第8話『一緒に食べる?』
第8話『一緒に食べる?』
午前の授業が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音が重なり、鞄から弁当を出す人もいれば、そのまま友達と教室を出ていく人もいる。
陽華は机の上を片づけながら時計を見た。
昼休みだった。
(どうしようかな)
今日は弁当を持ってきていない。
どこかで買って、そのまま適当に食べればいい。
そう考えていると、近くで鞄を閉じる音がした。
顔を上げると遥斗が立っていた。
「榊原さん、お昼どうするの?」
「まだ決めてないです」
「私も」
「じゃあ何か買いに行きます?」
「そうしようかな」
それだけの会話だった。
入学したばかりの頃なら、昼をどうするかまで誰かに聞くことはなかったと思う。
でも遥斗には、いつの間にかこういうことも普通に聞けるようになっていた。
陽華が鞄から財布を出していると、教室の前をミオが通った。
一人だった。
そのまま扉へ向かっている。
(飯村さんもお昼かな)
昨日は隣でずっと絵を描いた。
その前の日には、捨てた絵を拾って話した。
なのに授業が終わると、またそれぞれの場所へ戻っていく。
陽華は少し迷った。
「飯村さん」
ミオが足を止めて振り返る。
「はい」
「お昼どうするの?」
「まだ決めてないです」
陽華は一瞬だけ遥斗を見る。
遥斗もこちらを見ていた。
(聞いちゃったしな)
そこまで考えてから、陽華はミオを見る。
「じゃあ……一緒に食べる?」
ミオが少し目を瞬く。
ほんの少し間があった。
「はい」
「よかった」
言ってから、何がよかったんだろうと思う。
でもミオは特に気にした様子もなかった。
遥斗も鞄を持つ。
「じゃあ三人で行きますか」
「うん」
ミオも小さく頷いた。
◇
学生ホールは昼休みに入ったばかりなのに、もうかなり人がいた。
いくつものテーブルに学生が集まり、話し声が重なっている。
陽華たちは途中でそれぞれ昼食を買い、空いていた四人掛けのテーブルへ座った。
陽華の正面に遥斗。
隣にミオ。
席へ着いてみると、急に少しだけ変な感じがした。
デッサン室では三人で並んでいても、描くものがあった。
黙っていても鉛筆を動かしていればいい。
今は目の前にあるのは昼ご飯だけだった。
(何話せばいいんだろ)
パンの袋を開けながら考える。
遥斗も買ってきたサンドイッチを出している。
ミオはおにぎりと小さな飲み物を机へ置いた。
三人とも食べ始める。
少しだけ静かだった。
「今日の午後って何でしたっけ」
遥斗が先に口を開いた。
「色彩の授業じゃなかった?」
「そうでした」
「榊原さん、時間割まだ覚えてないの?」
「覚えてたら聞いてないです」
陽華が笑う。
「飯村さんは覚えてる?」
「はい」
「すごい」
「時間割見たので」
「私も見たんだけどな」
ミオが少しだけ陽華を見る。
「松澤さんも覚えてないんですか」
「全部は無理」
遥斗が頷く。
「ですよね」
「榊原さんは私より覚えてないでしょ」
「そこは否定できないです」
ミオの口元が少し緩んだ。
会話が一度止まる。
今度はさっきほど気にならなかった。
周りにも話し声がある。
三人とも普通に食べる。
陽華はパンを一口食べてから、ミオのおにぎりを見る。
「それ何味?」
「鮭です」
「いいな」
「松澤さんのは?」
「たまご」
「普通ですね」
「飯村さんに普通って言われた」
ミオが少しだけ目を丸くする。
「悪い意味じゃないです」
「分かってるよ」
陽華が笑うと、遥斗も少し笑った。
「俺のも聞きます?」
「聞いてほしいの?」
「別に」
「じゃあいいです」
「扱い違いません?」
陽華がまた笑う。
ミオも今度ははっきり笑った。
