第14話 崩れた信頼と、次元の裂け目
ガーディアン局員たちから逃げて、すでに数時間が経っていた。
俺が身を隠しているのは、アルカディアの街から離れた森の中だった。
街から離れても、追われているという感覚までは離れてくれなかった。聞こえた音へ顔を向け、動くものがあれば目で追う。見覚えのある景色に囲まれているのに、ここへ来れば安心だとは、もう思えなくなっていた。
以前、万が一に備えて作っておいた携帯転移ゲートを使い、追跡部隊より先にここまで移動したのだ。
ここは、俺が転生後に初めて目を覚ました森。
そして、いろはさんと初めて出会った場所でもある。
初めてここを見た時には、この先で誰と出会うかさえ知らなかった。その場所へ、今度は、知り合った人たちのいる街から逃げて戻っている。あの日へ帰れるわけではないことを、木々の間を眺めながら、何度も思い知らされた。
木々の隙間から差し込む午後の光は、あの日と変わらず穏やかだった。
けれど今の俺には、その静けさを感じる余裕などない。
「シア、何か情報を掴めましたか?」
俺は周囲を警戒しながら、左腕のSIAへ尋ねた。
隣にいるアリアの姿を支える魔力ディスクは、左腕の外側で展開を保っていた。見慣れた光をそばに感じながら、俺はシアの返事を待った。分からないままでいるより、何か一つでも知りたい。その思いだけで、声を落ち着かせていた。
『はい。はち様に対する逮捕状が正式に発行されていることを確認しました。ですが……』
シアの声が、そこでわずかに途切れる。
言葉が途切れたところで、俺は表示へ視線を落とした。調べても何も出なかった、という返事ではない。何かを見つけた上で、言いにくそうにしている。その短い間が、かえって、続きを待つ気持ちを重くした。
「何かあるのですか?」
嫌な予感がした。
おそらく、その先に続く言葉も予想できている。
『はい。この逮捕状を出したのは、ガーディアン上層部です』
「……やはり」
胸の奥が冷たくなる。
一般の局員や現場部隊が独断で動いているわけではない。
上層部そのものが、俺を捕らえようとしている。
廊下で説明を聞いてもらえなかった理由を、そこへ結びつけて考えてしまう。相手の行き違いを一つ訂正すれば済む話ではなかったのかもしれない。俺は聞いた言葉を頭の中で繰り返し、どこまでが仕組まれていたのかを考えた。
(ということは……俺の能力に気づかれたか)
SIAを修理し、改良したこと。
Spirit Legendsと連動するシステムを短期間で完成させたこと。
これまで隠してきた力の一端を、誰かに察知された可能性が高い。
知ってもらう相手を選び、渡す技術も分けてきた。それでも、作ったものや、短い時間で出来たことまでは、なかったことに出来ない。思い返す一つ一つが、今になって、こちらへ繋がる跡にも見えてしまった。
最悪なのは、いろはさんたちまで追跡任務に加わることだった。
(それだけは、あってほしくないな……)
いろはさんたちもつらいだろう。
そして――俺も、きっと耐えられない。
昨日の声を思い出すのは、簡単だった。これからも一緒にいたいと言ってくれた顔も、すぐ浮かぶ。その同じ人たちが、追ってくる側へ立つところだけは、どうしても考えたくなかった。会えば安心出来るはずの相手を、怖がりたくはなかった。
◇
天城いろはたちは、はちの捜索を始めてから数時間、アルカディア周辺を探し続けていた。
しかし、どこを捜しても手掛かりは見つからない。
場所を変えるたびに、今度こそと思う。けれど、確かめられるものは増えていかなかった。いろはは周囲へ目を向けたまま、呼べば返事がある距離に、はちがいてくれたらと思った。捜している間にも、時間だけは過ぎていた。
「これだけ捜しても、見つからないなんて……」
いろはは立ち止まり、苦しそうに息を吐いた。
(はちちゃん……何があったの?)
