第88話『その半歩』
第88話『その半歩』
午後の授業が終わると、B組の教室では帰り支度の音があちこちで重なった。
玲奈は机の隅に置いていたクロッキー帳を眺めながら、上着を手に取った。
窓際では何人かの学生が、外が寒そうだと話している。
「玲奈、今日は残るの?」
「うん。ちょっと描いてから帰ろうかな」
「この教室も寒くない?」
「外よりはましでしょ」
「それはそうか。じゃあ、お先」
「うん、また明日」
学生たちが何人か連れ立って出ていき、教室にはまだ数人が残っていた。
誰かが話している声を聞きながら、玲奈はクロッキー帳を開く。
最近は気になった人の姿だけでなく、その人がいた場所まで描くことが増えていた。
市のコンクールに出すと決めてからも、思いつくたびに線を引いている。
けれど一月の終わりは、もうすぐそこだった。
このまま何枚も小さな絵を増やすだけでは、応募する一枚にはならない。
玲奈はページをめくり、この前の帰りに描いた店先の人のところで指を止めた。
紙袋を持ち直そうとして、肩を上げていた人。
次のページには、店の入り口と歩道まで入れて描いたものがある。
人を大きくすると姿勢がよく見える。
周りを入れると、その人がどこに立っていたのか分かる。
どちらも気に入らないわけではなかった。
ただ、玲奈があの時から何度も思い出していたのは、そこからもう少しあとのことだった。
(……半歩、動いたんだよね)
紙袋を持った人の横を、別の人が通ろうとした。
通る方が歩幅を変えると、袋を持った人も店の方へ少し寄った。
ほんの短い間に、二人の立つ位置が変わった。
あの時、玲奈が目で追ったのは袋を持つ腕だけではなかった。
その人が足を動かしたところまで、気になっていた。
玲奈はクロッキー帳を閉じ、鞄から新しい紙を取り出した。
まず袋を持った人を少し大きめに描く。
傾いた肩から腕へ線をつなぎ、膝を曲げた足まで描いたところで鉛筆を止めた。
空いている横へ、通り過ぎようとする人を置いてみる。
二人の足が近すぎて、今にもぶつかりそうに見えた。
「……近いな」
玲奈は後から描いた人の線を消し、少し位置をずらした。
ところが離しすぎると、今度は袋を持った人がわざわざよける理由が見えてこない。
あの日見た姿を正確に覚えているわけではない。
それでも、あの時の二人はもっと自然にすれ違っていた。
玲奈は消した跡を指で払い、今度は足元から描き直してみる。
片方は店先へ寄ろうとしていて、もう片方はその前を通り抜けようとしている。
肩の傾きや足の向きを少し変えると、さっきより動きが見えてきた。
けれど、まだどこか窮屈だった。
紙の端へ目を移して、玲奈は小さく息を吐く。
(そっか。ここ、通り道なんだ)
店の入り口と、そこから続く歩道。
あの二人がいた場所を思い浮かべながら、玲奈は人物の周りへ薄く線を引いた。
店先のわずかな空間が見えてくると、二人の足の向きもさっきよりしっくりきた。
袋を持った人は、ただ不思議な姿勢をしていたわけではない。
別の人が通るから、少し体をずらしたのだ。
玲奈は描きかけの紙を離して眺める。
人の表情はまだほとんど描いていない。
建物も、入り口の輪郭を入れただけだった。
でも、最初に人物だけを描いた時より、あの半歩が見える気がした。
(こういうところが、好きなのかも)
誰かが大きな動きをしたわけでも、目立つことをしたわけでもない。
ほんの少し足を動かしただけで、その人の姿が変わる。
その動きが、隣を通る人や街の形とつながっている。
風景を描こうと思って人を置いたのではない。
人を描きたくて目を向けたら、その人が立つ場所まで気になった。
玲奈は鉛筆を持ち直し、二人の足元をもう少し描き足した。
まだこの位置でいいのか分からないし、完成までには何度も直すだろう。
それでも、ほかの場面を探し直そうとは思わなかった。
(うん。これを描いてみよう)
店先ですれ違う二人と、その間に生まれたほんの半歩。
あの短い瞬間を一枚にして、コンクールへ出してみたい。
窓の外はいつの間にか夕方の色に変わっていた。
まだ紙には描きかけの線しかない。
玲奈は紙を片づける前に、通り抜けていく人の足をもう一度描き直した。




