第26話 騎士の約束
AEGIS技術開発室。
普段は大小さまざまな装置が並ぶ整然とした室内が、今だけは緊急整備施設へ変わっていた。
中央の大型整備台には、全高二百三十センチの人型レグナム――《バティオス》が横たわっている。
左腕は盾ごと失われ、胸部と脚部の装甲も激しく損傷していた。翼型推進器の片側は半ばから折れ、露出した内部機構では青白い火花が散っている。
天城いろはは、その傍らに立っていた。
自分が与えた損傷だ。
バティオスが本気で挑んできた以上、手加減だけで勝てる相手ではなかった。それでも傷ついた姿を目にすると、胸の奥に重いものが残る。
戦場では、迫る刃を止めることに必死だった。今、静かな整備台の上に横たわる姿を見ると、その時には捉えきれなかった損傷まで目に入る。勝つために必要だったと分かっていても、助けたい気持ちが軽くなるわけではない。いろははノエルの手元へ視線を向けた。
「ノエルさん、お願いします!」
呼び出されたノエル・アークスは、すでに白衣の袖をまくり、複数の解析端末を接続していた。
立体映像に、バティオスの全身構造が映し出される。
「……驚きました」
ノエルの指が、空中に浮かぶ設計情報を素早く操作する。
「さすが、はちさんです。これほど高度な機体制御技術を使いながら、思考と感情まで持たせているなんて」
機械的に命令を処理しているだけではない。
バティオスは自ら考え、迷い、怒り、誇りに従って行動していた。
ノエルは解析を続けながら、僅かに眉を寄せる。
「動力経路も情報処理層も、既存のレグナム技術とは設計思想が違います。構造を無理に開けば、人格情報へ影響を与える危険があります」
構造を知れば直せるという、単純な話ではなかった。解析の先にあるものを、ノエルは慎重に見極めている。いろはは説明を遮らずに聞いた。鋼の身体を修復するために、その内側にいるバティオス自身を傷つけてしまっては、保護した意味がなくなってしまう。
いろはの胸に不安が広がった。
「それで……ノエルさん。バティオスさんを直せそうですか?」
「完全修復は、今の私には無理です」
ノエルは正直に答えた。
「ですが、損傷の拡大を止め、会話できる状態まで安定させる応急処置なら可能です」
「よかった……」
いろはは安堵の息を吐いた。
ノエルが補助電源を接続する。
バティオスの胸部で明滅していた光が、弱々しいながらも一定の周期を取り戻した。
光の明滅が落ち着いたことを、いろはは息を詰めて確かめた。失われた腕も、砕けた装甲も、そのままだ。完全に直せたわけではない。それでも、悪くなるのを止められたという小さな変化が、今は大きかった。呼びかけに答えてくれることを願いながら、その顔を見守った。
「天城……」
「バティオスさん?」
双眸に赤い光が戻る。
バティオスは残った右腕を動かし、身体を起こそうとした。
「駄目です!」
いろはは咄嗟に整備台へ手をつく。
「損傷がひどいんです。今は動かないでください!」
「そうです。固定部へ負荷をかけないでください」
ノエルも手を止めずに告げる。
「いや……お前たちに、伝えることがある」
途切れがちな声だった。
それでも、その口調には騎士としての威厳が残っている。
動かないでほしいという願いと、伝えようとする言葉を聞かなければという思いの間で、いろはは身を寄せた。声は弱くても、その意志まで薄れたわけではない。戦場で向き合った時と同じように、バティオスは自ら決めたことを、自分の言葉で告げようとしていた。
「私を倒した褒美だ。主の居場所を教える」
「……!」
いろはは息をのんだ。
「本当に……いいのですか?」
バティオスがどれほどはちを大切にしているか、いろはは身をもって知っている。
その彼が、自ら居場所を明かそうとしている。
「騎士に二言はない」
バティオスは静かに答えた。
「言ったはずだ。主の居場所を知りたければ、私を倒せと。お前は自らの信念を示し、私に勝った」