証拠として提示された映像。
ガーディアン局員から逃走したという事実。
それでも、はち本人から事情を聞くまでは何も決めつけたくなかった。
映像を見て驚いたことも、逃げたと聞いて不安になったことも、消えたわけではない。それでも、会って話すというところへ戻ろうとしていた。はちの声を、まだ何も聞けていない。そのことを忘れないよう、いろはは息を整えた。
『いろはさん! レイさん!』
その時、通信端末からノエル・アークスの声が響いた。
『はちさんの位置を特定しました』
「本当ですか、ノエルさん! どこですか?」
いろはは勢いよく顔を上げた。
『アルカディア郊外の森です。詳しい座標を送ります』
表示された場所を確認し、いろはは目を見開いた。
座標が、ただの目印ではなく、覚えている景色へ繋がった。あの森にいる。そう分かった瞬間、長く続いていた手掛かりのない捜索に、ようやく向かう先が出来た。いろはは表示を見直し、その位置を確かめた。
「よりによって、あそこなんだ……」
はちと初めて出会った場所。
いかにも、はちらしい選択だと思った。
「了解しました。直ちに向かいます」
「私も一緒に行きます」
隣にいたレイ・シルビアが、迷うことなく告げる。
レイの返事を聞き、いろはは隣を見た。自分だけで確かめに行くのではない。そのことに少し力を得ながら、もう一度森の方角へ顔を向ける。立ち止まっていた時間を取り戻すように、二人は先へ進もうとしていた。
「うん。行こう、レイ」
いろはは森の方角へ視線を向けた。
(はちちゃん……今、会いに行くから)
◇
その頃、俺は木の根元に座り、局員の魔力弾を受けた脚の手当てをしていた。
「痛っ……!」
包帯を巻こうと脚を動かした瞬間、鋭い痛みが走る。
目立った外傷はない。
だが、逃げる途中で無理をしたせいか、どうやら足首を挫いてしまったらしい。
少し動かそうとするだけで、次の動きをためらってしまう。脚を見ても、走れなくなった理由のすべてが目に見えるわけではなかった。俺は包帯へ向けていた手を止め、急いで済ませようとしていた気持ちを、ひとまず抑えた。
「はちちゃん、大丈夫ですか?」
アリアが心配そうに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫です……」
そう答えたものの、まともに走れる状態ではなかった。
大丈夫と口にしても、立ち上がって走り出せるわけではない。アリアの心配そうな顔を見ていると、それ以上は、うまく続けられなかった。これから逃げる必要があるのに、自分の足を頼りに出来ない。そのことが、考えをいっそう重くした。
(このままでは、捕まるのも時間の問題かな……)
これからどうすればいい。
幸い、この世界で使える預金カードは持っている。
用意してもらった資金には、ほとんど手をつけていない。このまま身を隠したとしても、成人するまで生活できる程度のお金は残っていた。
食べるものや寝る場所を探すための余裕は、残っているのかもしれない。そういう見通しを立てようとしても、胸は少しも軽くならなかった。お金のことを考え終えた先に、一緒に帰る相手のいない暮らしが浮かんでしまう。
けれど、本当に一人で逃げ続けるのか。
明日には、いろはさんたちの家族になるはずだったのに。
明日の予定を考える時には、隣にいる人たちの顔まで浮かんでいた。今は、どこで一日を終えるかさえ分からない。同じ明日のことを考えているのに、昨日とは、まるで違う場所へ立たされているようだった。
答えを出せずにいると、シアの声が響いた。
『はち様。こちらへ接近する魔力反応を二つ感知しました』
「……もう見つかったのですか?」
予想以上に早い。
『反応を照合します。これは……いろはさんとレイさんです』
知らない追跡部隊だと思っていた時とは、別の怖さが込み上げた。名前を聞いただけで、あんなに安心出来た相手なのに。俺はすぐに返事をすることが出来ず、顔を上げたまま、その二つの名前を胸の中で繰り返していた。
「…………」
乾いた笑いが漏れた。
「ははっ……最悪だ」
会いたくないわけではない。
本当は、誰よりも会いたかった。
だからこそ、二人が自分を捕まえるために来る可能性を考えると、胸が痛んだ。
