第7話『隣、いいかな』
第7話『隣、いいかな』
デッサン室に入ると、すでに何人かが場所を取り始めていた。
部屋の中央には白い布を敷いた台があり、その上に瓶と木箱、それからいくつかの果物が置かれている。
今日はその静物を好きな位置から描くらしい。
壁際に並んだイーゼルを持って、生徒たちがそれぞれモチーフの周りへ散っていく。
陽華も一台取って、どこにしようかと部屋を見回した。
正面に近い場所はもう何人かが使っている。
少し右へ目を向けたところで、見覚えのある髪が目に入った。
ミオだった。
すでにイーゼルを立て、紙を留めている。
その隣にはまだ空いている場所があった。
陽華は少しだけ足を止めた。
(どうしよう)
少し前なら、たぶん別の場所を探していた。
話せないわけではない。
でもわざわざ隣へ行くほどでもなかった。
今は少し違う。
昨日、ゴミ箱から拾った書きかけの絵を思い出す。
自分には描けないと思った絵。
それを描いた人が、今日は何を描くのか少し見てみたかった。
陽華はイーゼルを持ったままミオのところへ向かった。
「飯村さん」
「はい」
「隣、いいかな」
ミオが陽華を見る。
それから隣の空いている場所へ目を向けた。
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
陽華は隣へイーゼルを置いた。
たったそれだけなのに、少しだけ緊張した。
◇
先生の説明が終わると、デッサン室の中が静かになった。
聞こえるのは紙を擦る鉛筆の音と、時々位置を変える生徒の足音くらいだった。
陽華はモチーフを見る。
まず瓶の高さを取る。
木箱との位置を確かめる。
果物まで全部紙の中へ収まるように、薄く線を引いていく。
少し違うと思って消す。
もう一度見る。
また線を引く。
いつもの描き方だった。
隣からも鉛筆の音が聞こえている。
陽華は少しだけ目を動かした。
ミオはもうかなり描き進めていた。
瓶の形を取るより先に、布が大きく折れているところへ何本も線を重ねている。
そこから果物の下へ落ちる影へ鉛筆が移った。
(やっぱり、そこからなんだ)
昨日の書きかけの絵もそうだった。
全部の形を決めてから描くのではなく、気になったところへ先に手が伸びている。
陽華は自分の紙へ戻った。
少し描いて、また隣を見る。
今度は見てしまったと思わなかった。
昨日までとは、それが少し違う。
ミオが鉛筆を持ち替えたところで、陽華は声をかけた。
「やっぱり、そこから描くんだね」
ミオの手が止まる。
「ここですか」
「うん。その布のところ」
ミオは自分の紙を見る。
「気になったので」
「私だったら絶対、瓶から描くと思う」
「瓶から?」
「うん。最初に全体入れないと不安になるから」
ミオが陽華の紙を見る。
「ほんとだ」
「でしょ」
「もう全部あります」
「ないと落ち着かないの」
陽華は少し笑った。
ミオももう一度自分の紙を見る。
「私は全部描こうとすると、途中で分からなくなります」
「そうなの?」
「はい。だから見えたところから描きます」
「へえ」
それだけ話して、二人ともまた紙へ向かった。
会話は止まった。
でも気まずくはなかった。
二人分の鉛筆の音が近くで続いている。
陽華はその時間が思ったより嫌じゃなかった。
◇
少しして、後ろから声がした。
「松澤さん」
陽華が振り返る。
遥斗がイーゼルを持って立っていた。
「榊原さん」
「今日はこっちなんですね」
「うん」
遥斗の視線が陽華の隣へ動く。
ミオにも気づいたらしい。
「飯村さんも一緒なんですね」
ミオが顔を上げる。
「はい」
近くにはまだ一人分の空きがあった。
遥斗がそこを見る。
「じゃあ俺も、この辺いいですか」
「私はいいけど」
陽華がミオを見る。
ミオも小さく頷いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
遥斗がイーゼルを置く。
陽華の右に遥斗。
左にミオ。
気づけば三人が近い場所に並んでいた。
(なんか変な感じ)
嫌な意味ではない。
ただ、今までなかった並びだった。
遥斗が陽華の紙を見る。
「何描いてるんですか」
「同じものだよ」
「いや、それはそうなんですけど」
「何って聞くから」
「俺が悪かったです」
陽華が笑う。
ミオも少しだけこちらを見た。
◇
三人とも描き始めると、また静かになった。
遥斗も描いている時はほとんど喋らない。
モチーフを見ては、大きく線を置いていく。
陽華ほど何度も消さない。
しばらくして陽華は一度手を止め、左右の絵を見た。
ミオの絵は相変わらず、途中だけ見るとどこへ向かっているのか分かりにくい。
それでも線が増えるほど、布の柔らかさや影の濃さが見えてくる。
遥斗の絵は全体を大きく取っていて、陽華ともミオとも違った。
