第12話 託す贈り物と、新しい家族
俺がこの世界へ来てから、季節は巡り、もう春になった。
窓の外では、柔らかな風に揺られた花びらが、時折ひらひらと空を舞っている。
作業の合間に目をやると、光の中を横切る小さな影が見えた。花びらが視界から消えても、その先を少しだけ目で追ってしまう。季節が変わったことを、こうして眺める余裕も出来た。それなのに、今は、穏やかな景色を見ていると別のことまで思い出してしまう。
そして――AEGISが解散するまで、残された時間は一日を切っていた。
あと一か月だと思っていた時間が、もう、今日と明日のあいだに収まろうとしている。作業の予定を考える時にも、明日以降という言葉が、いつもより遠く感じられた。ここで過ごす一日の長さは変わらないはずなのに、目に入るものを、つい確かめ直してしまう。
いろはさんたちには、それぞれ新しい進路が決まっている。
解散後は皆が別々の道を歩み、新たな場所で役目を果たしていくのだろう。
喜ばしいことだと分かっている。
それでも、胸の奥にはどうしても消えてくれない寂しさがあった。
行き先が決まった人へ、困った顔を向けたいわけではなかった。それぞれがこれからする仕事を思えば、ちゃんと送り出したい。それでも、今までと同じ場所で名前を呼べる時間が終わるのだと思うと、素直に笑うまでに、少しだけ間が要った。
(これは俺の我が儘だけど……)
(もっと、いろはさんたちと一緒にいたかったな……)
「わふ……」
小さく漏れた声が、昼過ぎの技術室に溶けていく。
今日も俺は、作業台の前に立っていた。
皆の目に触れないところで装備を整え、必要なシステムを調整する。そんなふうにAEGISを支えられるのも、今日が最後になる。
手を伸ばせば道具があり、目の前には手を入れるべきものがある。この場所で過ごす時間にも、すっかり慣れていた。左腕の腕時計型SIAの外側には、隣にいるアリアの実体化を支える魔力ディスクが展開している。見慣れた光をそばに、俺は作業の続きを確かめた。
「寂しくなりますね」
隣にいたアリアが、いつもより静かな声で言った。
その表情にも、隠し切れない寂しさが浮かんでいる。
いつもなら、もっと明るい調子で声をかけてくる。今日は、その違いがはっきりと分かった。こちらを見た顔に、普段の笑顔を探しかけてから、俺はやめた。寂しいと思っているのは、自分だけではなかったらしい。
「そうですね……」
俺はうなずき、作業台へ視線を戻した。
ノエルさんには、これまで自分が伝えられる範囲でいろいろな技術を教えてきた。
もともと知識も観察力も優れている人だ。きっとこれから、もっと立派な技術者になっていくだろう。
分からないところへ目が向くと、納得するまで確かめようとしてくれる人だった。そういう姿を見ていると、伝えられることを選んで話す時間にも、自然と力が入った。作業台を前にして交わしたやり取りは、俺にとっても、ここで過ごした時間の一部になっていた。
そう考えながら最後の仕上げに取りかけようとした時、ふと一つの考えが浮かんだ。
「……そうだ♪」
顔を上げると、アリアが不思議そうに俺を見る。
「良いことを思いつきました。となると、善は急げですね」
皆がそれぞれ別の道へ進むのなら、その旅立ちを祝うものを贈ろう。
AEGISで過ごした時間を思い出せるような、俺にしか作れない記念品を。
ただ寂しい顔で見送るより、受け取って笑ってもらえるものがいい。手元へ残り、新しい場所でも思い出してもらえるもの。そう考え始めると、さっきまで作業台ばかり見ていた目にも、ようやく違うものが見えてきた。
驚いてくれるだろうか。
喜んでくれるだろうか。
自然と頬が緩む。
受け取った時にどんな顔をするかを考えると、手を動かすのが楽しみになる。渡す相手の顔を、一人ずつ思い浮かべた。大げさなお礼の言葉を上手に並べるより、俺には、こうして形を考える方が向いているのかもしれない。
何を用意するかは――渡す時までのお楽しみだ。
◇
情報を集めれば集めるほど、疑いは確信へと変わっていった。
報告を読む目は、以前と同じところへ何度も戻った。どこから、この技術が持ち込まれたのか。一つずつ繋がって見え始めた情報が、男の中にあった見立てを、さらに強くしていた。
近頃、AEGISからガーディアン内部へ複数の新技術が提供されている。
中でも目を引くのが、SIA展開機構のカスタムシステムだ。
現在急速に広まりつつあるカードゲーム『Spirit Legends』と連動し、カードを設置することで立体映像を展開する。遊戯用として提出されたものだが、その基礎技術は明らかに異常だった。
