第16話 次元神プログラム
次元の裂け目に飲み込まれてから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
数分か、それとも数時間か。
時間の感覚さえ失いかけた頃、安藤はちはゆっくりと意識を取り戻した。
「ここは……」
身体を起こし、周囲を見渡す。
地面も空もない。上下の区別さえ曖昧な空間に、赤、青、黄、緑――無数の色が溶け合った光が、歪んだ帯となって流れている。
光を目で追っても、距離を測る手掛かりがなかった。近くを通っているのか、遠くを流れているのかさえ、はっきりしない。はちは視線を動かし、見知った森の色を探しかけた。けれど、どこを向いても、戻る先を示すものは見つからなかった。
どこまでも続く、七色の虚空。
はちには、それが何なのか分かった。
「次元の狭間……」
世界と世界の間に存在する、どの世界にも属さない空間。
試しに左腕のSIAへ意識を向ける。しかし、シアからの応答はない。カードを呼び出そうとしても、指先には小さな光すら宿らなかった。
いつもなら返事の届くところへ意識を向けても、何も返ってこない。その静けさが、見慣れない景色よりも、はちを不安にした。手元を見直す。呼びかけに応える相手がいるという、当たり前になっていた感覚まで、ここでは遠かった。
魔法が、使えない。
これではアリアも、セレスティアたちも呼び出せない。
誰にも助けを求められない、本当の孤独だった。
「自分は……ここで、また死ぬのかな……」
こぼれた声は、七色の闇へ吸い込まれていく。
ガーディアンに追われ、いろはとレイにも信じてもらえず、やっと手に入るはずだった家族まで失った。
二人の声が、まだ記憶の中に残っていた。姿は見えず、声ももう届かないのに、疑われた時の言葉だけは思い出せる。明日の暮らしを思い浮かべていた自分から、どれほど離れてしまったのだろう。はちは、それを数えることもやめていた。
もう、立ち上がる理由すら見つからなかった。
「もういいや……なんだか、疲れた……」
はちは力を抜き、静かに目を閉じようとした。
その時だった。
遠くに、一つだけ白い光が灯った。
「……?」
光は次元の流れに逆らい、一直線にはちへ近づいてくる。やがて目の前で止まると、その内側から小さな機械装置が姿を現した。
流れていく色の中で、その白さだけが、はっきりと目に入った。こちらへ向かっていると分かる動きに、はちの視線が留まる。逃れるためでも、呼び止めるためでもなく、ただ近づいてくるものを見続けた。やがて、その輪郭が目の前で確かな形を持った。
「これは……デバイス?」
見覚えがあるような、不思議な感覚があった。
自分のために用意されていながら、これまでどこにも存在しなかったもの。それが長い時を越え、ようやく契約者の前へ現れた――そんな感覚だ。
機械的な声が、虚空に響く。
『パスワードを入力してください』
「パスワード……?」
なぜ契約前の装置が、自分にそれを求めるのか。
けれど、はちの内側には転生時に与えられた全世界の知識がある。未知の装置を前にしても、その構造と答えは自然に頭へ浮かんできた。
誰かから教えられた記憶を辿ったのではなかった。装置へ目を向けると、知るべきことが内側へ結びついてくる。はちはその感覚を確かめながら、求められた言葉へ意識を向けた。声を出す理由が、再び、目の前に出来ていた。
「パスワードは――アンリ・マユ」
『パスワードを確認しました。契約者の照合及び、リンカーコアとの適合処理を開始します』
「えっ?」
胸の奥から、淡い光が引き出される。
はちのリンカーコア。その光の一部が糸のように伸び、デバイスの中へ吸収されていった。
痛みはない。ただ、自分という存在の最も深い部分を覗かれているような、奇妙な感覚だけが残る。
はちは、光の伸びていく先を見つめていた。身体から離れていくものがあるのに、痛みとしては届かない。何が行われているのかを知識で受け止めながらも、その感覚だけは、今初めて自分に起きていることだった。
『リンカーコアの適合調整中――調整完了』
短い沈黙の後、デバイスが告げた。
『契約者、金城享司。登録内容に間違いはありませんか?』
忘れたことなど、一度もない名前だった。
転生する前、自分が生きていた証。
その名前で呼ばれていた時間は、消えたわけではない。覚えているものも、失ったものも、はちの内側に残っている。それでも、今ここで返す名前は別にあった。この世界で呼ばれ、返事をしてきた名前を、はちは選ぼうとしていた。
それでも、今の自分が名乗るべき名前は決まっている。