声をかけたら、どんな顔で振り向くだろう。こちらの話を、最後まで聞いてくれるだろうか。昨日までは考えもしなかったことを、今は一つずつ確かめなければならない。会いたい気持ちが強いほど、違う返事が来るところを想像するのが怖かった。
「どうして、こんなことになるんだろう……シア……」
問いかけても、シアはすぐには答えなかった。
少しの沈黙の後、静かな声が返ってくる。
『……はち様のご命令を』
シアは、どうするべきかを代わりに決めてはくれなかった。逃げるにしても、会うにしても、選ぶのは俺だ。返ってきた静かな声を聞きながら、何を望んでいるのかを、ようやく自分へ問い直した。
逃げることはできるかもしれない。
けれど、俺はいろはさんたちを信じたかった。
もしかすると、二人は俺を捕らえに来たわけではないのかもしれない。
事情を説明すれば、分かってくれるかもしれない。
離れたまま二人の考えを想像し続けても、答えには辿り着けない。会えば傷つくかもしれない。それでも、まだ何も聞いていないうちに、こちらから信じるのをやめたくはなかった。俺はアリアへ顔を向け、言うべきことを決めた。
「行こう、アリア」
「はちちゃん……」
「いろはさんたちを信じます」
俺の言葉を聞き、アリアは心配そうにしながらもうなずいた。
アリアはすぐに明るい顔にはならなかった。それだけ、こちらのことを案じてくれているのだろう。それでも、俺が選んだことへ頷いてくれた。目の前にいる相手へ気持ちを伝えるところから、始めるしかなかった。
「分かりました」
「シア、セットアップ」
『了解』
左腕の腕時計型SIAが光り、その外側で円形の魔力ディスクが展開を保つ。
同時に、バリアジャケットが俺の身体を包んだ。
俺は右手中指の指輪型カードケースへ意識を向ける。
現れたカードを裏面のまま右手で受け取り、表向きに返して魔力ディスクへセットした。
「来てください――セレスティア!」
白い光が森を照らす。
光の中から姿を現したセレスティアは、負傷した俺を見て心配そうに顔を寄せた。
近づいてくる顔を見て、俺も少し身体の力を抜いた。ここまで逃げることばかり考えていたが、今は、会いに行くために手を借りたい。心配してくれる視線を受け止めながら、次に向かう場所を言葉にした。
「大丈夫です。いろはさんたちのところへ連れていってください」
セレスティアは静かにうなずき、俺を背へ乗せた。
背へ乗せてもらうと、自分で歩く時とは違う高さに景色が変わった。移動のことをセレスティアへ任せられる分だけ、二人と会った時のことを考えてしまう。俺は進む方を見たまま、伝えたい言葉を、もう一度胸の内で繰り返した。
アリアも付き添い、俺たちは二つの魔力反応が近づいてくる方角へ向かった。
揺れに脚をかばいながら、俺は進む先を見た。相手の名前は分かっている。会ったら何を伝えるかも、決まっているはずだった。何もしていない。その一言を聞いてもらえればと、声に出す前から、何度も考えていた。
◇
ノエルから送られた座標を頼りに、いろはとレイは森の奥へ進んでいた。
「この辺りのはずなんだけど……」
いろはは周囲を見回す。
ここは、はちと初めて出会った場所に近い。
忘れるはずがなかった。
あの日、空から見下ろした森の中に、小さな少女が立っていた。
あの時に見た小さな姿と、今捜している相手は、同じはちだった。初めて名前を交わした時には、この先も一緒にいるとは知らなかった。いろはは木々の間へ視線を巡らせ、今度も、そこにいる姿を見つけようとした。
「本当にはちちゃんらしいね。最初に出会った場所へ逃げてくるなんて……」
その時、上空から強い魔力反応が近づいてきた。
「何か来ます」
レイが空を見上げる。
枝葉の向こうから、巨大な白い翼が見えた。
「セレスティア……!」
ならば、そこにいるのは――。
白竜がゆっくりと高度を下げる。
その背には、脚を負傷したはちが乗っていた。
ようやく見つかった姿へ、いろはの目が留まった。遠くから確かめたかった相手が、今はこちらへ近づいている。胸に溜まっていたものが一度に動き、何から聞けばいいのか、考えていた言葉まで揺れ始めた。
「いろはさん……レイさん……」
はちは、今にも泣き出しそうな目で二人の名を呼んだ。
