第5話『見ていた人』
第5話『見ていた人』
教室の後ろで扉が開く音がした。
ミオは振り返らなかった。
窓の外では白い雲がゆっくり流れている。
木の枝が風に押されて、また戻った。
(今日は風ある)
しばらく眺めてから、ミオは机へ視線を戻した。
ノートの位置を直していると、少し離れたところから声が聞こえる。
「おはようございます」
「おはようございます」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げる。
陽華と遥斗が話している。
「昨日の課題、続きやりました?」
「やってないです」
「俺もです」
「よかった」
「よかったんですかね」
「たぶん」
二人が少し笑う。
入学してまだ数日なのに、最初の日よりずっと自然に話しているように見えた。
(歳近いもんね)
自己紹介で聞いた年齢を思い出す。
陽華が二十八歳で、遥斗が二十六歳。
十八歳の自分とは随分違う。
同じ教室にいると忘れそうになるけれど、十歳違う。
ミオはもう一度だけ二人を見てから、ノートへ視線を戻した。
昨日までは、陽華のことも年上の同級生としか思っていなかった。
今は少しだけ違う。
自分の絵を見ていた人。
それだけだった。
◇
授業が始まると、教室の声が静かになった。
先生が黒板へ言葉を書き、それを説明していく。
ミオもノートへ写した。
話を聞きながら、必要なところだけ書く。
少しして顔を上げると、窓の向こうが目に入った。
さっきより雲が動いている。
白かった端のところが、今は少し灰色になっていた。
(あそこだけ暗い)
何となく見ていた。
絵にしようと思ったわけではない。
ただ目に入ったから見ていた。
先生が黒板へ何か書き始めたので、ミオも前へ戻る。
少し遅れて文字を書き写す。
しばらくして、また窓を見る。
枝が揺れるたびに、葉の表と裏が入れ替わって見えた。
光り方も変わる。
ぼんやり追っていると、先生の声が止まった。
「飯村、空に何かいい絵のアイデアが浮かんでるのか」
何人かがこちらを見る。
小さく笑う声もした。
ミオは前を向いた。
「……いえ、特には」
「そうか。見つかったら先生にも教えてくれ」
また少し笑いが起きる。
先生はそのまま授業へ戻った。
ミオもノートへ視線を落とす。
(見てただけなのに)
怒られたわけではない。
先生も本気で注意したわけではないだろう。
それでも、見ていたことまで見られていたのが少しだけ面倒だった。
鉛筆を持ち直す。
その時、何となく顔を上げた。
陽華がこちらを見ていた。
少しだけ口元が笑っている。
目が合いそうになると、陽華はノートへ視線を戻した。
(先生が言ったからか)
それなら別におかしくない。
クラスの何人かも見ていた。
ミオも前へ戻った。
けれどしばらくして、また何となく視線を感じた。
顔を上げる。
今度は陽華が先に前を向いたように見えた。
(……また?)