◇
しばらくして、ミオが二人を見た。
「松澤さんと榊原さんって、年近いですよね」
陽華は飲み物へ伸ばしていた手を止めた。
遥斗も顔を上げる。
「俺と松澤さんですか?」
「はい」
「まあ、二歳ですね」
陽華が頷く。
「私は二十八で、榊原さん二十六だもんね」
「そうですね」
ミオは少し考えるように二人を見る。
「やっぱり近いですね」
「飯村さんから見たらね」
陽華は笑った。
「飯村さん十八だもんね」
「はい」
「私と十歳違うんだ」
改めて口にすると、結構離れている。
入学した時もそう思った。
教室の中には十代の学生が多くて、自分だけ別の場所にいるみたいだった。
(十歳か)
目の前のミオを見る。
十八歳。
それは変わらない。
でも最初の日に感じた十八歳と、今ここでおにぎりを食べている十八歳は、少し違って見えた。
年齢が変わったわけではない。
自分が少し知っただけだ。
「松澤さん?」
ミオに呼ばれる。
「あ、ごめん」
「何ですか?」
「いや、十歳違うんだなって改めて思って」
「そうですね」
「急に遠く感じる言い方ですね」
遥斗が言った。
陽華が遥斗を見る。
「榊原さんも八歳違うよ」
「俺も結構離れてました」
「今気づいたの?」
「数字にするとですね」
ミオが二人を見る。
「でも二人とも、そんなに変わらないです」
「何が?」
陽華が聞く。
ミオは少し考えた。
「話してる感じが」
「十八歳から見ても?」
「はい」
遥斗が少し笑う。
「それは若く見えるってことにしておきます」
「そういう意味ではないです」
「違いましたか」
「多分」
陽華は笑った。
ミオもまた少し笑う。
十歳違う。
八歳違う。
数字だけなら大きい。
でも今は、それだけだった。
◇
陽華が飲み物の蓋を開けている間に、遥斗がミオへ声をかけた。
「飯村さん、午後の色彩って絵具使うんでしたっけ」
「今日は説明だけだったと思います」
「ほんとですか」
「多分」
「飯村さんの多分、結構信用していいんですかね」
「分からないです」
「分からないんだ」
ミオが遥斗を見る。
「榊原さんよりは覚えてると思います」
「それは否定できないです」
陽華は蓋を開けながら二人を見る。
自分が何か言わなくても、普通に会話が続いている。
昨日も少しだけそうだった。
遥斗が絵のことを聞いて、ミオが答えていた。
今日は絵を描いていない。
それでも同じように話している。
(昨日より普通かも)
何が普通なのかは、自分でもよく分からない。
ただ三人でいることを、さっきほど意識しなくなっていた。
◇
昼休みの終わりが近づくと、学生ホールから少しずつ人が減り始めた。
陽華たちも食べ終わったものを片づけ、席を立つ。
三人で教室へ戻る。
廊下を歩きながらも、特別な話はしなかった。
遥斗が午後の教室を間違えそうになって、陽華が違うと言う。
ミオが正しい教室を教える。
それくらいだった。
教室へ戻ると、それぞれ自分の席へ向かう。
「じゃあ、また後で」
遥斗が言う。
「うん」
「はい」
ミオも自分の席へ戻っていく。
陽華は椅子へ座り、机の上に次の授業のノートを出した。
(普通に終わったな)
三人で昼を食べた。
もっと気を遣うと思っていた。
何を話せばいいか考えて、疲れると思っていた。
最初は少しだけそうだった。
でも途中からは、あまり考えていなかった。
入学したばかりの頃なら、一人で食べた方が楽だったと思う。
今日も一人なら、それはそれで平気だったはずだ。
それでも。
(また一緒でもいいかも)
陽華はノートを開いた。
明日の昼を約束したわけではない。
誰もそんな話はしていない。
それでも今日から、昼休みに声をかけられる相手が二人になった。




