第94話『いつもどおりの朝』
第94話『いつもどおりの朝』
陽華は紙の上の椅子を見て、首をかしげた。
朝から描き始めた課題だったが、どうにも形がしっくりこない。
背もたれの角度は悪くないと思う。
座面の広さも、さっき直したばかりだ。
それなのに全体を見ると、どこか落ち着かなかった。
陽華は鉛筆を置き、目の前にある実物の椅子を眺めた。
それからもう一度、自分の紙へ目を戻す。
(……あ、脚が長いんだ)
手前に描いた一本だけが、ほかより少し下へ伸びている。
そこを消して描き直すと、今度は座面の傾きが気になった。
陽華は思わず小さく笑ってしまった。
昨日、コンクールへの応募を終えたばかりだというのに、今日は椅子一つに苦戦している。
「陽華さん、どうしたんですか?」
近くの席の学生が声を掛けてきた。
「この椅子、どうしても変な形になっちゃって」
「ああ、私もです。脚が一本だけ長くなって」
「同じだ」
「しかも直したら、今度は座るところが斜めになっちゃって」
「分かる! 私も今それ」
二人で笑い合い、互いの紙を少し見せ合った。
同じものを描いているのに、線の置き方は随分違う。
相手の紙にも描き直した跡があり、陽華は少し安心した。
「じゃあ、もう一回やってみようかな」
「私も。今度こそちゃんと座れる椅子にしたいです」
「今のだと座ったら転びそうだもんね」
再び笑ってから、陽華は鉛筆を持った。
応募作を描き終えたからといって、目の前の課題まで簡単になるわけではない。
でも、それで困ることもなかった。
今日もこうして描いて、違うと思ったら直せばいい。
陽華は椅子の座面から脚へ続く線を、もう一度引き直した。
◇
授業が一区切りつくと、教室の中に話し声が戻ってきた。
陽華は鉛筆を机に置き、描き直した椅子を少し離して眺めた。
最初よりはよくなったと思う。
それでも、まだ気になるところは残っている。
「陽華さん、昨日の応募はどうなりました?」
隣で道具を片づけていたミオが尋ねた。
「あ、そうそう。昨日、ちゃんと出せたよ」
「よかったです。お疲れさまでした」
「ありがとう。やっと全部終わったって感じ」
「絵が完成してからも大変そうでしたもんね」
「そうなの。確認することが結構あって」
話しているところへ、遥斗もやってきた。
「何の話ですか?」
「陽華さん、昨日応募できたそうですよ」
「あ、出したんですね。お疲れさまです」
「ありがとう。ようやくだよ」
「これで締め切りを気にしなくて済みますね」
「うん。そこはちょっと嬉しいかな」
陽華が笑うと、遥斗も頷いた。
その顔を見て、陽華はふと尋ねた。
「遥斗さんは、今日は残るの?」
「たぶん。昨日も少し描いてたんですけど、まだ気になるところがあって」
「あの道の絵?」
「はい。前よりはよくなったと思うんですけどね」
「そっか。ミオちゃんは?」
「私は家でやろうかなと思ってます。昨日の続きをもう少し」
「二人とも、あと少しだね」
言ってから、陽華は少し考えた。
自分はもう応募を終えているけれど、二人にはまだ描きたいところがある。
同じ締め切りでも、今どこまで進んでいるかはそれぞれ違う。
遥斗は道の奥をどう見せるか考えていて、ミオは青と暖かな光を描き続けている。
二人とも、自分が描きたい一枚を持っているのだった。
「陽華さんは、もう作品を直せないんですよね?」
「うん。だから、昨日までは気になってた線もそのまま」
「気になりません?」
「気にはなるよ。でも、描き終えるって決めたしね」
「そういうものですか」
「私も昨日まで、出すかどうかでちょっと落ち着かなかったけど」
陽華は自分の机にある課題へ目を向けた。
ついさっきまで描き直していた椅子が、紙の上に残っている。
「それに、今はこっちの方が気になるかな」
「あ、椅子ですか?」
「うん。なかなか難しくて」
「俺もさっき描き直してましたよ」
「遥斗さんも?」
「はい。何回見ても、脚の角度が合わなくて」
ミオが二人の顔を交互に見た。
「私も背もたれが変になりました」
「え、ミオちゃんも?」
「はい。椅子って、こんなに難しかったんですね」
「本当だよね」
三人で笑い、それぞれ自分の紙へ目を向けた。
描いているものは同じでも、気になるところは違うらしい。
陽華はそんなことを思いながら、机の端に置いた消しゴムを手に取った。
◇
午前の授業が終わる頃には、陽華の椅子もどうにか形になっていた。
まだ描き足せそうなところはあるけれど、今日はここまでにする。
道具を片づけていると、ミオが鞄を持って立ち上がった。
「陽華さん、お昼どうします?」
「うーん、今日は何食べようかな」
「まだ決めてないんですか?」
「うん。朝からずっと椅子のこと考えてたから」
「そこまでですか?」
ミオが笑う。
そこへ遥斗が戻ってきた。
「二人とも、お昼行きます?」
「うん。遥斗さんは決まってる?」
「まだですけど、今日は結構お腹空いてます」
「それ、いつもじゃないですか?」
「そんなことないですよ」
「前も同じこと言ってませんでした?」
「ミオさん、よく覚えてますね」
二人のやり取りを聞いて、陽華も笑った。
昨日までは、帰ったら応募の確認をしなければと考えていた。
今はそんなことを気にせず、昼食の話をしている。
(……なんだか、いつもどおりだな)
応募した一枚がこれからどうなるのかは、まだ分からない。
けれど、それを考えてばかりいる必要もなかった。
午後になればまた授業があるし、今日描いた椅子にも直したいところが残っている。
明日になれば、きっと別の課題も待っている。
「陽華さん、行きますよ」
「あ、うん。今行く!」
陽華は鞄を持ち、二人の後を追いかけた。
廊下には昼休みを迎えた学生たちの声が広がっている。
今日は何を食べようか。
そんなことを考えながら、陽華は遥斗とミオの隣に並んだ。




