第90話『一月の終わり』
第90話『一月の終わり』
一月最後の週に入っても、学校の授業はいつもどおり続いていた。
午前のデッサン室では、鉛筆が紙を擦る音があちこちから聞こえる。
陽華はイーゼルの前で、置かれた瓶と布を見比べながら手を動かしていた。
瓶の形はどうにか取れたけれど、その横にできる布の影が思ったより難しい。
描き直しているうちに、さっきまで合っていたはずの線まで気になってくる。
(うーん、こっちはもう少し薄いかな)
消しゴムを手に取ろうとしたところで、近くから声がした。
「陽華さん、それ貸してもらってもいい?」
「うん、どうぞ」
「ありがとう、消しゴムが鞄のどこに入ったか分かんなくなっちゃって」
「分かる、私もよく探してる」
二人で小さく笑うと、前の方から授業の終わりを告げる声が聞こえた。
陽華はもう一度だけ自分の紙を眺めて、鉛筆を置いた。
まだ直したいところはある。
それでも今日はここまでだった。
隣から返された消しゴムを受け取り、道具を片づける。
次の授業も、その次の授業も、普段と変わらず待っている。
けれど陽華には、その間にも一月の残りが少なくなっていくことが少し気になっていた。
◇
放課後の制作実習室には、まだ何人かの学生が残っていた。
陽華が授業の課題を鞄にしまっていると、少し離れた机から遥斗が声を掛けてきた。
「陽華さん、ちょっとこれ見てもらっていいですか?」
「うん、いいよ」
遥斗の机には、少し横へずれた位置から奥へ伸びる道の絵が置かれていた。
前に見せてもらった時より、道の奥に建物の線が増えている。
ただ、その先が少し窮屈になったようにも見えた。
「ここ、昨日描き足したんですけど」
「うん」
「なんか前より、道が短く見える気がして」
「ああ、言われるとちょっと分かるかも」
「ですよね、奥を描きたかったのに逆になっちゃって」
「戻すの?」
「そこも迷ってますけど、全部消すのは違う気もするし」
遥斗は紙を少し離して眺めた。
陽華も隣から道の先を見る。
まだ何を残すか決められない線があるのは、少し前の自分と同じだった。
それでも、遥斗が今どこを見ているのかは分かる気がした。
「今日はもう少し考えてみます」
「うん、まだ時間はあるもんね」
「多くはないですけどね」
「そこは言わないで」
遥斗が笑ったところへ、ミオが小さな紙を二枚持ってきた。
「私も、ちょっと試したんです」
「反射のところ?」
「はい、こっちは入れて、こっちは入れないで描いてみました」
二枚とも、暗くなりきる前の青に暖かな光が置かれている。
けれど一枚には、その光を受けた小さな色が足されていた。
陽華は二枚を交互に見た。
反射のある方は明るいところが増えている分、最初に目が向く場所も違って見える。
「あ、本当に印象が変わるね」
「そうなんですけど、ちょっとそっちが目立ちすぎる気もして」
「反射を小さくしたらどうですか?」
遥斗が聞くと、ミオは少し考えてから頷いた。
「それも試してみますけど、入れない方がいいかもしれないので」
「じゃあ、まだ決めないんだね」
「はい、自分で見比べてからにします」
ミオは二枚を重ねず、机の上へ並べて戻した。
陽華もそこへ目をやったあと、自分の鞄へ視線を落とす。
二人はまだ、描くために残る時間を使っている。
自分にはもう、描き足すつもりの線はない。
それなのに、やることが全部終わったわけではなかった。
「私も今日、ちゃんと確認しなきゃ」
「何をですか?」
「応募する時に必要なことなんだけど、絵が終わったらちょっと安心しちゃって」
「ああ、提出の方ですね」
「うん、まだ出してないからね」
「陽華さんが一番早く描き終わったのに、そこはこれからなんですね」
「そうなの、描くことばっかり考えてた」
ミオが小さく笑い、遥斗も頷いた。
陽華は机に置いた鞄を持ち上げる。
「じゃあ私、今日は先に帰るね」
「はい、俺はもう少し残ります」
「私も、少しだけ」
「うん、また明日」
「また明日、陽華さん」
二人に手を振り、陽華は制作実習室を出た。
廊下へ出ると、窓の向こうには冬の夕方が広がっている。
まだ明るさの残る空を見ながら、陽華は家に帰ったら何から始めようかと考えた。
◇
家に帰って自分の部屋に入ると、机の上には描き終えた絵が置いてあった。
数日前までは、ここへ座るたびに鉛筆を手に取っていた。
陽華は椅子へ腰を下ろし、絵の横に紙を一枚置く。
そこへ、応募する前に確認しておきたいことを書き始めた。
締め切りのこと。
準備するもののこと。
出す前に確かめておきたいこと。
書き出してみると、まだ確認していないことがいくつかあった。
(……描き終わっただけじゃ、まだ終わりじゃないんだ)
陽華は応募の案内を読み直し、書いた項目を一つずつ見返した。
すぐに分かることもあれば、もう少し確かめた方がよさそうなこともある。
少し面倒にも感じたけれど、今度は何を描こうかと迷う時間ではなかった。
目の前には、もう自分で描き終えた一枚がある。
陽華はそれを見てから、紙の上に書いた項目へ視線を戻した。
描きたいものを決めた時も、描き終えると決めた時も、自分で選んできた。
だったら、この一枚を外へ出すところまで自分でやろう。
陽華は鉛筆を持ち、確認できた項目の横に小さな丸を付けた。
窓の外はすっかり暗くなっていたが、机の上にはまだ明かりがついている。
今夜は絵に新しい線を足さず、その隣の紙へもう一つ丸を書き込んだ。