名前を呼ぶ声を聞いて、いろはは、今ここにいるのが捜していた相手なのだと、改めて実感した。画面の中に映っていた姿ではない。こちらを見て、自分たちへ呼びかけている。その顔へ、いろはの視線が留まった。
いろはの胸が締めつけられる。
ようやく見つけた。
あとは、何があったのか本人から聞かなければならない。
◇
セレスティアに地上へ降ろしてもらい、俺は痛む脚を庇いながら二人の前に立った。
地面へ足をつけると、そこから先を自分で支えなければならなかった。痛みに気を取られすぎないようにしながら、顔を上げる。やっと二人が目の前にいる。その顔を見た瞬間、考えていた説明を、早く伝えたいと思った。
「いろはさん……レイさん……」
二人とも、とても悲しそうな表情で俺を見ていた。
迎えに来てくれたのなら、そう言ってほしかった。けれど、二人とも、俺の顔を見て笑いはしなかった。何があったのかを知りたいのだろうと、自分へ言い聞かせる。寂しそうに見える理由まで、まだ決めつけたくなかった。
誤解を解かなければならない。
俺は何もしていない。
逮捕状は上層部が仕組んだもので、襲撃事件そのものにも心当たりがない。
そう伝えようと口を開く。
「いろはさん、あの――」
「どうして、こんなことをしたの?」
「えっ……」
言葉が止まった。
用意していた言葉が、口の中でほどけてしまった。説明を始める前に、もう、したことの理由を尋ねられている。何をしたと言われているのかを確かめようとして、俺はいろはさんの顔を見返した。
聞き間違いだと思った。
けれど、いろはさんは苦しそうな表情のまま、もう一度問いかけてくる。
「どうして、こんなことをしたの!」
その声には、悲しみと怒りが混じっていた。
叱られた声を聞いたことはある。心配させた後で、真剣に注意されたこともあった。けれど今は、その声が何へ向けられているのか分からない。覚えのない行動の理由を求められ、返すはずだった言葉が見つからなくなった。
(何で……?)
俺は何もしていない。
何を言われているのか分からない。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
ズキン――。
「一体、何を言っているのですか……?」
訳が分からないまま、二人へ尋ねる。
「ガーディアン局員から、証拠を見せてもらいました」
レイさんが携帯端末を取り出し、記録映像を表示した。
差し出された画面へ、俺は視線を落とした。二人が何を見て、ここへ来たのかを、今度はこちらも確かめる。説明をするために必要なものが、そこにあるのかもしれない。そう考えながら、再生された映像を見た。
そこに映っていたものを見た瞬間、俺は息を呑んだ。
「……っ!」
映像の中にいるのは、紛れもなく俺だった。
俺と同じ顔。
俺と同じ髪。
服装まで同じだ。
その姿が、ガーディアン局員を襲っている。
見知った自分の姿が、知らない出来事の中にいる。その違いを、俺は自分の記憶で確かめられた。こんなことはしていない。映像を見直しても、その答えは変わらない。けれど、画面から二人へ目を戻す時には、別の痛みが待っていた。
(なるほど……)
これを見たのなら、二人が疑うのも無理はない。
だが、映像に映っている俺以外の全ては作り物だった。
俺はあんな場所へ行ったことなどない。
当然、局員を襲ってもいない。
どこが違うのか、説明すればいいはずだった。作られた映像なのだと言って、その話を一緒に確かめてほしかった。そう思っているのに、最初に向けられた問いが、何度も頭へ戻る。どうして、という言葉が、まだ耳から離れなかった。
それでも――。
ズキン――。
(くそ……)
信じていた人に疑われることが、これほど胸に突き刺さるとは思わなかった。
二人へ会う前には、まだ、違う返事を期待出来ていた。ここへ来た理由を確かめれば、そのまま連れて帰ってもらえるかもしれないと思った。その期待が近かった分だけ、目の前の顔を見続けるのが苦しくなった。
今、目の前にいる二人は、俺を迎えに来た家族ではない。
容疑者を追ってきた、ガーディアン局員なのだ。
「それで……自分が犯人だと信じて、ここへ来たのですか?」
「はちちゃん、答えて!」
いろはさんの声が重なる。
