第97話『残したかった一瞬』
第97話『残したかった一瞬』
午後の授業が終わり、B組の教室ではあちこちで帰り支度が始まっていた。
玲奈は使った道具を片づけながら、机の下に転がった消しゴムを拾い上げる。
その横から、同じように鞄を閉じようとしていた学生が声を掛けてきた。
「玲奈、さっきの課題どうだった?」
「最後の方、手を描くのに時間かかっちゃった」
「ああ、分かる。指の向きが一つ違うだけで変になるよね」
「そうそう。直したら別の指が気になって」
「それ、終わらないやつだ」
相手が笑ったので、玲奈もつられて笑った。
教室の奥では、別の学生が忘れ物をしたと騒いでいる。
誰かが机の上を指さし、見つかったらしい声が上がった。
そんなやり取りを聞きながら上着を着ていると、隣の学生がまたこちらを向いた。
「今日、どっか寄ってく?」
「ううん、まっすぐ帰ろうかな。描きたいものがあるから」
「そっか。私も課題やらなきゃなあ」
「さっき終わったばかりなのにね」
「ほんと。じゃあ、また明日!」
「うん、また明日」
玲奈は鞄を持って教室を出た。
廊下には帰る学生たちの声が続いている。
階段を下りながら、今日は家でどこまで描けるだろうと考えた。
一月も、もう終わりに近い。
でも今は、先に手を入れたいところがはっきりしていた。
◇
家に帰り、夕食を済ませてから机に向かう。
玲奈はしまっていた応募作を広げ、その隣へクロッキー帳を置いた。
紙には、店先ですれ違う二人が描かれている。
紙袋を二つ持ち直そうとした人と、その横を通り過ぎようとした人。
以前は建物の線が目立ちすぎていたけれど、今は店の入り口と歩道が必要なところにだけ残っている。
二人の足の位置も、ようやく自分の中で落ち着いてきた。
残っていたのは、人物の描き足りないところだった。
玲奈は鉛筆を取り、紙袋を持つ人の服のしわを描き足した。
腕を上げたことで引っ張られる袖の線を確かめ、少し傾いた肩へつなげる。
通り過ぎる人の上着にも線を入れ、足元から顔の方へ目を移した。
顔にはまだ大まかな輪郭しかない。
せっかくだから、もう少し表情も分かるようにしてみよう。
そう思って二人の目元と顔の向きを描き込んだ。
何度か手を止めながら線を整え、少し離れたところから紙を見てみる。
(……あれ?)
さっきまでより二人の顔は分かりやすくなっている。
そのはずなのに、何となく気になる。
紙袋を持った人が横を向き、通る人もそちらへ顔を向けているように見えた。
これでは、二人がお互いを見ながら足を止めたようだった。
(こんな感じだったっけ)
玲奈は鉛筆を置き、あの日の店先を思い出した。
紙袋を持った人が肩を上げたところに、別の人が通りかかった。
通る人が少し歩幅を変え、袋を持った人も店の方へ半歩寄った。
二人が話したわけではないし、向き合っていたわけでもない。
ただ、それぞれが歩いていた場所で、ほんの少し体を動かした。
その姿が気になって、玲奈は足を止めたのだった。
いつの間にか、顔を描き込むことばかり考えていた。
「……そっちじゃないんだよね」
玲奈は小さく呟き、描いたばかりの顔を見つめた。
目元の線を薄くし、通り過ぎる人の顔を少し進行方向へ戻してみる。
紙袋を持った人も、横にいる相手を見るのではなく、手元を気にしているように向きを直した。
それから、二人の肩と足元を見比べる。
袋を持った腕が少し上がり、膝が店先の方へ向いている。
もう一人の足は、その前を抜けていく途中にある。
顔を細かく描くより、そちらの動きが見える方がいい。
玲奈は顔から手を離し、残っていた服の輪郭を整えた。
足元につながる歩道の線も、途切れていたところだけ描き足す。
店の入り口は、それ以上描き込まなかった。
しばらくして鉛筆を置くと、玲奈は椅子の背にもたれた。
机の上には、少し前までよりずっと描き進めた一枚がある。
それでも、近くで見れば気になる線はいくつも見つかりそうだった。
玲奈はすぐには描き直さず、隣に置いたクロッキー帳を開いた。
あの日、店の前で急いで描いた人の姿が残っている。
紙袋を持つ肩の傾きと、横を通ろうとする人の足。
線は少ないし、形だって今の絵ほど整っていない。
けれど、あの時に気になったところはすぐに分かった。
玲奈はクロッキー帳を横へ置き、応募作をもう一度眺める。
(……うん、ちゃんと残ってる)
店の入り口があって、そこから歩道が続いている。
その前では二人が、それぞれ別の方へ動こうとしていた。
誰かに見せるために特別な出来事を作ったわけではない。
ただ、あの短い時間に目を奪われたことを、絵にしたかった。
気になっていた部分を直した今、もう少し線を足そうかとも思う。
けれど、描きたいと思った動きは、もうこの中にある。
玲奈は鉛筆を持ち上げかけて、そのまま机へ置いた。
「……これでいいかな」
もう一度見ても、足元の半歩が目に入る。
玲奈は小さく頷いた。
ここで描き終えることにしよう。
あとは、コンクールへ出すためにやることを確かめなければならない。
一月の終わりまで、まだ落ち着けそうにはなかった。
玲奈は応募作を机の端へ丁寧に寄せ、クロッキー帳を閉じた。
何かを描き足そうと手を伸ばすことは、もうしなかった。




