第4話『飯村ミオ』
第4話『飯村ミオ』
教室には、もう何人か来ていた。
入口の近くでは昨日の課題について話している子がいて、窓側ではスマートフォンを二人で覗き込んで笑っている。
ミオはその間を通って自分の席へ向かった。
「飯村さん、おはよう」
「おはようございます」
近くの席の子に声をかけられれば返す。
それ以上は特に話さない。
嫌いなわけではないし、話したくないわけでもない。
ただ何を話せばいいのか考えるくらいなら、一人でいる方が楽だった。
鞄からノートを出して机へ置く。
顔を上げると、窓の向こうに薄い雲が伸びていた。
端の方だけ少し明るい。
(昨日より白い)
何が昨日よりなのか自分でもよく分からない。
でもそう見えた。
少しだけ眺めてから、ミオは前を向いた。
その時、昨日聞いた言葉が何となく頭へ戻ってきた。
「……さっきの絵、上手だったね」
松澤陽華。
二十八歳。
自己紹介でそう言っていた。
クラスの中ではかなり年上だったから、それだけは覚えていた。
その陽華が昨日、自分の絵を見ていた。
(上手、か)
聞き慣れた言葉だった。
◇
最初に絵を褒められたのがいつだったのか、ミオはもう覚えていない。
気づいた時には描いていた。
紙があれば鉛筆を持った。
色鉛筆があれば色をつけた。
白いところが残っていると、何か描きたくなった。
小さい頃は、それだけだった。
「ミオ、これ描いたの?」
母が一枚の紙を持ち上げる。
「うん」
「すごいね」
その言葉が嬉しかった。
褒められることも嬉しかったし、自分の描いたものを誰かが見てくれることも嬉しかった。
学校でも絵を描いた。
先生にも褒められた。
コンクールへ出した絵が賞を取ったこともあった。
「また賞取ったの?」
「すごいじゃん」
周りが喜んでくれると、ミオも嬉しかった。
だからまた描いた。
次も描いた。
描けばまた誰かが見てくれた。
いつからだったか、飯村ミオといえば絵ということになっていた。
それも最初は別に嫌ではなかった。
好きで描いていたのだから、間違ってもいない。
ただ、少しずつ言葉が変わった。
「次はもっと上を狙えるんじゃない?」
「ミオならできるよ」
期待されることが増えた。
賞を取れば次の賞の話をされた。
上手いと言われた後には、もっと上手くという言葉がついてくるようになった。
一度、いつもとは少し違う絵を描いたことがあった。
自分では嫌いではなかった。
むしろ描いている時は楽しかった。
けれどそれを見た同級生が、首を傾げた。
「これミオの?」
「うん」
「へえ。なんか普通だね」
悪気はなかったと思う。
その子はすぐ別の話を始めた。
ミオも何も言わなかった。
ただ、その言葉だけが妙に残った。
(普通なんだ)
普通なら駄目なのかとは聞けなかった。
自分でも、何が引っかかったのかよく分からなかった。
◇
高校へ入っても絵は描いていた。
描き始めれば楽しかった。
線を引いて、消して、また引く。
思った色が出れば嬉しい。
気に入らなければ重ねる。
そうしている間は、余計なことを考えなくて済んだ。
問題は、その後だった。
完成すれば誰かに見られる。
見られれば何か言われる。
「今回はちょっと違うね」
「ミオならもっとできると思ってた」
「でもやっぱり上手いよね」
良くても悪くても、最後には飯村ミオの話になる。
絵そのものを見られているのか、自分についた何かを見られているのか、だんだん分からなくなった。
途中まで描いて、そのまま閉じた絵が増えた。
完成させなければ評価されない。
誰にも見せなければ、何も言われない。
それでもスケッチブックだけは捨てられなかった。
授業中に窓の外を見ることもあった。
雲の形が変わる。
電線に鳥が止まる。
風が吹けば葉の裏側が見える。
そういうものを見つけると、何となく目で追った。
(あそこ、描いたら変かな)
そう思っても、描かないこともあった。