勝ったからといって、何もかもを明かしてもらえるとは思っていなかった。はちの居場所は、バティオスが守ろうとしていたものだ。それを今、本人が託そうとしている。いろはは、得られる手掛かりの大きさと同時に、その申し出へ込められた重みを受け止めた。
「バティオスさん……」
いろはは深く頭を下げた。
「ご協力、感謝します」
「主は今――アルカディア郊外の森にいる」
バティオスが告げたのは、いろはにも覚えのある場所だった。
巨大樹の根が大地を覆う、昼の森。
はちが転生後、最初に目を覚ました場所。
そして、いろはとはちが初めて出会った場所でもある。
「どうして……また、あの場所に……」
追われた時も、はちはあの森へ逃げ込んだ。
今度は研究所を隠す場所として、同じ森を選んでいる。
偶然ではない。
はちにとってあの場所は、すべての始まりなのだ。
あの森へ向かえば、もう一度会えるかもしれない。思い浮かぶ景色が、遠い記憶から、これから進む道へ変わっていく。初めて差し伸べた手を取ってくれたはちと、最後にその手を拒んだはち。どちらの姿も胸に抱えたまま、いろははバティオスの次の言葉を待った。
「天城……一つ、約束してくれ」
考え込んでいたいろはは、バティオスへ向き直った。
「何ですか?」
「もう二度と、主を裏切らないと約束してほしい」
赤い双眸が、いろはを捉える。
「たとえ、どのような時でもだ」
いろはは答えを急がなかった。
簡単な慰めの言葉にしてはいけない。
これは、バティオスが命を懸けて守ろうとした存在を、自分へ託すための約束だ。
何があっても、と口にすること自体は難しくない。けれど、自分は一度、信じていたはずの相手の言葉を聞かなかった。その過去を知っている者から問われている。いろはは視線を逸らさず、返そうとする言葉が、自分の願望だけになっていないかを胸の内で確かめた。
「今、主は苦しんでいる」
バティオスの声が、僅かに掠れる。
「本当は今も、お前たちの家族になりたいと思っている。だが主は……信じた後で、再び裏切られることを恐れている」
「ハチちゃん……」
いろはの胸が痛んだ。
はちは、自分たちを憎み切っているわけではない。
今も家族を求めながら、その手を取ることを怖がっている。
拒絶された時の痛みを、もう一度味わうことに耐えられないから。
家族になりたいという願いが、はちの中にも残っている。知りたかった答えを聞かされても、喜びだけで胸は満たされなかった。その願いを持ちながら遠ざかるしかなかったことが、苦しい。いろはは、あの時の拒絶を思い出した。言葉の冷たさの奥にあった怖さを、今は少し違う形で受け止めていた。
「主は、まだ世界のすべてに絶望してはいない」
バティオスは言葉を続ける。
「だが、もし再び裏切られれば……今度こそ本当に絶望し、全世界を破壊しかねない。無論、主自身はそのようなことを望んでいない」
はちが求めているのは、破壊ではない。
誰も傷つかない世界。
誰も自分と同じ痛みを味わわない未来。
けれど、その願いが絶望に呑まれれば、平和を求める力は、すべてを滅ぼす力へ変わってしまう。
――そんなことは、絶対にさせない。
いろはは胸元で拳を握り、バティオスをまっすぐ見つめた。
「約束します」
一語ずつ、決意を刻むように告げる。
「私たちは、もう二度とハチちゃんを裏切りません。今度こそ、何があっても信じます」
その場を安心させるためだけの返事にはしたくなかった。これから先、疑わしい話を聞くことがあっても、はちの声を聞く前に答えを決めない。差し出された情報より先に、本人へ向き合う。そのための決意を込めて、いろはは赤い双眸をまっすぐ見つめ続けた。
「……そうか」
バティオスの双眸から、張りつめていた光が消えていく。
「ならば……安心できる」
「バティオスさん?」
「私は少し……休ませてもらう」
言葉を終えると、バティオスはスリープモードへ移行した。
胸部の灯りが静かな待機色へ変わる。
いろはは、その姿へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます、バティオスさん」
