第1話:高嶺の花は、隣の席で何度恋を知るか
体育館のパイプ椅子に腰掛けながら、僕は前方の壇上を見上げていた。
新入生代表挨拶。全校生徒が息を呑んで見つめるその中央に、彼女は立っていた。
白川・エリザベス・結衣。
白銀混じりの金髪が、春の午後の日差しを浴びて透き通るように輝いている。すらりと伸びた背筋、どこか凛とした気高さ。全校生徒から「氷の女王」と呼ばれ、誰もが遠くから眺めることしかできない——まさに、完璧な「高嶺の花」だった。
(……雲の上の人、ってこういう人のことを言うんだろうな)
同じ高校2年生だというのに、僕——高橋 陸とは住む世界が違いすぎた。
彼女の姿を見ていると、眩しすぎて胸の奥がキュッと締め付けられるような、言い知れない感情が湧き上がってくる。それが「憧れ」なのか何なのか、当時はまだよく分かっていなかった。ただ、自分とは一生交わることのない光だと思っていた。
だが、運命というものは残酷で、そして少しだけ悪趣味らしい。
新しいクラスの席順表を見た瞬間、僕は自分の目を疑った。
窓際の一番後ろ。特等席——の、すぐ隣。
そこにいたのは、すでに教科書を美しく整え、誰とも目を合わさずに冷たい空気を纏っている白川結衣その人だった。
「——何か用? 高橋くん」
席に着いた僕に気づき、彼女は氷のように冷たい蒼の瞳をほんの少しだけ向けた。
「あ、ううん、何でもない……よろしく、白川さん」
慌てて視線を逸らす僕に、彼女は「……ふん」と小さく鼻を鳴らして窓の外へと顔を背けてしまう。
周囲の男子から「おい陸、あそこの隣とか息できるのか……?」と怯えたような視線が向けられるが、僕の心臓は別の意味でバクバクと五月蝿かった。
あんなに遠くにいた人が、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離にいる。その事実だけで、胸が熱かった。あの壇上で見た気高さとは違う、すぐ隣に彼女の体温を感じる距離。見つめたいけれど、見つめれば彼女の冷たい視線が突き刺さる。そんな矛盾した空間が始まっていた。
だが、授業が始まってしばらく経った頃——。
カツ、カツ、とシャーペンの音が止まり、僕の机に小さなメモ用紙が滑り込んできた。
恐る恐る目を落とすと、そこには流麗な筆跡でこう書かれていた。
«Κοιτάξτε με»
……ギリシャ語だ。
意味は——『私を見なさいよ』。
ハッとして隣を見ると、結衣は相変わらず前を向いている。けれど、その白い耳たぶが、夕日のように真っ赤に染まっているのが見えてしまった。
(……なんで? どうして授業中にそんなことを……)
幼少期をアテネで過ごした僕——高橋陸は、周囲に隠しているが、ギリシャ語をネイティブレベルで完全に理解できる。だからこそ、彼女が放ったその言葉の奥にある、恥ずかしさと、どうしても自分を見てほしいという焦りが痛いほど伝わってきてしまった。凛とした生徒会長の顔の下に隠された、あまりにもピュアな焦燥感。
(まさか……いや、そんなはずない。あんな高嶺の花が、僕なんかを……)
高鳴る胸の鼓動を必死に抑え込みながら、僕は動揺をごまかすように前を向いた。
放課後。
西日が差し込む静まり返った教室。
「高橋くん。……どうして私の話を、あんなふうに遮ったの?」
ドアの鍵をカチリと閉め、結衣は震える声で振り返った。
その顔は、いつも学校で見せる「氷の女王」の仮面など綺麗に剥ぎ取られていて、ただの恋する不器用な女の子の顔になっていた。
「私を……私を、好きになってよ……!」
あまりにも真っ直ぐで、切なさに満ちた直球の告白。
胸が締め付けられた。彼女がどれだけの勇気を出して、この言葉を絞り出したのかが分かってしまうからだ。あの完璧な美少女が、自分のためにここまで震え、想いをぶつけてくれている。
けれど同時に、恐怖もあった。
こんなに美しくて、誰もが憧れる高嶺の花が、僕なんかを好きになるはずがない。きっとこれは何かの間違いだ。からかわれているんだ——。自分のちっぽけなプライドと不安が、僕の口を無理やり引っ張った。
「ご,ごめん……! 僕なんかじゃ、白川さんには釣り合わない……! 無理だよ!」
——言ってしまった。
瞬間、結衣の目からスッと色が消えた。
血の気が引いたように青ざめた顔で、彼女は自分の耳を疑うように数歩後じさる。教室では見せないような、あまりにもか弱い姿だった。
「……そう。私の想いは、あなたにとって『重荷』でしかなかったのね」
「あ、違うんだ、それは……」
「言い訳は聞かないわ!」
バン、と結衣が机を叩いた。
その目には、堪えきれなくなった大粒の涙が浮かんでいた。プライドの高さで武装しなければ保てないほど、彼女の心はズタズタに傷ついていた。
「私を振ったこと……絶対に後悔させてあげるんだから! 明日から毎日、生徒会室で……私からの、一番厳しい『お仕置き』を受けてもらうわ……っ!」
涙を必死にこらえながら、震える声でそう叫ぶと、結衣は背中を向け、開いた窓の方へ小さくうずくまった。震える肩が、彼女の必死の気高さを物語っていた。
そして、誰にも聞こえないと思ったのだろう。彼女は泣きじゃくりながら、震える声でポツリとギリシャ語を零した。
«Θεέ μου... γιατί είμαι τόσο άχρηστη...; Τον αγαπάω τόσο πολύ...»
(神様……どうして私はこんなにダメなんだろう……。こんなにも、大好きなのに……)
その言葉が、心臓を直接掴まれたように僕の胸に突き刺さった。
お仕置きだなんて言ってるけれど、本当はただ、彼女のそばにいたいだけなのだと——その震える背中がすべてを物語っていた。
(……くそっ。高嶺の花だからって逃げてたのは、彼女自身じゃなくて、傷つくのが怖かった僕自身だったんだ)
彼女の涙を見た瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れ去った。
冷や汗を拭いながら、僕は一歩、震える彼女の背中へと歩み寄る——。




