第6話『書きかけの絵』
第6話『書きかけの絵』
新しい紙を前にすると、少しだけ緊張する。
真っ白なところへ最初の一本を引く時は、今でも迷う。
(ここでいいかな)
陽華は鉛筆の先を紙へ置いた。
今日の実習は、教室の前に置かれたモチーフを描く課題だった。
いくつかの箱と瓶、それから布。
難しいものではないらしい。
先生はそう言っていたけれど、陽華には十分難しく見える。
まず全体を見る。
大きさを確かめる。
紙の中へどう入れるか考える。
薄く線を引いて、違うと思えば消す。
もう一度引く。
昔からそうだった。
ちゃんと見て、なるべくちゃんと描く。
その方が安心する。
少し進んだところで、陽華は顔を上げた。
モチーフを見る。
その途中で、少し離れた席が目に入った。
ミオが描いていた。
(また見てる)
自分で気づいて、慌てて前を見る。
ここ数日、どうしても目に入る。
最初は髪の色がきれいだと思っただけだった。
次は絵だった。
その次は、何度も窓の外を見ることが気になった。
今はもう、理由もなく見てしまう時がある。
(今日はどんな絵描いてるんだろ)
そう思ったところで、陽華は手を止めた。
(それが理由か)
少し納得してから、また紙へ向かった。
◇
しばらくして先生が教室を回り始めた。
陽華のところにも来て、紙を覗き込む。
「松澤、丁寧だな」
「ありがとうございます」
「ただ、あんまり最初から決めすぎるなよ」
「はい」
先生はそう言って次の席へ行った。
(決めすぎるなって言われてもなあ)
何をどこへ描くか決めないと不安になる。
陽華は消しゴムで線を少し消した。
紙が白く戻る。
その向こうで、ミオの手が動いている。
今度は意識して見た。
ミオは陽華とは違って、全体の形から取っているようには見えなかった。
瓶の輪郭を最後まで描く前に、その横の影へ鉛筆が移る。
布の折れたところを描いたと思ったら、次は箱の角へ行く。
順番がよく分からない。
(そこから描くんだ)
なのに、ばらばらには見えなかった。
線が少しずつ増えるたびに、紙の中へ何かができていく。
陽華の絵とは全然違う。
自分ならもっと輪郭を取る。
角度を確かめる。
おかしければ消す。
ミオの紙には、描き直した線もそのまま残っていた。
それすら絵の一部みたいに見える。
(やっぱり変わってる)
悪い意味ではなかった。
むしろ見ていたくなる。
そんなことを考えていると、ミオの手が止まった。
鉛筆を置く。
少しだけ身体を引いて、自分の紙を見る。
モチーフを見る。
また紙を見る。
しばらくそのままだった。
そして突然、紙を机から外した。
(え?)
ミオは立ち上がる。
教室の隅にあるゴミ箱へ歩いていき、その紙を入れた。
それだけだった。
戻ってくると新しい紙を出す。
何事もなかったみたいに鉛筆を持った。
(捨てちゃった)
陽華はゴミ箱の方を見る。
すぐに先生の声が飛んできた。
「松澤、手止まってるぞ」
「あ、はい」
慌てて自分の紙へ戻った。
◇
それからのミオは、さっきとは少し違っていた。
今度は全体の形を取っている。
瓶の位置。
箱の大きさ。
布の広がり。
順番も分かりやすい。
少なくとも陽華にはそう見えた。
授業が終わる頃には、二枚目の方がずっと整っていた。
(こっちの方がちゃんとしてる)
課題として見るなら、そうなのかもしれない。
それでも陽華は何度かゴミ箱を見た。
さっきの紙がまだ入っている。
(なんで捨てたんだろ)
授業終了の声がかかる。
教室のあちこちで椅子が鳴った。
みんな紙や道具を片づけ始める。
陽華も鉛筆をケースへ戻した。
遥斗が近くを通る。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
「今日難しかったですね」
「難しかったです」
「俺、途中から箱なのか何なのか分からなくなりました」
「箱ではありましたよ」
「そこだけは分かりました」
陽華が笑う。
遥斗も少し笑ってから鞄を持った。
「じゃ、また明日」
「また明日」
遥斗が教室を出ていく。
他の生徒も少しずつ減っていった。
ミオもいつの間にか席を離れていた。
陽華は鞄へノートを入れる。
一度ゴミ箱を見る。
もう一度見る。
(いやいや)
人が捨てたものだ。
(普通、拾わないよね)
鞄のファスナーを閉める。
立ち上がる。
出口へ向かおうとする。
二歩進んで止まった。
(でも気になる)
振り返る。
教室にはまだ何人か残っている。
みんな自分のことで忙しそうだった。
陽華はゴミ箱の方へ歩いた。
(何やってるんだろ、私)
それでも紙へ手を伸ばした。
◇
紙は折れていなかった。
上に別のゴミもほとんど入っていない。
陽華は端を持って取り出した。
机へ戻り、そっと広げる。
途中までの絵が出てきた。
改めて見ると、本当に完成していない。
瓶の輪郭は途中で切れている。
箱の形も少し歪んでいる。
布には何本も線が重なっていた。
消さずに残した線も多い。
陽華なら直したくなるところばかりだった。
なのに目が離れなかった。