待機色へ変わった灯りを見届けてからも、いろははすぐには身を離さなかった。託されたのは、森の場所だけではない。家族を求める気持ちも、もう傷つきたくないという恐れも、聞かせてもらった。次にはちへ会う時、そのどちらも忘れてはいけないと思った。
顔を上げた時、瞳に迷いはなかった。
(ハチちゃん……今から迎えに行くよ)
◇
アルカディア郊外。
森の奥深くに隠された研究所で、はちは制御卓を見つめていた。
その傍らには、人の姿となったステラが立っている。
次元の狭間で契約して以来、ステラははちと行動を共にしてきた。今も言葉少なに監視画面を見つめ、消えてしまった仲間の反応を探している。
監視画面に表示されていたバティオスの魔力反応が、突然消失したのだ。
「……バティオス?」
応答はない。
通信経路も途絶えている。
画面へ向けた視線が止まった。つい先ほどまで確かめられていた反応がなく、呼びかけにも返事がない。それだけで何が起きたのかを断定できるわけではなかった。けれど、沈黙のままの通信は、はちが考えたくなかった可能性を、何度も意識の中へ押し戻してきた。
(倒されたか……)
「まさか、バティオスがやられるとは……」
ガーディアン局員を足止めするよう頼んではいた。
だが、バティオスはそう簡単に敗れる存在ではない。ノクティス・システムによる戦闘予測と、圧倒的な近接能力を持っている。
そのバティオスを倒せる相手。
思い浮かぶ者は、限られていた。
(いろはさんたちか……?)
彼女たちなら、バティオスを倒せても不思議ではない。
あの二人の強さを、はちは知っていた。近くで見てきた時間があるからこそ、思い浮かんだ可能性を否定できない。バティオスなら簡単には負けないという確信と、いろはたちならばという思いが、胸の中でぶつかる。頼んだ役目の先に起きたことを、今は画面から知ることさえできなかった。
「困りましたね……計画が狂いました」
今後の動きを練り直さなければならない。
はちが新たな作戦を考え始めた時、隣に立つステラが静かに声を掛けた。
「はち……」
「大丈夫ですよ、ステラ」
そう答えた直後、別の通信が割り込んだ。
『おい、嬢ちゃん』
「ヴェイル? どうしましたか?」
通信相手は、大鎌を操る人型レグナム――《W.レグナム ヴェイル》だった。
『こっちへ向かってくるガーディアンが二人いる。映像を送るから確認してくれ』
制御卓へ、森の上空を飛ぶ二人の姿が映し出された。
「……!」
天城いろは。
そして、レイ・シルビア。
(ということは……バティオスを倒したのは、やはり)
「さすがですね、いろはさんたちは……」
胸の奥に、誇らしさにも似た感情が浮かぶ。
はちはすぐに、それを押し殺した。
映像の中の姿を見て、胸に浮かんだものは、怒りだけではなかった。強い人たちだと知っている。だからこそ生まれた感情を、そのまま認めるのが怖かった。はちは画面から目を離さずにいた。敵として考えようとしても、以前から知っている二人の姿が重なってしまう。
『二人とも撃墜するか?』
「いいえ」
ヴェイル一人で二人を同時に相手取るのは危険だ。
それに――いろはとは、自分の手で向き合わなければならない。
「一人は通してください」
『なら、俺は金髪の姉ちゃんを相手にすればいいんだな?』
ヴェイルの声は、これから戦闘へ向かうとは思えないほど軽い。
「お願いします。ですが、くれぐれも油断しないでください」
レイは速い。
一瞬でも姿を見失えば、逆に懐へ踏み込まれる。
『了解』
「それと、分かっていると思いますが――」
『殺すな、だろ? 分かってるよ』
ヴェイルは先に答え、通信を切った。
通信が途切れるまでを見届けても、はちの意識は映っていた二人に残っていた。一人を通すと、自分で告げた。研究所へ近づかせないという選択だけを求めたわけではない。その判断の意味を、自分の中で何度も確かめる。いろはと向き合う時が、もう近くへ来ていた。
はちは暗くなった画面を見つめる。
(どうして、ここが分かった……?)