解析し、別の用途へ改良しようとした者もいた。
だが、中核部分には強固な保護処理が施され、誰一人として踏み込めなかった。
しかも、その保護処理は安藤はちが所持するSIAに施されたものと酷似している。
用途が違っても、簡単に触れられない部分が残されている。その似通い方を、偶然として片づけるつもりはなかった。男は記載を見比べ、自分が追っていた少女へ、改めて意識を向けた。
やはり、あの娘には何かある。
表向きには、AEGIS技術担当のノエル・アークスが開発したことになっている。
しかし、調べればおかしな点はいくらでも見つかった。
この規模のシステムを一から構築するなら、参考となる技術があったとしても最低三年は必要だ。それほど膨大なデータを含む技術が、短期間に、しかも複数提案されている。
提出された成果だけを眺めれば、優れた技術の提供で済むのだろう。だが、それが出来上がるまでの時間を考えれば、話は変わる。男は短期間という点を読み流さず、開発者の名を確かめ直した。
ノエル・アークス一人の成果だとは考えにくい。
さらに調査を進めた結果、ようやく一つの事実へたどり着いた。
あのシステムを作ったのは、ノエル・アークスではない。
安藤はちだ。
保護された少女として記されていた名前が、今は、技術の出どころを示すものとして目に入る。名前を見つめる時間は短くなかった。分からない部分を残していても、その中心に誰がいるかについて、男はもう疑おうとしなかった。
なぜ、あの娘の名を隠すような回りくどい真似をしたのか。それはまだ分からない。
だが、明日になれば本人の口から聞き出せる。
少々強引ではあるが、必要な口実は昨日のうちに完成させてある。
必要なのは、調べた内容をさらに積み重ねることではなくなっていた。本人へ辿り着くための理由は、すでに用意されている。男の考えは、報告書の向こうにあるものから、明日という一日へ移っていった。
AEGISの解散後なら、連中も今までどおり彼女を守ることはできない。
これまで妨げになっていた保護の体制にも、区切りが来る。その一点を、男は自分に都合よく確かめていた。少女にとってその区切りが何を意味するのかより、自分が動ける機会になることの方が、今は重要だった。
明日が楽しみだ。
◇
記念品の準備を終えた俺は、人数分の小箱を抱えて隊長室へ向かった。
それぞれの箱はリボンで結び、受け取る人の名前を書いてある。
抱えていると、重なった箱が少しだけ腕の中で動いた。落とさないように持ち直し、上から見える名前を確かめる。中身を準備する時よりも、こうして届ける時の方が、どうやら緊張するらしい。
(おめでとうございます、かえでさん)
(皆さんの中で、最初に驚く役はかえでさんですよ)
そんなことを考えながら扉の前に立ち、軽くノックする。
「失礼します」
返事を確認して中へ入ると、机で書類を整理していたかえでさんが顔を上げた。
書類から顔を上げたかえでさんの目が、俺の抱えたものへ動いた。いつもなら作業や提案の話になるところだが、今日は少し違う。何を持ってきたのか分からない、その顔を見ていると、こちらまで笑みを抑えにくくなった。
「どうしたん、はち?」
突然の訪問が珍しかったのか、少し驚いた顔をしている。
「はい♪ 実は、かえでさんたちに渡したいものがありまして」
「うちらに?」
「明日でAEGISは解散ですから。皆さんの新しい旅立ちを祈って、自分から記念品を贈ろうと思ったんです」
ここで過ごしている間、皆には本当にお世話になった。
今の俺に返せるものがあるのなら、何か形にして渡したかった。
名前を呼んでもらったことも、話を聞いてもらったことも、忘れていない。贈り物を一つ渡したくらいで返し切れるとは思わない。それでも、ありがとうという気持ちを、今のうちに手渡しておきたかった。
かえでさんは一瞬目を丸くした後、柔らかく笑った。
「そうなんか……ありがとうな、はち」
「いえいえ。それと、皆さんを驚かせたいので、ほかの箱は明日、落ち着いた時に渡してもらえますか?」
俺は、名前を書いた小箱をまとめて差し出した。
渡す直前、箱の間へ添えていた指を、少しだけ引いた。手元から離れると、並べていた時より小さく見える。かえでさんの腕へ移っていくのを見ながら、俺は明日、ほかの人が受け取るところまで想像していた。
かえでさんは受け取った箱を眺め、その中から自分の名前が書かれたものを持ち上げる。