「いいえ。安藤はちでお願いします」
『情報を修正中――修正完了。契約者、安藤はちとして登録します』
デバイスが強く輝き、はちの手元へ静かに収まった。
登録された名前が声になって返ると、はちは手元へ目を落とした。応答がある。ただそれだけのことが、さっきまで何も返らなかった空間では、ずいぶん大きく感じられた。光の中にある装置を、確かめるように見つめる。
『私の名称を登録し、セットアップを命じてください』
「名前……」
はちは手の中の光を見つめる。
世界と世界の狭間で見つけた、星のような小さな光。
見渡しても帰る場所の見つからなかった空間で、この小さな光だけが、はちのすぐそばにあった。何と呼べばいいのかを考えると、視線は自然にその明るさへ戻っていく。はちはしばらく眺めてから、浮かんだ響きを口にした。
「ステラ」
その名が、自然と口からこぼれた。
「君の名前は、ステラです」
『名称、ステラ。登録完了しました。セットアップへ移行します』
次の瞬間、ステラから放たれた光が、はちの全身を包み込んだ。
「どうして……?」
ここでは魔法を使えないはずだった。
だがステラは、通常の魔法体系によるデバイスではない。人為的に組み上げられた、契約者を神に近い領域へ接続するための機構だった。
使えなかった魔法と、今ここで働き始めた機構。その違いを、はちは理解しようとした。手元に収まったものが、どこへ繋がるのか。はちは光に包まれたまま、続いて告げられる声へ耳を向けた。
『次元神プログラム――起動します』
空間が震えた。
はちの目の前に、黒い亀裂が走る。それは瞬く間に大きく裂け、新たな次元の扉を形成した。
「わっ――うわああああっ!」
強烈な力に引かれ、はちの身体が亀裂へ吸い込まれる。
再び、意識は闇へ落ちた。
◇
風が頬を撫でていた。
草木の匂いと、鳥の声。
色だけが流れていた場所とは違い、聞こえる音にも、肌へ届くものにも馴染みがあった。はちはその感覚に引かれるように、意識を浮かび上がらせていく。周囲を確かめる前から、ここには何か生きているものがあると分かった。
はちはゆっくり目を開けた。
「ここは……」
見覚えのある森だった。
この世界へ来たばかりの自分が、いろはと初めて出会った場所。
「くっ……」
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
思い出してしまった。
いろはの怒った声を。レイの説得する言葉を。二人が、自分を犯人だと信じているように見えた、あの瞬間を。
懐かしいはずの景色が、つい先ほどの痛みまで連れ戻した。初めて会った日のことだけを、思い出せるわけではなかった。信じて向かった相手の顔と、そこで向けられた声が、木々の姿へ重なってしまう。はちは視線を落とした。
自分は二人を信じて姿を現した。
家族になれると思っていた。
失ったものを、ようやく取り戻せると思っていた。
なのに――ガーディアンの汚いやり方によって、また家族を失った。
「うっ……うう……」
涙が頬を伝い、地面へ落ちる。
どうして、こんなことになったのだろう。
この先には、幸せな日々が待っていたはずなのに。
その時、近くの茂みが小さく揺れた。
「キュッ……」
聞き覚えのある鳴き声に、はちは涙で濡れた顔を上げる。
一匹のリスが、木の陰からこちらを覗いていた。
見覚えのある大きな尻尾。警戒しながらも逃げず、はちの様子を窺う仕草。
向こうも、こちらを見ていた。茂みのそばにある小さな姿を確かめるうちに、はちの中へ、別の出会いの記憶が戻る。ここで目を覚まし、何も分からずに周りを見ていた時、最初にそばにいたものの姿だった。
この世界へ転生したばかりの頃、巨大な樹の根元で自分を起こし、アテナから受け取ったカードケースの場所まで案内してくれた、あのリスだった。
「もしかして……あの時の?」
「キュッ!」
リスは元気よく鳴くと、草の上を駆けてくる。
そして、はちのすぐ前で立ち止まった。一度だけ鼻先を動かし、においを確かめるようにはちの指へ触れる。
はちが震える手を差し出すと、リスは逃げなかった。
小さな前足をその指へ添え、慰めるように頬を寄せる。
差し出した手を、その小さな前足が受け止めている。はちは急に動かないように、指先の力を緩めた。言葉で説明を求められることも、疑いの目を向けられることもない。その近さを確かめるだけで、喉の奥が詰まった。
「覚えていてくれたんですね……」
はちはリスを傷つけないよう、そっと背中を撫でた。
温かな毛並みが指先に触れる。