俺の問いには、答えてくれなかった。
こちらが一番聞きたかったことだけが、言葉の間へ残った。信じてくれているのか。昨日と同じ気持ちで、俺を見ているのか。返事を待っているうちに、次の声が来る。そのたび、用意していた説明まで遠くへ押しやられていった。
(聞く耳を持ってくれないんだ……)
「はち。今なら、まだ間に合います」
レイさんが、一歩こちらへ近づく。
その言葉も、俺を完全に犯人だと決めつけた説得にしか聞こえなかった。
近づく足を見て、俺は身体を強張らせた。あと少し話せば分かってもらえると、自分へ言い続けていたはずだった。それなのに、その言葉からも、先に決められた答えを感じてしまう。もう何を言えばいいのか、分からなくなっていた。
駄目だ。
もう、我慢できない。
「どうして……」
頬を、熱いものが伝った。
ぽたっ、ぽたっと、涙が地面へ落ちる。
泣くつもりなどなかった。二人の前へ来る時には、事情を説明するつもりだった。それが出来ないまま、頬へ触れるものだけが増えていく。顔を上げていようとしても、目の前の姿が滲んで、うまく見えなくなってしまった。
「信じていたのに……」
俺の言葉に、いろはさんとレイさんが驚いた表情を浮かべる。
ああ、そうか。
ガーディアン上層部の欲望のために、俺はまた家族を失うのだ。
前の世界で失った家族。
ようやく、もう一度手に入ると思ったのに。
同じ家で朝を迎えるところまで、思い浮かべていた。ヴィリノも一緒に喜んでくれた。あの時間のことを思い出すたび、今の二人の声との違いが大きくなる。手が届くと思っていたものを、もう一度失う。その考えばかりが、胸の中へ残った。
(もういいや……)
(もう、誰も信じない……)
この世界には、前の世界のような悪意などないと信じていた。
けれど、それは俺の思い込みだった。
絶望と憎しみが、胸の奥からあふれ出す。
何が本当で、何を確かめればいいのかを、もう順番に考えられなかった。信じたかったという気持ちが、そのまま、信じたことへの痛みになっている。誰かへ助けを求めるために上げるはずの目で、俺は、ただ二人を見ていた。
俺は右手中指の指輪型カードケースへ意識を向け、一枚のカードを取り出した。
「来い……審判の竜……」
カードを裏面のまま右手で受け取り、表向きに返して魔力ディスクへセットする。
空気が震えた。
暗い光が渦を巻き、森を覆うほど巨大な竜が姿を現す。
見上げなければならないほどの大きな影が、頭上へ広がった。木々の間にあった穏やかな光とは違うものが、視界を満たしていく。自分が呼んだ竜だと分かっているのに、その大きさを落ち着いて確かめる気持ちは、もう残っていなかった。
『はち様、危険です! 現在の魔力値では、この精霊の維持には耐えられません!』
シアが必死に制止する。
「うるさい!!」
自分でも聞いたことのない、憎しみに満ちた声が出た。
その声が自分から出たことに、どこかで気づいていた。それでも、言い直そうとは思えなかった。危険だというシアの言葉より、目の前の二人へ向けた感情の方が大きくなり、ほかの声を聞こうとする気持ちまで押し流していた。
「はちちゃん!」
いろはさんが俺を呼ぶ。
「はち!」
レイさんの声も聞こえる。
(うるさい……)
今さら、何を言われても届かない。
「家族に……なれると思っていたのに……」
涙を流しながら、二人を睨む。
名前を呼ばれれば、顔を上げたくなる相手だった。昨日までは、その声がすぐそばにあれば、それだけで安心出来た。今は呼ばれるたび、さっきまでのやり取りが蘇る。何を返しても届かなかったという思いから、抜け出せなかった。
「また失った……」
審判の竜が、俺を見下ろした。
その瞳には、命令に逆らえない悲しみが浮かんでいるように見えた。
こちらを見下ろす竜の顔が、視界に入っていた。その表情を見ても、立ち止まって考え直す言葉は浮かばない。自分が何を失ったと感じているかだけで、頭の中はいっぱいになっていた。俺はそのまま、命令を口にした。
「審判の竜……全てを破壊して……」
竜が力を解放しようと、翼を大きく広げる。
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!