「ほな、うちの箱は今開けてもええんか?」
「はい♪ もちろんです」
今回の計画には、かえでさんの協力が必要だ。
リボンを解き、ふたを開けたかえでさんが首を傾げた。
結ばれていたリボンがほどけ、ふたが持ち上がる。かえでさんの目が箱の中へ向いたところで、俺もつい息を止めた。驚くところを見たいと思って持ってきたのに、その反応を待つ間は、妙に落ち着かなかった。
箱の中に入っているのは、一枚のカードに対応した腕時計型の小型召喚端末。そして、一枚の精霊カードだった。
箱の中へ収まる大きさの端末を、かえでさんは不思議そうに見ている。俺は視線をカードへ移し、それから、受け取った人の顔を見た。ここからは、言葉で説明するより、会ってもらう方が早かった。
「何や、これ?」
「一枚のカード専用に調整した小型召喚端末です。腕に着けてから、そのカードをセットしてみてください」
「こうか?」
かえでさんが端末を腕に着ける。
起動すると、その外側に円形の魔法ディスクが投影された。
かえでさんはカードの裏面を手にしたまま、表向きに返して投影ディスクへセットする。
裏向きに持っていたカードを返す、短い動きを目で追った。腕の外側へ投影された円形ディスクの上へ、カードが表向きに収まる。かえでさんがその先の反応を待つ間、俺も目を離さずにいた。
直後、端末が淡い光を放った。
光は床の上へ降り注ぎ、一人の少女の姿を形作っていく。
床へ集まった光の中に、輪郭が現れ、やがて一人の姿になる。贈り物として持ってきたものが、今は、目の前の相手へ挨拶をするために立っている。その様子を見ながら、俺は口を挟まず、最初の声を待った。
「初めまして♪ かえでちゃん。私はフレイヤといいます」
現れたフレイヤが、楽しそうに笑って挨拶する。
かえでさんは目の前の光景に固まり、それから慌ててカードとフレイヤを見比べた。
目が合う相手が増えたことを、まだ飲み込み切れていない顔だった。カードを見て、フレイヤを見て、またカードへ目を戻す。その反応を見ているうちに、俺の方にも、ようやく実感が湧いてきた。ちゃんと、ここまで届けられたのだ。
「まさか……精霊カードなん?」
「はい、そうです」
「あかん!」
返事を聞くなり、かえでさんは端末とカードを俺へ返そうとした。
「精霊カードは、はちの大切なもんやろ? そんな大事なもの、受け取るわけにはいかへん!」
精霊カードだと知って、俺の大切なものを心配してくれたことに、胸が少し温かくなった。だから、この人へ渡したかった。かえでさんの慌てた顔を見ても、選んだ相手を間違えたとは、少しも思わなかった。
「良いんです」
俺は返されそうになった箱を、そっと押し戻した。
「でも――」
「かえでさんたちだから、良いんです」
俺はかえでさんと、その傍らに立つフレイヤを見る。
受け取る相手だけを見て決めたわけではない。フレイヤも、今この場所に立ち、こちらの話を聞いている。俺は二人の顔を見比べてから、何のために持ってきたのかを、改めて言葉にした。
「皆さんなら、この子たちを大切にしてくれる。そう思ったから託したいんです」
「どうして、そう思うん?」
「かえでさんが普段使っているカードを見れば分かります。どのカードも、ずっと大切に扱っていますから」
カードは、持ち主がどのように向き合っているのかをよく知っている。
対戦が終わってからも、カードを揃える手は丁寧だった。勝った時だけ大切にするわけでも、思いどおりにならなかったからと雑に扱うわけでもない。向かいに座っていた俺には、そういうところを見る時間が、いくつもあった。
「それに、フレイヤもかえでさんのところへ行きたがっていました。忙しいかえでさんを、傍で応援したいそうです」
「はい♪」
フレイヤが大きくうなずく。
俺の説明を待っていただけの顔ではなかった。自分でも伝えたいと分かる頷き方に、かえでさんの視線が留まる。フレイヤがここへ来たいと思っていたことも、きっと、その顔から伝わるはずだった。
かえでさんは、しばらく言葉を失っていた。
やがて目元をわずかに潤ませ、フレイヤへ笑顔を向ける。
「ほな……ありがたく受け取らせてもらうな」
そして、大切そうにカードを胸元へ寄せた。
かえでさんの手の中で、カードはそっと支えられていた。外側の円形ディスクも、フレイヤがそばにいる間は光を保っている。俺はその様子を見て、返されかけた時に少し上がった肩を、ゆっくり下ろした。
「フレイヤ。これから、よろしゅうな♪」
「はい♪ よろしくお願いします」