何もかも失ったと思っていた自分を、この小さな命だけは疑わずに迎えてくれた。
「また、会えましたね……」
こらえていた涙が、もう一度あふれ出した。
目の前の小さな姿がぼやけ、はちは一度、瞬きをした。覚えていると確かめ合うための長い言葉はなかった。それでも、離れずにいてくれる温かさがある。撫でている手を止められないまま、はちはこぼれる涙を抑えようとした。
それは悲しみだけではなかった。
あの日に交わした何げない約束を、世界がまだ覚えていてくれたような気がした。
リスはしばらく、はちのそばを離れなかった。
だが――胸に刻まれた傷まで消えたわけではない。
人を信じたいという思いと、もう裏切られたくないという恐怖が、はちの中で激しくぶつかり合っていた。
戻ってきた温もりを感じるほど、ほかの相手にも同じものを望んでいたことを思い出す。信じたかった気持ちは、簡単にはなくならなかった。だからこそ、もう一度同じ痛みを受けるところを想像すると、それより先へ進めなくなってしまう。
それでも、もう人を信じることはできない。
信じられるのは、自分と精霊カードたちだけだ。
「見つけたぞ!」
突然、鋭い声が森へ響いた。
振り返ると、数名のガーディアン局員が杖型デバイスを構えている。
鋭い声に驚いたリスが、はちの足元へ身を寄せた。
はちはリスを庇うように一歩前へ出る。
足元へ寄ってきた小さな姿を、局員たちの前へ出したくはなかった。はちはその位置を確かめ、自分の身体を間へ入れた。先ほどまで触れていた毛並みの温かさが、まだ指先に残っている。その命を巻き込むつもりはなかった。
「安藤はち。無駄な抵抗はやめろ」
『マスター。排除しますか?』
ステラの平坦な声が、頭の中へ直接届く。
「殺してはいけません」
はちはしゃがみ、リスへ小さく微笑みかけた。
「大丈夫です。自分はもう、あの時みたいに何もできないわけではありませんから」
巨大な樹の方角を指し示す。
「ここから離れてください。また、いつか」
「キュッ……」
名残惜しそうに見上げてから、リスは茂みの奥へ駆けていった。
茂みへ消えていく姿を、はちは見届けた。呼び止めることはしなかった。もう少しそばにいてほしいという気持ちより、離れていてくれた方がいいという思いを選ぶ。最後に聞こえた小さな声を胸に残し、局員たちへ意識を戻した。
はちは涙を拭い、局員から背を向けた。
「無視しましょう」
ステラについては、契約を交わした時点で理解している。
もう、誰も自分を傷つけることはできない。
「貴様、逃げるつもりか!」
一人の局員が魔力弾を放った。
しかし、それがはちへ届くことはなかった。
目の前の空間が小さく歪み、魔力弾を丸ごと飲み込む。
直後、攻撃した局員のすぐ脇に別の裂け目が開いた。
ドォンッ!
「ぐあっ!」
送り返された自分自身の攻撃を至近距離で受け、局員は地面へ倒れ込んだ。
攻撃を放った場所のそばで、衝撃が響いた。はちは自分から局員へ向かうことなく、その音を聞いていた。先ほどまで届くことを怖れていた力が、今は、別の場所へ送り返されている。その変化を理解しても、喜びは顔に浮かばなかった。
次元神プログラムが与えた能力の一つ。
はちへ向けられた攻撃を自動で次元の狭間へ吸収し、攻撃者の間近へ転送する絶対反射。
致命傷にならないよう威力は抑えられている。それでも、避けるには攻撃直後の一瞬で反応しなければならない。
はちは倒れた局員へ視線を向けることなく、その場を離れた。
「これから……どうしよう……」
行く場所はない。
帰る場所も、もうない。
歩いていくことは出来る。それでも、その先で誰が待っているかを考えると、足の向け先が決まらない。戻れば迎えてもらえると思っていた場所は、もう、はちの中では帰る先になっていなかった。行く道だけが残っているようだった。
ならば――。
「まずは、自分の全てを奪ったガーディアンを……」
はちの足が止まった。
瞳から、幼い光が消えていく。
「潰すか……」
人を殺したいわけではない。
むしろ、全ての世界が平和になればいいと思っている。
けれど、その平和をガーディアンへ任せることは、もうできなかった。
正義を掲げながら、一人の子供を罠にはめる組織。証拠と命令さえあれば、大切な者まで疑わせてしまう仕組み。
そんなものが世界を守れるはずがない。
はちの考えは、自分へ向けられた命令から、それを通した組織へ移っていた。誰か一人の言葉を信じ直すだけでは、同じことがまた起きるかもしれない。傷ついた記憶と、その不安が結びつき、組織そのものをなくすという結論へ傾いていった。
