第95話『最後の青』
第95話『最後の青』
午後の授業が終わると、ミオは机の上に広げていた道具を片づけ始めた。
今日の課題はどうにか終わったけれど、最後に塗ったところが少し気になっている。
明日もう一度見れば、また違って見えるかもしれない。
そう思いながら紙をしまっていると、隣から陽華の声がした。
「ミオちゃん、今日は帰って描くんだっけ?」
「はい。そろそろ仕上げたいので」
「そうだよね。もう一月も終わっちゃうし」
「陽華さんは終わったから、いいですよね」
「えっ、何が?」
「応募です」
「ああ、それはそうなんだけど……今日の課題、まだ直したいところがあるんだよね」
陽華が困ったように笑う。
ミオ自身も、今日の椅子の背もたれには苦戦した。
応募を済ませても、次の日にはまた別の絵に悩んでいる。
その様子が少しおかしくて、ミオも笑った。
「ミオさんは、もう仕上げに入ってるんですか?」
道具を鞄へしまっていた遥斗が顔を上げた。
「たぶん、そうです」
「たぶん?」
「描いてると、まだ増えるかもしれないので」
「それは分かります。俺もそうですし」
「遥斗さんは道の奥、どうなりました?」
「昨日よりはよくなったと思うんですけど、まだ気になるんですよね」
遥斗は少し笑って、自分の机の方を見た。
陽華は二人の話を聞きながら、鞄の留め具を閉じている。
「二人とも、頑張ってね」
「陽華さんも、明日の課題頑張ってください」
「もう、ミオちゃんまで!」
三人で笑ったあと、ミオは鞄を肩に掛けた。
家に帰ったら、昨日途中まで描いたところから始めよう。
そう決めて教室を出ると、廊下には帰り支度をする学生たちの声が広がっていた。
◇
夕食を終えて部屋へ戻ると、ミオは机の上に応募する絵を広げた。
窓の向こうに残る夕方の青と、店の中からこぼれる暖かな光。
ガラスに映る反射も、描き足したところが浮かないくらいには馴染んできた。
この前選んだ、小さな試し描きも隣に置いてある。
けれど今夜は、それを見比べて迷うつもりはなかった。
まだ色を置いていないところを確かめてから、ミオは筆を取った。
窓の端に残る暗い色を少し足し、光のそばを薄く整える。
一か所ずつ進めるうちに、最初は気になっていた白い部分が減っていった。
ただ、全部を同じように埋めてしまうと、絵が少し重たく見える。
ミオは手を止め、紙から顔を離した。
(ここは、残しておいた方がいいかな)
青の隣にある小さな余白だった。
色を塗り忘れたようにも見えるけれど、そこがあると周りの光が柔らかく見える。
ミオは筆を近づけてから、そっと戻した。
代わりに、少し離れた場所の境目を整える。
しばらく描いていると、今度は空の青が気になった。
窓の上の方だけ、ほかより少し明るい。
最初に描いた時はそれが気に入っていたのに、周りの色を重ねるうちに少し弱くなっていた。
「……もう少しだけ」
小さな紙で色を確かめ、青を作り直す。
暗くしすぎると夜になってしまう。
明るすぎれば、暖かな光が目立たなくなる。
ほんの少しだけ色を足し、紙を離して見る。
先ほどよりも、青が窓の奥へ続いているように見えた。
ミオはしばらくそのまま眺めていた。
初めてこの色を描いた時、思っていたより青が強くなった。
父に違う色を勧められて、描き直してみたこともある。
それでも最後に残したのは、自分が好きだと思った方だった。
(……これで、いいかな)
そう考えたあと、ミオはもう一度だけ首を傾げた。
まだ少し違う。
誰かに聞かれたから答えるのではなく、今の色を自分で選びたい。
ミオはもう一度紙を見る。
青の広がりも、窓の向こうの光も、今はどちらも気に入っていた。
筆を洗い、道具を机の端へ寄せる。
これで終わりにしようと思っても、手を伸ばせばまだ描き足せる。
実際、直したい場所を探そうとすれば、すぐに何か見つかりそうだった。
でも、そのたびに色を重ねていたら、いつまで経っても終わらない。
ミオは椅子から立ち上がり、少し離れたところから絵を見た。
外はもう暗い。
机の上の窓には、暗くなりきる前の空がまだ残っている。
その青の中に暖かな光があって、端には小さな反射も見える。
あの日、帰り道で足を止めて見たかったものが、そこにあった。
「……できた」
口に出してから、ミオは少し照れくさくなった。
応募すれば、この絵を知らない誰かが見る。
自分の名前を見て、前に描いた絵と比べる人もいるかもしれない。
そう考えると、今でも胸のあたりが落ち着かない。
それでも、今夜はそのことを考えて絵を直そうとは思わなかった。
自分で好きだと思った色を、好きなまま残せた。
ミオは隣に置いていた試し描きを片づけ、完成した一枚をもう一度眺めた。
明日からは、描くこととは別にやらなければならないことがある。
けれど今は、机の上に残った青を、もう少し見ていたかった。