二枚目より、こっちの方が布が柔らかく見える。
瓶の横に落ちた影も、ただ黒く塗られているわけではない。
線が重なって、その中に光の残っているところがある。
箱の角もきれいではない。
でも、そこだけ少し強く見える。
(なんだろう)
うまく説明できない。
(こっちの方が、見てたくなる)
陽華は自分の絵を思い出した。
形を取って、確かめて、違えば消した。
そのやり方が嫌いなわけではない。
むしろそれしか知らない。
だから余計に、目の前の絵が不思議だった。
(私には、こういうの描けないな)
その時、教室の扉が開いた。
陽華は反射的に顔を上げた。
ミオだった。
机の方へ戻ってくる。
どうやら何か忘れたらしい。
そして途中で止まった。
陽華の手元を見ている。
その視線を追って、陽華も紙を見る。
(あ)
ものすごく気まずい。
「飯村さん」
「はい」
「あの……これ」
紙を少し持ち上げる。
ミオが近づいてくる。
目を細めるようにして絵を見る。
「……それ、拾ったんですか」
「うん」
言ってから陽華は首を振った。
「いや、うんじゃなくて、ごめん。勝手に」
ミオは紙と陽華を交互に見る。
怒っているようには見えなかった。
ただ、本当に理由が分からないという顔だった。
「なんでですか」
「え?」
「なんで拾ったんですか」
聞かれて当然だった。
(なんでだろ)
陽華は紙を見る。
「気になって」
「これが?」
「うん」
ミオが少し黙った。
陽華は迷ってから聞いた。
「なんでこれ捨てたの?」
今度はミオが紙を見る。
しばらくして、小さく答えた。
「なんか違ったから」
「違った?」
「うん」
「どこが?」
「どこっていうか……」
ミオは少し考える。
「課題で描く感じじゃないかなって」
「そうなの?」
「多分」
曖昧な返事だった。
でもミオ自身も、それ以上うまく説明できないように見えた。
陽華はもう一度絵を見る。
そして二枚目を思い出す。
確かに二枚目の方が課題らしい。
先生に見せるなら、あちらなのかもしれない。
それでも。
「私、こっちの方が好きかも」
言った後で、自分でも少し驚いた。
ミオが顔を上げる。
「……こっち?」
「うん」
陽華は紙を指さす。
「うまく言えないんだけど、こっちの方が見てたくなる」
ミオは何も言わない。
「二枚目の方がちゃんとしてるとは思うんだけど」
「こっちはなんか……動いてる感じがするっていうか」
自分で言っていて恥ずかしくなる。
「ごめん、変なこと言ってるね」
「いえ」
ミオは紙を見たままだった。
「私には、こういうの描けないから」
その言葉には、ミオが少しだけ反応した。
「描けない?」
「うん」
「私、たぶん最初に形をちゃんと取ろうとするから」
「こうやって線残したままとか怖くてできない」
陽華は笑った。
「さっきも先生に決めすぎるなって言われたし」
ミオは陽華を見る。
それからまた紙を見る。
「でも松澤さんの、丁寧ですよね」
「それ前も言ってくれたね」
「そうでしたっけ」
「言ったよ」
「……そうでした」
少しだけミオの口元が緩んだ。
陽華もつられて笑った。
ほんの短い時間だったけれど、前より話しやすい気がした。
◇
陽華は紙をミオへ差し出した。
「ごめんね、勝手に拾って」
ミオは受け取る。
「別にいいです」
「ほんと?」
「もう捨てたので」
そう言って、ミオはゴミ箱を見る。
紙を持った手が少し動く。
陽華は何も言わなかった。
ミオも何も言わない。
数秒そのままで、やがて紙を半分に折った。
(やっぱり捨てるのかな)
そう思った。
けれどミオはゴミ箱には向かわなかった。
鞄を開ける。
折った紙を、その中へ入れた。
陽華は少しだけ驚いた。
「捨てないの?」
聞いてから、余計なことを言ったと思った。
ミオは鞄を閉じる。
「……今日は」
それだけだった。
陽華は小さく頷く。
「そっか」
ミオは机の上に残っていた消しゴムを取った。
忘れ物はそれだったらしい。
「じゃあ、お疲れさまです」
「うん。お疲れさま」
ミオが教室を出ていく。
陽華はその後ろ姿を見送った。
前だったら、ここでまた見てしまったと思っていたかもしれない。
今日は少し違った。
飯村ミオ。
自分とは全然違う絵を描く人。
自分なら消してしまう線を残して、自分なら捨てられないような絵を簡単に捨てる人。
(やっぱり、よく分からない)
それでも嫌ではなかった。
むしろ、もう少し見てみたいと思った。
◇
廊下を歩きながら、ミオは鞄の中の紙を思い出していた。
途中でやめた絵。
もういらないと思ったから捨てた。
それなのに陽華は拾った。
「私、こっちの方が好きかも」
上手いとは言われなかった。
すごいとも言われなかった。
もっとできるとも言われなかった。
好き。
それだけだった。
(捨てたのに)
ミオは歩きながら鞄へ少し触れた。
中には、書きかけの絵が残っている。
完成させるつもりはなかった。
誰かに見せるつもりもない。
多分、家に帰ってもそのままだと思う。
それでも今日は、捨てなかった。