気のせいかもしれない。
昨日も絵を見られていたから、そう思うだけかもしれない。
ミオは少しだけ自分の髪へ触れた。
変なところはない。
制服でもないから、服装がおかしいということも多分ない。
考えているうちに先生の説明が先へ進んだ。
ミオは慌ててノートへ戻った。
◇
休み時間になると、教室の中が一気に騒がしくなった。
前の席の女の子が振り返る。
「飯村さん、めっちゃ空見てたね」
ミオは少し考えた。
「そんな見てた?」
「先生に見つかるくらいには」
「そうなんだ」
女の子が笑う。
「なんかあったの?」
「別に」
「ほんとに見てただけ?」
「うん」
「それ逆にすごいね」
何がすごいのか分からない。
ミオが首を傾げると、女の子はまた笑った。
別の子に呼ばれて、そのままそちらへ行く。
ミオは次の授業のプリントを出した。
教室の中では、あちこちで話が続いている。
一人で座っている人もいるし、何人かで集まっている人もいる。
別に自分だけが一人というわけでもない。
ミオはプリントへ目を落とした。
少しして、また声が聞こえる。
陽華と遥斗だった。
「さっきの最後のところ、分かりました?」
「最後?」
「先生が言ってた、形より先に見るってところ」
「ああ……たぶん」
陽華が少し困ったような顔をしている。
遥斗も似たような顔だった。
「私も途中から分からなくなりました」
「ですよね」
「でも榊原さん、ちゃんと聞いてたじゃないですか」
「聞いてても分からないものは分からないです」
陽華が笑った。
昨日もそうだった。
少し固そうに見えるのに、遥斗と話している時は割とよく笑う。
何となく見ていると、陽華の顔がこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
陽華がすぐ遥斗へ視線を戻す。
少しして、遥斗もこちらを見た。
陽華に何か聞いたらしい。
陽華が慌てたように答えている。
何を言っているのかまでは聞こえない。
(やっぱり見てた)
今度は気のせいではなさそうだった。
昨日は絵を見ていた。
今日は自分を見ている。
理由が分からない。
(何なんだろ)
嫌な感じはしない。
でも少し気になる。
ミオはプリントへ目を戻した。
しばらく文字を読んでみたけれど、内容があまり頭へ入ってこなかった。
◇
次の授業では、なるべく前を見ることにした。
別に先生にまた言われたくないからではない。
陽華を気にしているわけでもない。
(普通に授業聞けばいいだけ)
そう思ってノートを取る。
先生の話を聞く。
分からないところには小さく印をつける。
それだけしていればいい。
少しして、視界の端に陽華が入った。
ノートへ何かを書いている。
一度止まって、黒板を見る。
また書く。
昨日の実習でもそうだった。
何度も見て、確かめながら描いていた。
丁寧だと思ったのは、そのせいかもしれない。
(真面目なんだ)
自分のことを何度も見てくる人。
そんな印象だけだったはずなのに、昨日より少しだけ別のところも見える。
ミオは前へ視線を戻した。
何で陽華のことを見ているのか、自分でもよく分からなかった。
人のことを気にしている場合でもない。
そう思った時、窓の外が明るくなった。
雲の隙間から光が落ちている。
思わずそちらを見る。
さっきまで灰色だったところが白く光っていた。
鳥が一羽、校舎の向こうを横切る。
そのまま少しだけ見ていた。
ふと顔を戻そうとして、陽華が目に入った。
陽華も窓の外を見ている。
(松澤さんも空見るんだ)
少し意外だった。
何を見ているのかまでは分からない。
雲かもしれないし、鳥かもしれない。
ただ同じ方向を見ていた。
それだけなのに、妙に残った。
陽華が先にノートへ戻る。
ミオも前を向いた。
(何見てたんだろ)
今度は自分が少し気になった。
◇
授業が終わると、教室のあちこちで椅子を引く音がした。
帰る人もいれば、まだ話している人もいる。
ミオもノートと筆箱を鞄へ入れる。
少し離れたところで遥斗の声がした。
「松澤さん、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
「また明日」
「また明日」
遥斗が教室を出ていく。
ミオも鞄を持って立ち上がった。
その時、陽華と目が合った。
今日は何度目だろうと思うより先に、口が動いた。
「お疲れさまです」
「あ、お疲れさま」
それだけだった。
ミオはそのまま教室を出た。
廊下を歩く。
階段へ向かいながら、ふと今日のことを思い出した。
先生に空を見ているところを見つかったこと。
何度か陽華と目が合ったこと。
同じ窓の外を見ていたこと。
(今日、何回目合ったんだろ)
数えようとして、やめた。
別に数えるようなことでもない。
昨日、自分の絵を見ていた人。
今日は、自分の方を何度も見ていた人。
松澤陽華。
昨日より少しだけ、その名前が頭に残っていた。




