第91話『残された時間』
第91話『残された時間』
午前の授業が終わると、B組の教室に少しずつ話し声が戻ってきた。
玲奈は机の上の道具を片づけ、描いていた課題の紙をもう一度見た。
直したかった線はまだ残っている。
でも、授業が終わった以上は今すぐどうにかするものでもなかった。
近くの席の学生が、背伸びをしながら玲奈の方を向いた。
「玲奈、さっきの課題どこまでできた?」
「最後のところ、まだ直してた」
「私も。終わりって言われてから気になるんだよね」
「分かる。あそこで見つかると困るよね」
「そうそう。もっと早く気づきたかった」
二人で笑っていると、別の学生が教室の入り口から声を掛けてきた。
「ねえ、お昼行かない?」
「行く!」
「玲奈も行こ」
「うん、今片づける」
玲奈は紙をしまい、鞄を持って席を立った。
廊下へ出ると、暖房の効いた教室とは違って空気がひんやりしている。
隣を歩く学生が寒いと肩をすくめ、さっきまでの課題の話はいつの間にか昼食の話に変わった。
玲奈もその会話に混じりながら階段へ向かった。
今日の午後にも授業がある。
帰ってからは、描きかけの一枚を進めたい。
考えてみれば、使える時間はそう多くなかった。
◇
家に帰って机へ向かうと、玲奈は鞄から一枚の紙と小さなクロッキー帳を取り出した。
紙には、店先ですれ違う二人の姿が薄く描かれている。
この前、学校で描き始めたものだった。
紙袋を二つ持った人と、その横を通り抜けようとする人。
二人の足の位置は何度か直して、ようやく自分の中で落ち着いてきた。
今日は、その周りももう少し描いてみようと思っていた。
玲奈は紙の下へ別の紙を敷き、鉛筆を持った。
まず店の入り口を見直す。
ガラスの扉の枠を描き足し、その横に壁の線を伸ばした。
入口の上にも少し線を重ねてみる。
細かいところまで描いていくと、ただの輪郭だった店先が少しずつ建物らしくなっていった。
(あ、ここは結構いいかも)
調子に乗って描き進め、いったん手を止める。
紙を持ち上げて少し離してみると、さっきまでと見え方が違っていた。
店の線が増えた分、目がそちらへ向く。
最初に描いた二人は、前より目立たなくなった気がした。
(……あれ?)
玲奈は紙を机に戻した。
入り口を描けば、二人がいた場所は分かりやすくなる。
でも、店そのものを見せたかったわけではない。
あの時、最初に気になったのは紙袋を持つ人の肩だった。
そこへ別の人が近づき、二人が少しずつ位置を変えた。
ほんの短い間の、あの動きを描きたかった。
玲奈は扉の枠に引いた線を指先で隠してみた。
そうすると二人の姿が、少し見やすくなる。
けれど入り口の線まで全部隠すと、今度は袋を持った人がどこへ寄ったのか分かりにくかった。
「……残すのは、こっちか」
玲奈は机の端にあった小さな紙へ、二人の姿を簡単に描いてみた。
顔や服の細部は入れず、肩の傾きと足の向きだけを先に置く。
その後ろへ扉の輪郭を描き、足元に歩道の端の線を引いた。
紙の上には、まだ白いところがたくさんある。
それでも、袋を持った人が少し身を引き、もう一人がその前を通る様子は見えた。
今度は入り口の横の壁を描き足してみる。
すると二人の近くに線が集まり、さっきより少し窮屈になった。
玲奈は鉛筆を止め、描き足した線から目を離して二人の足元を見た。
(なくても、いいのかもしれない)
大きい方の紙をもう一度広げる。
描き足した店先の線を、消しゴムで少しずつ薄くした。
扉の位置が分かるところは残す。
歩道の端も、二人の足元につながる部分は消さない。
その代わり、気になって描き込んだ壁の細かな線は減らした。
一度描いたものを消すのは、少し惜しい。
せっかく建物らしく見えてきたのだから、なおさらだった。
でも、その線が必要かどうかは別の話だと思った。
玲奈は紙を離し、もう一度二人を見た。
紙袋の持ち手を直そうとして上がった肩。
その横を通る人の、少し変わった歩幅。
入り口は後ろに残ったまま、二人の動きがさっきより見えやすくなっていた。
(うん。こっちの方が好きだな)
玲奈は小さく頷き、今度は袋を持つ腕の線を描き直した。
周りを減らしたせいか、腕の傾きも少し気になる。
直すところはまだいくつもある。
空いている場所だって多い。
それでも、何でもそこへ描き足せばいいわけではなかった。
ふと時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
一月の終わりまでは、もう長くない。
玲奈はもう一度鉛筆を持ちかけて、手を止めた。
まだ続きを描きたいけれど、今日はどこを残すかを少し決められた。
机の上の紙には、店先へ半歩寄る人と、その前を通り過ぎる人がいる。
玲奈は二人の足元を確かめ、鉛筆をそっと置いた。