いっそ、全世界を一つに統べてしまえばいい。
次元神プログラムを得た今、はちには見えてしまった。
世界は、自分が信じていたほど優しくない。
憎しみ、怒り、悲しみ、欲望。
無数の世界は――あまりにも多くの悪意に満ちている。
目の前の森だけを見ていた頃とは、受け止めるものの広さが違っていた。その一つ一つへ立ち止まって考える余裕を、はちは持てなかった。自分が受けた悪意の向こうに、ほかにも数え切れないものがある。その思いが、胸の痛みをさらに深くした。
◇
それから数時間が過ぎても、はちはガーディアンを倒す方法を考え続けていた。
正面から戦うだけでは意味がない。
組織を解体し、その後に混乱する世界まで抑えなければならない。そのためには情報を集め、技術を開発し、ガーディアンに対抗できる戦力を整える拠点が必要だった。
「ここに研究所を作るとしても……」
知識も技術もある。材料さえ揃えば、ほとんどのものを作れる。
だが、大規模な建物となれば話は別だ。一人で建設すれば、完成まで最低でも半年はかかる。
出来上がるまでの順番を考えると、必要な時間が見えてくる。知っているだけで、全ての作業が一度に終わるわけではない。はちはこれから手を動かす場所を思い浮かべ、そこへ自分一人を置いて考え直した。
「あと一人いればな……」
『いますよ』
「えっ?」
思わぬ返事に、はちは周囲を見渡した。
「どこにですか?」
『ここに』
「でも、ステラはデバイスでしょう?」
『少し待ってください。形態変更に伴い、思考プログラムも最適化されます』
ステラが強い光を放った。
小さな機械装置の輪郭がほどけ、光の粒子となって膨らんでいく。その中心から、ゆっくりと一人の少女が姿を現した。
機械装置だった輪郭を、はちは目で追っていた。光がほどけていった先に、今は目を合わせられる相手が立っている。声だけを聞いていた時とは違う距離に、はちは少し顔を上げ、その姿を確かめた。
肩まで伸びた茶色の髪。側頭部の髪は、狼の耳を思わせる形に跳ねている。赤い瞳はわずかに眠たげで、何を考えているのか読み取りにくい。
背丈ははちより少し高く、細身ながらも柔らかな輪郭を持っていた。
「これが……ステラの本当の姿?」
少女は小さく頷く。
「ステラは、ユニゾンデバイス。マスターの補助も、作業もできる」
「ユニゾンデバイスだったんですね……」
次元神プログラムは、はち自身の常識すら簡単に越えてくる。
助けが必要だと口にしたところへ、目の前から返事が来た。その相手が、実際に作業を共に出来るという。はちは今までの説明と、目の前に立つ姿を結びつけ、これからの手順をもう一度考えようとした。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「ステラ。できれば、その『マスター』はやめてくれませんか?」
以前、アリアにも同じことを頼んだ。どうにもその呼び方には慣れない。
「名前で呼んでほしいです」
「分かった。はち」
ステラはすぐに受け入れた。
名前が、ごく自然な声で返ってきた。頼んだことへ、ためらわず頷いてくれる。その短いやり取りのあと、はちの口元が、わずかに緩んだ。これから共に動く相手として、呼びかける名前と、呼ばれる名前が揃っていた。
「ありがとう」
これで作業する者は二人になった。
そして、もう一人。
はちは左腕へ視線を落とした。
「シア。起きていますね?」
沈黙していたSIAが、弱い光を放つ。
左腕の装置へ目を向けると、ようやく、馴染んだ応答の気配が戻ってきた。はちはその光を確かめたまま、返事を待つ。普段ならすぐ交わせる言葉が、今は互いの様子を探るためのもののように、間を置いて届いた。
『……はち様。何をするつもりですか?』
「ここに研究所を作ります」
はちは迷いなく答えた。
「そして、ガーディアンを潰します」
『私は反対です!』
シアの声が強くなる。
はちの迷いのなさとは違う強さで、その声が返ってきた。作業を手伝うかどうかより、これから何をするのかを、シアは問題にしている。はちは表示から目を逸らさず、その言葉を聞いていた。
『研究所を作ることには反対しません。ですが、ガーディアンにはいろはさんやレイさんたちもいます。はち様は、あの人たちと戦いたいのですか? それに、今のはち様の魔力値では――』
「シア」
はちは静かに言葉を遮った。
「今の自分の魔力ランクは、どれくらいですか?」
『確認します――』
しばらくして、シアの声が震えた。
『そんな……あり得ません。測定できません。上限値を設定しても、数値が収束しない……』