頭の中だけで線にして終わる。
それでも別に困らなかった。
◇
進路の話になると、また絵だった。
「ちゃんと基礎を勉強した方がいいんじゃない?」
「せっかく描けるんだから」
せっかく。
その言葉もよく聞いた。
ミオ自身は、絶対に絵の学校へ行きたいと思っていたわけではなかった。
かといって、別にやりたいことがあるわけでもない。
気づいたら専門学校の資料が家にあって、見学へ行って、試験を受けていた。
そして今ここにいる。
(別に嫌ではないけど)
それが一番近かった。
嫌ではない。
授業もつまらなくはない。
紙を渡されれば描く。
鉛筆を持てば手は動く。
昨日の実習もそうだった。
目の前に置かれたものを見て、描いた。
形を全部同じように追うより、気になるところから線を置いた。
少し濃いところ。
角度が変わるところ。
光が当たって、輪郭が消えかけているところ。
描いている途中で、視線を感じた。
顔を上げる。
少し離れたところで、陽華がこちらを見ていた。
すぐ目が合ったわけではない。
でも多分、絵を見ていた。
(何だろ)
それだけ思って、ミオはまた紙へ戻った。
◇
授業が終わった後、陽華と遥斗が課題のことで話していた。
二人とも最後の説明を聞き逃したらしい。
「途中で大丈夫だと思います」
近くにいたから答えただけだった。
遥斗が礼を言う。
それで終わると思っていた。
けれど陽華が少し迷ってから自分を呼んだ。
「飯村さん」
顔を上げる。
「はい」
「……さっきの絵、上手だったね」
まただと思った。
上手い。
昔から何度も聞いた。
珍しい言葉ではない。
だから、どう返せばいいのか少し迷った。
「見てたんですか」
「あ、ごめん。ちょっと見えただけで」
「別に、大丈夫です」
陽華は少し慌てていた。
見ていたことを悪いと思ったらしい。
その反応が、ミオには少し意外だった。
自分も陽華の絵は見えていた。
きっちり線を取って、何度も確かめながら描いていた。
自分とは違う。
丁寧だった。
「松澤さんのも見えました」
「え」
「丁寧だなって思いました」
陽華が黙る。
少しして、
「……ありがとう」
と返ってきた。
褒め返したつもりはなかった。
そう見えたから言っただけだった。
「俺のは?」
横から遥斗が言う。
「榊原さんのは見てないです」
「ですよね」
陽華が笑った。
思っていたより、普通に笑う人なんだと思った。
自己紹介の時は緊張していたのか、もっと固い人に見えた。
その顔だけ、少し印象に残った。
◇
家に帰ってから、ミオは机の上でスケッチブックを開いた。
学校の課題ではない。
誰かに見せるものでもない。
何を描くかも決めていない。
鉛筆を持って、何となく線を引いた。
窓の外で見た木の枝。
そこから雲みたいな形になって、途中で別のものに変わった。
別に完成させなくてもいい。
誰も見ない。
上手くなくてもいい。
紙の上に線が増えていく。
それだけでよかった。
ふと手が止まった。
「……さっきの絵、上手だったね」
また陽華の声が浮かんだ。
(同じなのに)
昔から何度も言われた言葉だ。
特別なことは何もない。
なのに今度は、言葉だけじゃなく陽華の顔まで一緒に出てきた。
少し困ったように笑っていた顔。
(変な人)
自分でそう思ってから、ミオはまた鉛筆を動かした。
◇
翌朝。
教室へ入ると、昨日とほとんど同じ席に同じような人たちがいた。
もう仲のいい相手ができたらしい子たちは朝から話している。
ミオは挨拶を返しながら自分の席へ向かった。
鞄を置いて、ノートを出す。
窓の外を見る。
空は薄く晴れていた。
白い雲がゆっくり流れている。
木の枝が風で揺れて、その隙間から光がちらちら見えた。
(今日は風ある)
それをしばらく眺める。
教室の後ろで扉が開く音がした。
誰かが入ってきたらしい。
ミオは振り返らなかった。
まだ空を見ていた。