大地が揺れた。
空間そのものが軋み、森の景色が不自然に歪み始める。
立っている地面だけでなく、目の前の木々の形まで揺らいで見えた。視線を動かしても、どこを見れば落ち着くのか分からない。自分へ向いていた声が、今度は周囲へ飛ぶ。その変化を、俺は遅れて受け止めた。
「次元震……!」
いろはさんが周囲を見渡し、警戒を促す。
「全員、気をつけて!」
「くっ……はち!」
レイさんが地面を蹴り、俺を支えようと手を伸ばした。
だが、その手が届くより早く――俺の背後の空間が裂けた。
伸ばされた手が、視界へ入っていた。けれど、そこへ向かって身体を動かす前に、背後から別の力がかかる。何が起きたのかを振り返って確かめる余裕さえなく、足元の感覚が、急に頼りなくなった。
「えっ……?」
黒い亀裂が一気に広がり、激しい吸引力が俺の身体を引き寄せる。
頭上で、集まりかけていた力が揺らいだ。
審判の竜が、こちらを向いていた。
広げた翼の間に膨らんでいた光が、ほどけていく。放つはずだった力を収め、巨体が大きく向きを変えた。いろはさんたちへ向いていた顔が、今は俺を追っている。
攻撃を続けろとも、助けてくれとも、俺は言えなかった。
「わふっ……!」
痛めた脚では踏ん張れない。
俺の身体は宙へ浮き、そのまま次元の裂け目へ吸い込まれていく。
地面が離れていく。立ち直そうとしても、脚は思ったように支えにならなかった。さっきまで目の前にいた二人の顔が、遠くなる。その距離の変化に、今度こそ、自分ではどうにも出来ないと分かった。
「はちちゃん!」
「はち!」
「うわああああっ――!」
二人の声が遠ざかる。
「はちちゃんっ!」
別の声が、すぐ近くでした。
アリアの手が伸びている。
その向こうで、白い翼が森の光を遮った。
呼ぶ声は、まだ聞こえていた。こちらから何か言い返そうとしても、うまく言葉にならない。誰の手がどこまで近づいたのかも、もう分からなかった。
次の瞬間、視界が闇に閉ざされ、俺は意識を失った。
◇
いろはが見たのは、はちへ向かって飛び込むアリアの背中だった。
裂け目の手前で止まる動きは、一度もなかった。
伸ばした指先の、その先にいるはちだけを追って、アリアは闇の向こうへ消えた。
「アリアさん――!」
呼び止める声に重なるように、セレスティアが翼を打った。
巻き上がった風に木々が揺れる。白竜は身を低くし、はちが消えた場所へ飛び込んでいく。いろはは腕を伸ばしたまま、その白い翼を目で追った。
頭上の影も、続いた。
審判の竜だった。
いろはは反射的にデバイスを上げかけた。だが、竜は彼女たちを見ていなかった。破壊のために集めた力は、もうない。はちが消えた裂け目へ向け、爪を伸ばしていた。
その腕が闇を越え、翼と尾が続く。
誰も、はちから新たな命令を受けてはいなかった。
三者は、はちを助けるために同じ道を追った。
だが、その先は世界と世界の狭間だった。
境界を越えた瞬間、召喚を支えていた魔法は効力を失った。伸ばされた手も、はちを包もうとした翼も、実体を保つことができない。
アリアも、セレスティアも、審判の竜も、その姿を失った。
意識のないはちへ、声はもう届かなかった。
◇
「はちちゃん!」
いろはは、なお裂け目へ手を伸ばした。
その向こうで何が起きたのかは、見えなかった。はちを追った三つの姿も、戻ってこない。
レイがすぐ隣へ踏み込む。
だが、二人の眼前で黒い亀裂は急速に細まり、伸ばした手が届く前に閉じた。
足元の揺れが止まった。
森の向こうに、午後の光が戻ってくる。
いろはは手を下ろせなかった。指先の向こうには、もう誰もいない。
最後に見た竜の爪は、自分たちへ向けられてはいなかった。
はちを助けようと伸ばされていた。
その姿だけが、目に焼きついて離れなかった。
ガーディアン上層部が仕掛けた冤罪。
それは、はちを手に入れるための偽りにすぎなかった。
だが、その偽りが引き金となり――やがて本当の事件を引き起こすことになる。
この時は、まだ誰も予測していなかった。
――第14話 END――