確認を待つ時間のあとにも、確かな数値は返ってこなかった。いつもなら状態を示してくれるシアの声に、戸惑いが混じっている。はちはそれを聞き、すでに自分の中にあった理解と、今返ってきた報告を重ねた。
「やっぱり」
はちはすでに理解していた。
次元神プログラムが与えた、もう一つの能力。
憎しみ、怒り、絶望、悲嘆――世界に生まれるあらゆる負の感情を次元を越えて吸収し、自らの力へ変換する機能。
負の感情が世界から消えない限り、はちの魔力は増え続ける。
その総量は、事実上の無限に等しかった。
「シアが反対するなら、協力を強制するつもりはありません」
『はち様……』
「嫌がる相手へ無理に命令すれば、自分もガーディアンと同じになりますから」
こちらへ反対する声を、命令で消してしまうことはしたくなかった。はちはシアを見たまま、言い終えた。ただし、相手の意思を認めることと、自分がやめることは、はちの中では、別のところへ置かれていた。
はちはステラへ向き直る。
「自分は、ステラと二人で研究所を作ります。シアがいろはさんたちと戦いたくないなら、それで構いません」
そして、冷えた声で続けた。
「ただし、ガーディアンを潰すことはやめません」
『お願いです、考え直してください! いろはさんたちだって、上層部に騙されていただけです!』
「分かっています」
『でしたら――』
「だからこそ、ガーディアンを信じられないのです」
二人が騙されていたと知れば、それで元の場所へ戻れるのか。はちには、その先にまた命令を出す組織が見えてしまった。顔を思い浮かべると痛む相手を、今度は守るためでもあるかのように、自分の結論へ結びつけていた。
大切な人たちが悪いのではない。
命令と偽りの証拠で、その人たちを操る組織がある。今度は別の誰かが、同じように傷つけられるかもしれない。
「ガーディアンさえなくなれば、世界はもっと平和になる。自分はそう確信しています」
『ですが、治安を維持する組織がなくなれば、犯罪は増えます』
「一時的には増えるでしょうね」
はちの答えに迷いはなかった。
「なら、犯罪が生まれる原因を一つずつ壊します。それでも人を傷つけようとする者には、二度と犯罪を起こす気になれないほどの恐怖を与えればいい」
それが正しい方法なのか、今のはちには判断できなかった。
シアの声が届いていないわけではなかった。それでも、奪われるかもしれないという怖さをなくすことが、今は何より先に立っていた。傷つけられた自分の記憶を出発点にして、はちは世界全体への答えを決めようとしていた。
ただ、もう二度と奪われたくなかった。
自分の幸せも、大切な者の未来も。
『はち様……』
シアは、それ以上何も言えずに黙り込んだ。
言葉が途切れたあとにも、反対が解けたわけではなかった。はちは静まった装置へ視線を留め、それから、次の作業へ意識を移す。シアから同意の言葉が来るのを待たずに、進むことを選んだ。
「話は終わりです。ステラ、研究所を作りましょう」
「分かった」
ステラは、ぼんやりとした赤い瞳ではちを見つめる。
「何があっても、ステラははちを裏切らない」
一度言葉を切り、静かに告げた。
「はちの敵は、ステラの敵」
「……ありがとう、ステラ」
今のはちには、裏切らないという一言が重かった。目の前に立つ相手が、はっきりそう告げてくれる。その声を受け取ると、ひとりで考えていた作業の先にも、もう一人の姿を思い浮かべられた。
こうして、はちとステラは人目につかない場所で研究所の建設を始めた。
全世界の知識と、尽きることのない魔力。
さらに、ユニゾンデバイスであるステラの補助。
本来なら半年を要するはずだった研究所は、わずか一か月で完成した。
考えたものが、少しずつ目の前で形になっていった。二人で進める作業の積み重ねが、人目を避けるための場所を、実際に使える研究所へ変えていく。完成した時にも、はちの意識は、そこで何を作るかという次の段階へ向いていた。
外部から発見されないよう次元干渉による隠蔽を施し、内部ではガーディアンへ対抗するための戦力を作り上げていく。
まだ動く時ではない。
今は力を蓄え、敵を知り、機会を待つ。
見つからない場所を得たことは、帰る家を取り戻したこととは違っていた。ここには、これから行う作業と、そのための時間がある。はちはその静けさの中で、自分が動く日を考えながら、今するべきことを選んでいった。
世界から見えない研究所の最深部で、はちは静かに目を閉じた。
「さあ……今は身を潜めましょう」
その瞳が、ゆっくりと開く。
「時が来るまで」
――第16話 END――




