第89話『描き終えたあと』
第89話『描き終えたあと』
授業が終わると、A組の教室は急ににぎやかになった。
机の上を片づける音に混じって、次の授業の話や週末の予定が聞こえてくる。
陽華も使った道具を鞄にしまい、机の端に残っていた消しゴムを拾った。
窓の外は明るいのに、廊下から入ってくる空気は冷たい。
一月も終わりに近づき、学校へ来る時には手袋が欲しくなる日が続いていた。
「陽華さん、次の教室、もう行く?」
「ううん、もう少ししたら行くよ」
「じゃあ、先行ってるね」
「うん、またあとで」
近くの学生が友達と出ていくのを見送ってから、陽華は鞄の口を閉じた。
遥斗は少し離れた席で持ち物を確かめ、ミオは机の上の紙を揃えている。
ふとミオが廊下の方を見た。
「今日は外、寒そうですね」
「もう教室から出たくないなあ」
「次の授業ありますよ」
「分かってるけど、言うくらいいいでしょ」
「ミオさん、暑いのより寒い方がいいって言ってませんでした?」
「暑いよりはいいですけど、寒いのが好きなわけじゃないです」
「それはそうか」
遥斗が笑うと、陽華もつられて笑った。
陽華は椅子を机へ寄せ、鞄を肩に掛けようとしてから、もう一度置いた。
次の教室へ向かうには、まだ少し早そうだった。
「そういえば陽華さん、コンクールの絵はどうですか?」
「え?」
「あの、二人がいる街の絵」
「ああ、あれね」
陽華は少しだけ口元を緩めた。
家で鉛筆を置いた夜のことが、ふっと頭に浮かぶ。
「実は、この前描き終わったんだ」
「えっ、本当ですか?」
「完成したんですか?」
「うん、もうあれでいいかなって思って」
「おお、先を越されましたね」
「別に競争じゃないでしょ」
「それはそうですけど」
遥斗は笑いながらも、少し驚いた顔をしていた。
ミオも手元の紙を置き、陽華を見る。
「もう直さないんですか?」
「直したいところは、まだあるよ」
「あるんですね」
「でもね、描き足したいかって考えたら、今のままにしておきたくなったの」
「……そっか」
遥斗が小さく頷いた。
陽華は机の上を見ながら、あの絵の二人を思い出した。
待っている人と、そこへ近づいていく人。
二人の間に続く街を、もうこれ以上変えたくなかった。
(ちゃんと、自分で終わりにできたんだよね)
口に出してみると、部屋で一人眺めていた時とは少し違う嬉しさがあった。
「お疲れさまです、陽華さん」
「ありがとう、ミオちゃん」
「もう出したんですか?」
「ううん、提出はまだで、描き終わっただけだよ」
「じゃあ、そっちも忘れないようにしないとですね」
「遥斗さん、そういうところは本当によく気がつくよね」
「それ、褒めてます?」
「もちろん」
三人で笑ってから、陽華は二人に尋ねた。
「遥斗さんとミオちゃんは、今どんな感じ?」
「俺はまだ、道の奥を描いてるところです」
「私は、反射をもう少し試してみたいです」
「そっか。二人とも、進めてるんだね」
「まあ、締め切りが近いですから」
「陽華さん、先に終わったからって急かさないでくださいね」
「急かさないよ。私だってまだ出してないし」
「それなら、まだ同じですね」
「そこだけね」
陽華が笑うと、遥斗も肩をすくめた。
描き終えるところまで来た自分と、まだ手を動かしている二人。
今はそれぞれ違うことを考えているのだろうけれど、そんな話を普通にできるのが嬉しかった。
「陽華さん、描き終わった夜は何してたんですか?」
「お茶飲んでた」
「……お茶?」
「うん。お母さんがいれてくれたの」
「なんか、いつもどおりですね」
「そうだよ、終わったからって急に何か変わるわけじゃないもん」
「じゃあ、俺もお茶飲もうかな」
「飲むだけじゃ絵は終わらないですよ」
ミオの返事があまりに早くて、陽華は思わず吹き出した。
遥斗も笑いながら鞄を持ち上げる。
ちょうど廊下から、次の教室へ向かう学生たちの声が近づいてきた。
「あ、そろそろ行こうか」
「そうですね」
「次の授業の道具、忘れてない?」
「陽華さんこそ大丈夫ですか?」
「ちゃんと入れたよ」
三人は机を離れ、廊下へ出た。
思ったとおり、廊下は教室より少し寒かった。
陽華が肩をすくめると、隣でミオも上着の袖を引っ張っている。
「ミオちゃんも寒そう」
「だから寒いって言ったじゃないですか」
「そうだったね」
遥斗が笑い、陽華も笑った。
描き終わったことを話せてよかったと思いながら、陽華は二人と並んで次の教室へ向かった。