考えられるのは、バティオスだ。
バティオスは、誰よりも自分の心を理解していた。
もしかすると、自分を倒した者へ居場所を教えるという条件を出したのかもしれない。
騎士として一度交わした約束なら、バティオスは必ず果たす。
たとえ、自分の意向に背く結果になったとしても。
もし本当にそうなら、バティオスは自分で考え、選んだのだろう。問いかけられた言葉も、素直な気持ちを話してはどうかと勧められたことも覚えている。はちは暗い画面を見つめた。居場所が知られた理由を考えるほど、仲間が自分を案じていたことまで思い出されてしまった。
「やっぱり……戦うしかないのかな……」
今回は、以前とは違う。
自分はすでにガーディアン局員を襲撃し、危険遺物を破壊した。
いろはたちが逮捕のために来ても、おかしくはない。
(捕まるつもりはない)
世界を平和にするためなら、いろはたちを倒してでも――。
ズキンッ。
「っ……!」
胸を締めつけるような痛みに、はちは服の上から胸元を押さえた。
ガーディアンを滅ぼすと決めた時から、何度も感じてきた痛み。
自分は、まだ迷っているのか。
いろはたちを敵として割り切れずにいるのか。
胸元へ押し当てた手の下で、痛みが意識を奪った。戦うと考えた途端に、いろはたちの顔が浮かぶ。倒してでも進むと決めようとする自分と、そう言い切れない自分がいる。痛みの理由をつかめないまま、はちは浅く息を吐いた。決意を固めれば、心まで同じ方向へ揃うわけではなかった。
「もう……」
小さく首を振る。
「後戻りはできない」
ここで立ち止まれば、すべてが無駄になる。
同じように組織の力で傷つけられる者を、これ以上生み出さないために。
「決着をつけましょう」
はちは研究所を出て、森の中へ向かった。
ステラも何も言わず、その隣へ並ぶ。
はちがどのような答えを選ぶとしても、決して一人にはしない。その意志を示すように、ステラは歩幅を合わせて森の奥へ進んだ。
隣を歩く気配が、はちの歩みに重なった。何を言うべきか、どこまで言えるのかは、まだ分からない。それでも、進む先には会わなければならない相手がいる。はちはステラとともに歩き続けた。研究所の画面越しに見ていた距離を、自分の足で縮めるためだった。
世界を――全世界を平和にするために。
◇
いろはとレイは、アルカディア郊外の森を低空で飛んでいた。
木々の間から差し込む陽光が、二人の進路を斑に照らしている。
「この先です」
いろはは周囲を見渡しながら速度を落とした。
(どうして、またこの場所なんだろう……)
初めてはちと出会った森。
偶然とは思えない。
木漏れ日の中を進むたび、覚えのある景色へ目が向いた。初めて会った時には、互いのことを何も知らなかった。今は、ともに過ごした時間も、傷つけた日の記憶もある。同じ森へ戻っても、あの頃に戻れるわけではない。いろははそのことを胸に留め、前を見た。
「いろは、何かいる!」
レイの声に、いろはは思考を切り替えた。
木々の影から、黒い人影が飛び出す。
二人の進路上へ降り立ったそれは、バティオスと同じ人型レグナムだった。
漆黒の装甲。
頭部を覆う意匠は、死神の外套を思わせる。
右手には、自身の身長を超える巨大な鎌型魔力刃が握られていた。
「おっと。ここから先は通行止めだ」
W.レグナム《ヴェイル》は、大鎌を肩へ担いだ。
「悪いが、引き返してくれ」
「あなたは……」
いろはが問いかけると、ヴェイルは気軽に片手を上げた。
「俺か? 俺の名はヴェイル。逃げも隠れもするが、嘘はつかないヴェイルだ」
(バティオスさんとは、ずいぶん雰囲気が違う……)
騎士然としたバティオスに比べ、ヴェイルの態度は軽い。
だが、隙はなかった。