「三人とも全然違うね」
思わず口に出た。
遥斗が顔を上げる。
「何がです?」
「描き方」
陽華はミオの紙を見る。
「飯村さん、気になったところから描くんだって」
「そうなんですか」
遥斗もミオの絵を見る。
「はい」
「確かに俺とも全然違いますね」
遥斗が自分の紙へ目を戻す。
「俺、とりあえず大きく取っちゃうんで」
ミオが遥斗の紙を見る。
「榊原さんの絵、ちゃんと見るの初めてかも」
遥斗の手が止まった。
「そういえば前、見てないって言われましたね」
ミオが少し考える。
「あ」
「俺のはって聞いたら、見てないですって」
「言いました」
「言いましたよね」
「見てなかったので」
「ですよね」
陽華は吹き出した。
遥斗も少し笑う。
「やっと見てもらえました」
「今日は見てます」
「それは良かったです」
「でも」
ミオが遥斗の紙を見る。
「でも?」
「箱、大きくないですか」
遥斗が自分の絵を見る。
「……大きい?」
「ちょっと」
遥斗が陽華を見る。
「松澤さん」
「うん」
「大きいですか」
陽華も見比べる。
言われてみれば少し大きい。
「ちょっと」
「二人とも?」
「二人とも」
遥斗が実物の木箱を見る。
紙を見る。
もう一度木箱を見る。
「ほんとだ」
陽華が笑う。
「今まで気づかなかったの?」
「気づいてたら直してますよ」
「それもそうだね」
遥斗は消しゴムを手に取った。
ミオも何事もなかったように自分の絵へ戻る。
少しして、遥斗がまた顔を上げた。
「飯村さん」
「はい」
「この瓶って、ちょっと右に傾いて見えません?」
ミオがモチーフを見る。
次に遥斗の紙を見る。
「瓶じゃなくて、箱が斜めだからそう見えるんだと思います」
「箱?」
「多分」
遥斗が二つを見比べる。
「ああ」
少しして頷いた。
「ほんとだ」
陽華は鉛筆を動かしながら、そのやり取りを聞いていた。
自分は何も言っていない。
それでも遥斗とミオは普通に話している。
ほんの短い会話だった。
それでも少し前まではなかったものだった。
(なんかいいかも)
陽華はそのまま自分の紙へ鉛筆を走らせた。
◇
授業の終わりが近づく頃には、三枚の絵もそれぞれ形になっていた。
陽華は一度鉛筆を置いた。
自分の絵を見る。
ミオの絵を見る。
遥斗の絵を見る。
同じ瓶。
同じ木箱。
同じ果物。
見る位置は少しずつ違う。
それでも描いているものは同じだった。
なのに三枚とも全然違う。
陽華の絵は、自分でも分かるくらいきっちりしている。
ミオの絵は何本も線が重なっているのに、不思議と窮屈には見えない。
遥斗の絵には、大きく描きすぎた木箱を直した跡が残っている。
(同じもの見てるのに)
少し面白かった。
隣ではミオがまだ描いている。
反対側では遥斗が消しゴムのかすを払っていた。
少し前まで、この三人が並んで絵を描くなんて考えたこともなかった。
「松澤さん」
遥斗に呼ばれる。
「何?」
「これ、まだ箱大きいですか」
陽華は遥斗の紙を見る。
「今は大丈夫じゃない?」
遥斗が今度はミオを見る。
「飯村さんは?」
ミオも遥斗の絵を見る。
「大丈夫だと思います」
「よかった」
遥斗が少しほっとした顔をする。
「二人に見張られてる気分です」
「聞いてるの榊原さんじゃん」
「そうでした」
ミオが小さく笑った。
陽華もつられて笑う。
その時、先生が授業の終了を告げた。
◇
デッサン室の中に、片づけを始める音が広がった。
三人も紙を外し、鉛筆や消しゴムをしまっていく。
陽華が道具をまとめていると、隣から声がした。
「松澤さん」
「ん?」
「今日、隣で描いてよかったですか」
陽華は少しだけ目を瞬いた。
すぐに笑う。
「うん。よかった」
「そうですか」
「飯村さんは?」
ミオも少し考える。
「私も別に嫌じゃなかったです」
「別にって」
陽華が笑う。
ミオも少しだけ笑った。
その向こうから遥斗が顔を出す。
「俺は?」
「何がですか」
「俺が来たのは」
「別に嫌じゃなかったです」
「同じなんだ」
陽華がまた笑う。
「よかったね」
「とりあえず嫌われてはないみたいですね」
遥斗はイーゼルを戻し、鞄を持つ。
「じゃあ俺、先帰ります」
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
遥斗がデッサン室を出ていく。
陽華とミオも少し遅れて片づけを終えた。
「じゃあ、私も」
「うん。また明日」
ミオが一瞬だけ陽華を見る。
「また明日」
その言葉が返ってきた。
ミオもデッサン室を出ていく。
陽華は最後に自分の絵をしまってから鞄を持った。
三人で一緒にいようと決めたわけではない。
自分がミオの隣を選んで、そこへ遥斗が来ただけだった。
(また今度も、隣で描こうかな)
そう思いながら、陽華もデッサン室を出た。