二人の様子を見届けた俺は、ほっと息をついた。
かえでさんの呼びかけに、フレイヤが答える。俺が説明を挟まなくても、もう二人の間で言葉が交わされていた。これからは、こういうやり取りが、俺のいないところでも続いていくのだろう。そう思うと、送り出す寂しさより先に、嬉しさが込み上げてきた。
最初の贈り物は、どうやら成功したらしい。
◇
隊長室を後にした俺は、皆で使っている部屋へ戻った。
箱を抱えていた時より、腕の中は軽くなっていた。届けるところまで出来たのだと思うと、安心する。けれど、部屋へ戻ると、その安心とは別のところに、まだ答えの出ていない考えが残っていた。
記念品を渡す役目はかえでさんに任せたものの、俺の頭の中からは別の問題が離れてくれない。
AEGISが解散した後、自分はどうすればいいのだろう。
「本当に、どうしようかな……」
床に座り、ヴィリノの遊び相手をしながら思わずつぶやく。
ヴィリノに顔を向けながら、返す言葉だけが少し遅れた。今ここで過ごしている時間は、いつもと同じように流れている。そのすぐ先に、自分がどこで暮らすかという話があることを、どうしても忘れられなかった。
ヴィリノが俺の顔を不思議そうに見た、その時だった。
「ただいま」
「ただいま帰りました」
部屋の扉が開き、いろはさんとレイさんが帰ってくる。
ヴィリノはすぐに立ち上がり、二人のもとへ駆けていった。
立ち上がる姿を、床に座ったまま目で追った。二人が帰ってきたと分かった瞬間に、迷わず駆けていく。その自然な喜び方を見ていると、俺まで少し笑顔になる。帰ってきた相手を迎えられることは、やはり嬉しかった。
「お帰りなさい~、いろはママ! レイママ!」
「お帰りなさい、いろはさん、レイさん!」
俺もつられるように二人を迎える。
けれど、胸の中では先ほどの悩みが渦巻いたままだった。
お帰りなさいとは、いつもと同じように言えたつもりだった。二人の顔を見て、安心もした。それなのに、さっきまで考えていた行き先のことが、そのまま胸の中へ戻ってきてしまう。
どうしよう。
どこへ行けばいいのだろう。
「何か考えごと?」
「わふ?」
いろはさんは、俺の小さな変化を見逃さなかった。
隠そうとしていたつもりが、返事をする前に見つかってしまった。そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。こちらを見る目が優しい分だけ、笑って誤魔化す言葉を探すのも難しかった。
(鋭いですよ、いろはさん……)
「はい……AEGISが解散したら、自分はどうしようかなと思いまして」
答えると、いろはさんとレイさんは顔を見合わせ、小さくうなずいた。
二人の視線が行き交うところを、俺は少し不安な気持ちで見ていた。困らせることを言ってしまっただろうか。そう思いかけた時には、もう二人はこちらへ向き直っていた。
それから二人そろって俺の前まで来る。
「実はね、はちちゃんに話があるの」
「わふ? 何ですか?」
「はちちゃんを、うちで引き取りたいと思っているんだけど……駄目かな?」
「はい?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
引き取りたい。その言葉だけが、頭の中でもう一度響いた。どこへ行けばいいのかを考えていたところへ、思いもよらない方から返事が来たようだった。聞き間違いではないかと確かめたくて、俺はいろはさんの顔を見た。
俺が固まっていると、レイさんが穏やかな声で続ける。
「いろはとずっと相談していたんです。はちにはご両親がいなくて、元の世界へ帰る方法もまだ見つかっていないでしょう?」
レイさんは俺と同じ高さになるように膝を折った。
見上げていた顔が、近くへ来る。レイさんは俺の目を見て、続きを待ってくれていた。こちらが黙ってしまっても、急いで話を終わらせようとはしない。その落ち着いた様子に、俺も少しずつ、聞こえた言葉を受け止め始めた。
「だから、私たちではちのことを支えたいと思っています。もちろん、はちが望んでくれるなら、ですけど」
「はちお姉ちゃん、ずっとここにいるの?」
ヴィリノが期待に満ちた目で、いろはさんを見上げる。
「はちちゃんが良ければね♪」
いろはさんはそう答え、改めて俺へ視線を向けた。
ヴィリノの期待に満ちた声も聞こえている。それでも、いろはさんは俺の返事を待ってくれていた。ここにいていいのかと、ずっと一人で考えていたのに、その答えには、俺自身の気持ちも入れていいらしい。
「どうしてですか……?」