大鎌の間合いへ入った瞬間、確実に斬り込める姿勢を保っている。
声の調子に合わせて警戒を緩めることはできなかった。目は二人を捉え、大鎌はいつでも動かせる位置にある。いろはは、軽い言葉と隙のない構えの両方を見た。バティオスとは違っていても、はちへ続く道を守っているという点では、同じなのかもしれなかった。
「私は――」
「ああ、名乗らなくていいぜ」
いろはが自己紹介しようとしたが、ヴェイルはあっさり遮った。
「どうせガーディアンだろ? 一応、もう一度だけ警告しておく。ここから立ち去るなら攻撃はしない」
「一方的ですね」
レイの声が冷たくなる。
「どうして、あなたに進路を決められなければならないのですか?」
「あいにく、俺は戦闘が嫌いでね。できれば戦いたくないのよ」
ヴェイルは面倒そうに肩をすくめた。
次の瞬間。
大鎌を両手で回転させ、切っ先を二人へ向ける。
黒い魔力が刃から噴き上がり、周囲の木の葉を一斉に巻き上げた。
「だが、主を守るため――世界を平和にするためなら、俺は喜んで死神になるぜ」
先ほどまでの軽さが消えた。
圧倒的な殺気が森を満たし、木々のざわめきさえ止まったように感じられる。
木の葉が舞う向こうで、大鎌の刃が向けられている。冗談めいて聞こえた声が消えただけで、同じ姿が違って見えた。いろはは立ち止まった。話をする間にも、相手は戦いへ移れる。軽口の奥にある意志を見失えば、次の瞬間には刃が迫るかもしれなかった。
「待ってください!」
いろはは前へ出ようとした。
「いろは、行って!」
レイが片腕を伸ばし、いろはを制する。
「あの人は私が食い止めます」
「レイちゃん!?」
「ここで二人とも足止めされるわけにはいきません。ハチを迎えに行ってください」
差し出された片腕の前で、いろははレイを見た。一緒に進みたい。目の前の相手を残して、自分だけ先へ行くことへのためらいもある。けれど、二人がここで止まれば、はちへ届くまでの時間はさらに遠ざかる。レイはその迷いごと引き受けるように、前へ立っていた。
だが、ヴェイルが素直に通すとは思えない。
いろはがそう考えた時――。
「ああ、いいぜ。行きな」
「「……え?」」
二人の声が綺麗に重なった。
緊張の糸を断ち切られ、いろはとレイは揃って前のめりになる。
「すげえな! 二人で綺麗にハモったぞ。仲いいな、お前たち!」
ヴェイルは大鎌を肩へ戻し、けらけらと笑っている。
「ふ、ふざけないでください!」
レイのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「意味が分かりません!」
「レイちゃん、落ち着いて!」
いろはは慌てて宥める。
相手の軽口に乗せられれば、戦闘の主導権まで奪われる。
ひとりを通すという言葉が本当なのかも、まだ確かめられていない。突然緩められた緊張に引きずられず、いろははヴェイルの動きを見た。レイが怒るのも無理はない。それでも、相手の調子へ合わせてしまえば、先へ進むという目的まで見失いかねなかった。
「別にふざけてないぜ?」
ヴェイルは大鎌の石突きを地面へ突き立てた。
「主からは、一人だけ相手にしろと言われてる。だから一人は通す。残った一人の命までは保証しないがな」
「大した自信ですね」
レイの周囲で金色の魔力が迸る。
「別に自惚れてはいない。一対一なら負ける気がしないだけだ」
ヴェイルが大鎌を振り回し、刃をレイへ向けた。
「それを自惚れと言うのです!」
レイが地面を蹴る。
金色の閃光となり、ヴェイルの左側へ一瞬で回り込んだ。
振り抜かれた魔力刃が、黒い装甲の脇腹を狙う。
「おっと!」
ヴェイルは大鎌の柄で斬撃を受け流し、刃を支点に身体を跳ね上げた。
