはその矛盾から逃げられなかった。引き金を引くたびに、目の前の姿が痛みに揺れる。それを見ることも苦しいのに、手を止める先には、さらに怖いものが待っている気がした。信じたいという願いそのものを、もう押し殺しきれなかった。
ユニゾンを通じて、ステラの不安がはちの胸へ流れ込んでくる。
ステラも今すぐはちを止めたい。それでも、はちが自分の意思でいろはの手を取らなければ、心の傷は本当には癒えない。
だからこそ約束を守り、苦しむはちを見守り続けた。
「大丈夫だよ……」
いろはは苦痛に顔を歪めながらも、優しく微笑んだ。
「私が――ううん。私たちが、ハチちゃんをそんなふうにはさせない!」
痛みに歪んだ表情のまま、いろはは声を届けようとした。自分だけで全てを解決できると告げているのではない。ともに支え、間違えた時には止める人たちがいる。その輪の中へ、はちにも戻ってきてほしかった。約束を今ここで受け取ってもらえなくても、伝えることはやめたくなかった。
「いろはさん……」
距離が縮まる。
二十メートル。
十五メートル。
十メートル。
「来るな……」
声が震える。
「本当に、来ないでください……」
いろはは止まらない。
はちへ手を伸ばしながら、真っ直ぐ歩いてくる。
伸ばされた手が、視界の中で少しずつ近くなる。はちは、その手が何を求めているのかを知っていた。捕らえるためだと言い聞かせることは、もう難しかった。だからこそ怖い。拒んでいるはずの自分が、その温かさを求めてしまうことを、どう止めればよいのか分からなかった。
「うあああああああっ!!」
恐怖に耐え切れず、はちは両手を振り下ろした。
無数の裂け目から、魔力弾が一斉に発射される。
前後左右。
上空と足元。
幾百もの黒い光が、逃げ場のない弾幕となっていろはへ殺到した。
放った直後、はちの顔から血の気が引く。
「しまった……!」
これは威嚇ではない。
障壁も展開していないいろはが受ければ、非殺傷設定でも無事では済まない。
放つまでの一瞬と、その後の一瞬では、見えるものが変わっていた。遠ざけたいと思っていた相手が、今は自分の攻撃に囲まれている。はちはその光景を見た。これほどの数を、防御もないまま受けてしまう。その結果を思った途端、言葉より早く恐怖が全身へ広がった。
「避けて!!」
だが、もう間に合わなかった。
ドガガガガガガガァンッ!!
連続する爆発が森を揺らす。
爆風が巨大樹の枝をしならせ、黒煙と土砂が一帯を覆った。
「いろはさん!」
はちは叫び、煙へ向かって駆け出しかける。
先ほどまで近づくなと叫んでいた自分が、今は煙の奥へ向かおうとしていた。見えなくなった姿を探す。無事でいてほしい。それ以外の考えがまとまらなかった。はちは立ち上る黒煙を見つめた。自分が放った光の向こうから、もう一度あの声を聞きたかった。
やがて風が吹き、黒煙が少しずつ流されていく。
その奥に、巨大な影があった。
白銀と青の鱗。
星空を宿したような翼。
その翼が盾のように広がり、いろはを包み込んでいる。
「よかった……」
いろはは生きている。
安堵した直後、はちは目の前の存在に気づいた。
見間違えるはずがない。
自分が大切にしてきた精霊カードの一体。
いろはへ託した、守護の竜。
守ってほしいと願い、いろはへ贈った存在が、今、自分の前にいた。庇うように広がった翼の意味を、見誤ることはできない。はちはその姿を見つめた。いろはが無事だったことへの安堵と、自分の攻撃から守られたという事実が、胸の中へ一緒に押し寄せてきた。
「あ、アステリオン……?」
《星護竜アステリオン》は翼を開き、いろはを背後へ庇いながら、静かにはちを見つめていた。
――第28話 END――




