第93話『描いた、その先』
第93話『描いた、その先』
午後の授業が終わると、陽華は机の上の道具を片づけ始めた。
今日描いた課題には、まだ手を入れたいところが残っている。
けれど今は、それより先に済ませたいことがあった。
鞄へノートを入れようとすると、間に挟んだ小さな紙の端が覗いた。
応募の前に確認することを書き出した、あのメモだった。
いくつかの項目には丸が付いているが、まだ空いているところもある。
陽華はそれを見て、鞄の中へしまい直した。
「陽華さん、もう帰るんですか?」
隣を通りかかった遥斗が、鞄を肩に掛けながら尋ねた。
「うん。今日は家で、応募のことを片づけようと思って」
「ああ、まだでしたね」
「そうなの。絵が終わったら安心しちゃって」
「締め切り、もう近いですからね」
「分かってるよ」
少しむくれて返すと、遥斗は笑った。
ミオも少し離れた席から顔を上げる。
「陽華さんなら、ちゃんと確認してそうですけど」
「確認するためのメモは作ったんだけどね」
「じゃあ、あとは終わらせるだけですね」
「そう言われると簡単そうなんだけどなあ」
ミオが小さく笑い、陽華も笑った。
二人はまだ、それぞれの絵に手を入れている途中だった。
同じ締め切りが近づいていても、今やることは少しずつ違っていた。
陽華は二人に挨拶し、教室を出た。
廊下では明日の授業の話をする学生たちとすれ違う。
学校は明日もいつもどおり続く。
その前に、自分の一枚をきちんと出しておきたかった。
◇
家に帰って部屋へ入ると、陽華は机の上に応募の案内とメモを並べた。
すぐそばには、描き終えた絵がある。
待っている人と、そこへ近づいていく人。
二人の間には道が続き、その周りに街が広がっていた。
何度も見てきた絵なのに、こうして広げるとやっぱり気になる線が見つかる。
陽華はそこへ視線を向けたまま、しばらく動かなかった。
(……今は、直すために出したんじゃないよね)
鉛筆を取る代わりに、メモを手元へ寄せる。
案内をもう一度読み、確認できているところを指でたどった。
締め切りについては間違えていない。
準備することも、前に調べた時より整理できていた。
まだ残っている項目を見つけると、必要なことを確かめ直してから丸を付ける。
一つ終わると、今度はその次。
絵を描いていた時とは違う面倒さがあったが、不思議と嫌ではなかった。
目の前にあるものを、自分で外へ出すための準備なのだから。
「……よし」
最後に残った項目を確認し、陽華は椅子の背にもたれた。
まだ応募そのものは終わっていない。
ここまで調べて、また明日にすることもできる。
でも、今日終わらせようと思って帰ってきたのだった。
陽華は絵へ目を戻す。
描き始めた頃は、待っている人と近づく人をどう置けばいいのかも分からなかった。
何度も線を直し、街を描き足して、最後は自分で鉛筆を置いた。
それを今度は、誰かに見てもらう場所へ出そうとしている。
(……出してみよう)
陽華は絵から視線を離し、メモをもう一度見直した。
ここまで確かめたのだから、あとは自分で進めるだけだった。
◇
応募を済ませるまで、陽華は思った以上に慎重になった。
案内を確かめながら必要なことを一つずつ進め、そのたびに間違いがないか見直した。
最後まで終わったところで、もう一度確かめる。
ちゃんと応募できていた。
陽華は小さく息を吐いた。
「……出せた」
描き終わった時のような嬉しさとは、少し違っていた。
胸の辺りが落ち着かないのに、肩はさっきより軽い。
どんな人が見て、何を思うのかは分からない。
気に入ってもらえるかもしれないし、そうでないかもしれない。
でも、見てもらう前に自分でやめてしまうことはしなかった。
陽華は確認に使っていたメモの最後の項目へ丸を付けた。
直したかった線のことを思い出しても、もう描き足そうとは思わなかった。
◇
翌日の教室では、いつもと変わらず学生たちが授業の準備をしていた。
陽華も鞄から道具を取り出し、席へ座る。
隣ではミオが紙を揃え、少し離れたところで遥斗が誰かと話していた。
昨日まで気にしていた応募は、自分の分だけもう終わっている。
けれど授業の課題は、今日も目の前にあった。
「陽華さん、これから始めますよ」
「うん、分かってる」
ミオに答えて、陽華は新しい紙へ目を落とした。
白いところがまだたくさんある。
まずは今日の分を、描き始めようと思った。