空中で一回転。
鎌の刃が、レイの背後から首元へ迫る。
レイは身体を沈めて回避し、そのまま足元を払うように魔力刃を薙いだ。
ヴェイルは翼を噴射して後方へ滑り、数本の木を縫うように距離を取る。
互いの刃が一度交わっただけで、周囲の木々へ鋭い切断痕が走った。
刃が届き、受け流され、すぐに別の方向から返ってくる。その応酬を、いろはは近い場所で見ていた。レイの速さを知っていても、安心して眺めていられる戦いではない。切断痕の残った木々が、ほんの一度の交錯に込められていた力を伝えていた。
「速いねえ、金髪の姉ちゃん」
「まだ始まったばかりです!」
レイが再び加速する。
「いろは、行って!」
すれ違いざま、レイが叫んだ。
「そして、ハチを迎えに行ってください!」
いろはは一瞬だけ迷い、強く頷いた。
ここでレイに任せることは、何も心配せずに立ち去ることではなかった。信じて、自分にしか進めない方へ向かう。足りないものを補い合うとバティオスへ告げた言葉が、いろはの胸へ戻ってきた。レイが作ってくれた道を、ためらい続けることで閉ざしてはいけなかった。
「分かった! 無茶しないでね、レイちゃん!」
「はい。私も、すぐ後から行きます!」
ヴェイルは約束どおり、いろはを追わなかった。
その代わり、大鎌を回転させて金色の斬撃を弾き、正面のレイだけを見据える。
「さあ、始めようぜ。どっちが先に倒れるか――死神と鬼ごっこだ!」
黒と金の魔力光が、森の中で激突した。
ぶつかり合う魔力の気配を背に、いろはは森の奥へ意識を向けた。すぐ後から来ると言ってくれた声を、胸に留める。先へ進む役目を任されたのだ。はちのもとへ辿り着き、今度こそ言葉を交わす。そのために、レイが送り出してくれた一歩を止めなかった。
◇
いろはが森の奥へ進むと、やがて木々の切れ間へ出た。
巨大樹の根が大地を覆い、木漏れ日が静かに降り注いでいる。
あの日と同じ場所。
かつて、いろはが初めてはちを見つけた場所。
その中央には、二人の少女が立っていた。
腰まで届く灰黒色の髪。
幼い身体を包む、暗色のバリアジャケット。
はちは逃げることなく、いろはが来るのを待っていた。
探していた姿が、木漏れ日の下にあった。灰黒色の髪も、小さな身体も、記憶と重なる。それなのに、近づけばすぐ笑ってくれるとは思えない。待っていてくれたという事実を受け止めながら、いろははその表情を見た。会いたいと願っていた相手が、確かに目の前にいる。
その半歩後ろには、人の姿となったステラが寄り添っている。
ステラは口を挟まず、ただ、はちといろはの双方を静かに見守っていた。
「やっと来ましたか……」
「ハチちゃん……」
いろはは地上へ降り立った。
今すぐ駆け寄りたい。
抱き締めて、二度と離さないと伝えたい。
だが、はちの瞳に宿る悲しみが、その足を止めた。
差し出したい腕を、その場に留める。自分が抱き締めたいからといって、はちが受け入れられるとは限らなかった。信じた後で、また裏切られることが怖いのだと聞いている。その怖さを置き去りにして距離を詰めれば、また、あの子の気持ちを聞かずに動くことになってしまう。
どちらも、すぐには言葉を発せなかった。
木々のざわめきだけが、二人の間を通り過ぎていく。
呼んだ名の余韻が消えても、言葉が続かない。ここへ来るまで何度も考えたはずの思いが、目の前の顔を見た途端、一度に胸へ押し寄せた。はちもまた、すぐには口を開かなかった。いろははその沈黙から逃げずに立っていた。急がせず、今そこにいる相手と向き合うために。
いろはとはち。
二人はすべての始まりの森で再び向き合い、長い沈黙の中で互いの出方を待っていた。
――第26話 END――




