第87話『ここまで描いた』
第87話『ここまで描いた』
夕食を終えた陽華は、自分の部屋へ戻って机の上に紙を広げた。
一月も終わりに近づき、コンクールの締め切りが気になるようになっていた。
学校から持ち帰った一枚には、待っている人と、そこへ近づいていく人が描かれている。
二人の位置は、もう何日も変えていなかった。
その周りの建物や道には少しずつ手を加え、最初は白かったところにも街の形が見えてきている。
陽華は椅子に座り、今日も気になっていたところへ目を向けた。
街の端に残った余白が、どうにも気になった。
何かを描き足そうと鉛筆を近づける。
けれど、そこに何が必要なのかと考えると手が止まってしまった。
(うーん、どこまで直そうかな)
鉛筆を持ったまま、もう一度紙を離して見る。
余白を埋めるだけなら、いくらでも線は増やせる。
けれど、何もかも描いたらいいというものでもない気がした。
陽華は机に頬杖をつき、しばらく二人の間を眺めた。
少し離れているのに、互いがそこにいることを感じられる距離。
その距離が好きで、この一枚を選んだのだった。
街を描き始めたのも、二人をその場所に立たせたかったからだ。
(……あれもこれも入れたくなってたかも)
陽華は鉛筆を置いて立ち上がった。
座ったままだと、また細かいところばかり見てしまいそうだった。
ちょうどその時、廊下から母の声がした。
「陽華、お茶いれたけど飲む?」
「うん、飲む。ちょっと休もうと思ってた」
「台所に置いておくね」
「ありがとう」
陽華は部屋を出て、温かいお茶を取りに行った。
母は台所で片づけをしていたが、陽華を見ると少し笑った。
「まだ絵、描いてたの?」
「うん。もう少しで終わりそう」
「そう。あんまり遅くならないようにね」
「はーい」
湯飲みを持って自分の部屋へ戻る。
机に向かう前に一口飲んでから、陽華は少し離れた場所で足を止めた。
さっきまで目の前で見ていた絵が、今は机の上で一つの風景になっている。
建物の線も道の広がりも、気になるところがないわけではない。
それでも最初に目が向いたのは、やっぱり二人だった。
片方が待っていて、もう片方が近づいている。
まだ会っていない二人の間にも、同じ街が続いていた。
(ああ……これが描きたかったんだ)
陽華は椅子に戻り、紙をもう一度手元へ寄せた。
人物の足元から続く線を最後に少しだけ整える。
それから手を止めた。
ほんの少し直すだけのつもりでも、次に気になるところはきっと出てくる。
明日見たら、また違う線を引きたくなるかもしれない。
でも、今見えているこの一枚を、もう少し描き足したいかと考えると、答えは違った。
(……これ以上、足さなくてもいいかな)
自分が残したかった二人と、その間にある街は、もう紙の上にあった。
陽華は紙の端までゆっくり目を動かし、最後に二人のところへ戻った。
しばらくそのまま眺めてから、鉛筆を机へ置く。
「……できた」
声にしてみると、少しくすぐったかった。
別の人が見れば、まだ直した方がいいと言うところもあるのかもしれない。
それでも陽華は、今の一枚を描き終えたことにした。
湯飲みのお茶は、さっきより少し冷めている。
陽華はもう一口飲み、机の上の絵を眺めた。
今夜は、そこへ新しい線を加えようとは思わなかった。