うれしいはずなのに、すぐには信じられない。
嬉しいと思ったところへ、本当にいいのかという気持ちが重なった。世話をかけてきたことも、まだ話せていないことがあることも、次々と浮かんでくる。それでも、二人の声を疑いたいわけではなかった。どうしてそこまで思ってくれるのかを、ちゃんと聞きたかった。
「どうして、自分を引き取ろうと思ったんですか?」
「はちちゃん」
いろはさんの声は、どこまでも優しかった。
問い返しても、いろはさんは困った顔をしなかった。名前を呼ばれると、それだけで少し喉が詰まる。俺は何か言い足しかけて、やめた。二人が話そうとしてくれていることを、今度は最後まで聞こうと思った。
「一緒に過ごした時間は、長くないかもしれない。でも私はね、はちちゃんもヴィリノも、同じ家で笑って過ごす家族になれたら良いなって思っていたの」
「家族……」
それは、前の世界で失ったものだった。
もう一度手に入るなど、考えたこともない。
言葉の意味なら、知っているはずだった。けれど、今この場所で、自分へ向けて言われるとは思っていなかった。いろはさんの顔を見て、レイさんを見て、そばにいるヴィリノへも目を向ける。その間にも、家族という言葉が、胸の中でゆっくり形になっていった。
「家族……ですか?」
「うん。もちろん、嫌なら無理にとは言わないよ?」
「私たちも、はちとこれから先も一緒にいたいです」
レイさんも微笑む。
二人は同じ気持ちで、この話をしてくれている。ずっと相談していたという言葉を思い返すと、俺の知らないところで、自分のこれからを考えてくれた時間まで、急に身近に感じられた。
行く当てのない自分を心配しているだけではない。
二人は俺自身に、ここにいてほしいと言ってくれている。
それなら、断る理由なんてなかった。
もっと一緒にいたいと思うのは、俺だけなのだと思っていた。皆には次の場所があって、自分は、その邪魔をしないようにしなければならない。そればかり考えていたところへ、同じ願いを返してもらえた。俺はようやく、返事をするために息を吸った。
「分かりました……」
視界が少しだけ滲む。
二人の顔がぼやけるのを、何とか見失わないようにした。言いたいことは、初めから一つだったはずだ。寂しいとこぼす前から、この先も一緒にいたかった。その気持ちを、今なら、ちゃんと言葉にしてもいい。
「実を言うと、自分も……いろはさんたちと、もっと一緒にいたいと思っていました」
言い終えるより早く、いろはさんとレイさんの腕が俺を包んだ。
返事を聞いてから考えるというより、待っていたところへ迎えてくれたような早さだった。両側から腕が届き、さっきまで離れて見ていた顔が、すぐそばにある。俺は一度目を閉じ、それから、包まれていることを確かめるように、ゆっくり息をついた。
「わふ……」
暖かい。
すぐ傍から、二人の鼓動が聞こえる。
急いで何かを言い足さなくても、離れずにいてくれる。さっきまで、ここを出ていく自分を想像していたことが、今は少し遠くに感じられた。聞こえる音と、触れている腕の温かさが、考え事ばかりしていた俺を、この場所へ戻してくれた。
「これからもよろしくね、はちちゃん♪」
「これからもよろしくお願いします、はち♪」
ヴィリノも俺たちに抱きつき、うれしそうに笑った。
そばへ加わった気配に目を向けると、ヴィリノも嬉しそうだった。俺がここにいることを、一緒に喜んでくれる。その顔を見ているうちに、返事を待たせていた緊張も、少しずつほどけていった。
「はちお姉ちゃんも一緒!」
「はい……これからも、よろしくお願いします」
最後まで言えたあとで、俺はもう一度、小さく頷いた。帰る先が同じだというだけでなく、この先も一緒にいたいと思ってもらえている。胸に残り続けていた寂しさの中へ、ようやく、それとは違う気持ちが広がっていった。
正式に引き取るための手続きは、AEGISが解散した翌日に行われることになった。
まだ手続きはこれからだ。それでも、その予定が決まったことだけで、明日より先の時間を考えられた。何もないところへ放り出されるように感じていたのは、自分の不安だったのだと思う。二人と交わした言葉は、今はもう、はっきりと胸に残っていた。
新しい家族と歩む未来。
その時の俺は、ようやく見つけた居場所を失わずに済むのだと、心から安堵していた。
だから、まだ知らなかった。
AEGIS解散の日が――俺にとって最悪の一日になることを。
その時は、まだ誰も予測していなかった。
第12話 END




