第3話『窓の向こう』
第3話『窓の向こう』
昨日見た絵が、まだ少し頭に残っていた。
上手かったからというだけではない。
何が違ったのかと聞かれても、陽華にはうまく説明できそうになかった。
それなのに教室へ入ると、昨日より早く飯村ミオの姿を見つけてしまった。
(いる)
斜め前の席で、ミオは鞄からノートを出していた。
相変わらず誰かと積極的に話している様子はない。
近くの席では二人の女の子が昨日の課題について話していて、その後ろでは男の子が眠そうに机へ突っ伏している。
ミオもその中にいる一人でしかないはずなのに、今日はそこだけ先に目に入った。
(昨日の絵のせいかな)
そういうことにして、陽華は自分の席へ向かった。
「おはようございます」
鞄を置いたところで声がして、陽華は振り返った。
遥斗だった。
「おはようございます」
「昨日の課題、続きやりました?」
「やってないです」
「俺もです」
「よかった」
「よかったんですかね」
「たぶん」
二人とも少し笑った。
初日に話した時より、こういう会話が楽になっている。
話題を探さなくても学校のことを言えば何となく続くし、止まったら止まったで遥斗は気にしない。
「じゃあ、また後で」
「はい」
遥斗が自分の席へ戻っていく。
陽華もノートを机へ出した。
その途中で、もう一度だけ斜め前を見た。
ミオはもう前を向いていた。
◇
授業が始まると、教室の空気が少し静かになった。
先生が前で説明し、黒板へいくつか言葉を書いていく。
陽華もそれをノートへ写した。
周りでは鉛筆を走らせる音に混じって、ページをめくる音や小さな咳が聞こえる。
前の方では眼鏡の男の子が早速手を挙げて質問していた。
陽華も説明を聞きながらノートを取る。
しばらくして顔を上げた時、何となく視線が斜め前へ向いた。
ミオは窓の外を見ていた。
(……何見てるんだろ)
先生はまだ話している。
ミオのノートを見る限り、途中まではちゃんと書いていたらしい。
ただ今は鉛筆を止めて、窓の向こうを見ている。
陽華もつられてそちらを見る。
見えるのは校舎の一部と空、それから風で揺れている木くらいだった。
特に珍しいものはない。
先生が黒板へ新しい言葉を書き始めた。
陽華は慌ててそちらへ視線を戻した。
少し遅れてミオも前を向き、何事もなかったようにノートへ書き始める。
(聞いてないわけじゃないんだ)
むしろ必要なところはちゃんと聞いているように見える。
だから余計に不思議だった。
陽華も授業へ戻った。
もう気にしないようにしていたのに、しばらくするとまた視線が動いた。
ミオはまた窓の外を見ていた。
(また見てる)
今度はさっきより長い。
先生が話している間も、ミオの視線は窓の向こうへ向いたままだった。
すると先生の声が止まった。
「飯村、空に何かいい絵のアイデアが浮かんでるのか」
教室の何人かがつられるようにミオを見る。
小さく笑う声も聞こえた。
ミオはようやく前を向いた。
「……いえ、特には」
「そうか。見つかったら先生にも教えてくれ」
また少しだけ笑いが起きる。
先生はそのまま何事もなかったように授業へ戻った。
ミオも気にした様子はなく、ノートへ視線を落として鉛筆を動かし始める。
陽華は少しだけ口元を緩めた。
(やっぱり見てたんだ)
自分の気のせいではなかったらしい。
それにしても何をそんなに見ていたんだろう。
窓の向こうには、さっきと同じ空と校舎と木しかない。
(変わった人だな)
そう思いながら陽華は自分のノートへ視線を戻した。
人のことを気にしている場合でもない。
自分だってさっきから授業よりミオの方を見ている。
◇
休み時間になると、一気に教室へ声が戻った。
近くの席同士で話し始める子もいれば、スマートフォンを見る子もいる。
さっき先生に茶化されたことを近くの子から何か言われたらしく、ミオは短く返事をしていた。
笑われたことを気にしている様子もない。
それがまた陽華には少し不思議だった。
陽華が次の授業のプリントを探していると、遥斗が近くまで来た。
「さっきの最後のところ、分かりました?」
「最後?」
「先生が言ってた、形より先に見るってところ」
「ああ……たぶん」
たぶんと言ったものの、自信はない。
「私も途中から分からなくなりました」
「ですよね」
「でも榊原さん、ちゃんと聞いてたじゃないですか」
「聞いてても分からないものは分からないです」
それはそうかもしれない。
陽華は少し笑った。
その時また視線が斜め前へ向いた。
ミオは席に座ったままノートを見ている。
近くにいた女の子から何か聞かれれば普通に答えているけれど、自分から話の輪へ入っていく感じはない。
「どうかしました?」
遥斗の声で、陽華は視線を戻した。
「え?」
「いや、向こう見てたから」
「ああ……別に何でもないです」
遥斗は一度だけ陽華が見ていた方へ目を向けた。
けれど特に何も聞かず、手に持っていたプリントへ視線を戻した。
「これ次も使うみたいですよ」
「あ、ほんとだ」
「捨てなくてよかった」
「危なかったですね」
そのまま話は別のことへ移った。
陽華もミオのことは言わなかった。
別に言うようなことでもない。
昨日少し話しただけの相手を、授業中に何度も見ていたなんて自分でも少し変な気がする。
◇
次の授業でも、ミオは普通に先生の話を聞いていた。
ノートを取り、必要な時だけ顔を上げる。
さっきまで陽華が気にしていたことの方がおかしかったように思えてくる。
陽華も今度こそ授業へ集中した。
しばらくして、先生が資料を読み上げている時だった。
視界の端でミオが動いた気がした。
見ないつもりだったのに、また見てしまった。
ミオは窓の外を見ている。
(まただ)
陽華も少しだけ窓の方へ目を向けた。
午後になって、さっきより空が明るく見えた。
校舎の向こうを鳥が一羽飛んでいく。
木の枝が風で揺れている。
それだけだった。
(何があるんだろ)
何か特別なものを見ているようにも見えない。
ただミオは少しの間だけそこを見ていた。
それから前へ向き直り、また鉛筆を動かす。
陽華も自分のノートへ戻った。
昨日は絵が気になった。
今日は、その絵を描いた人が何を見ているのか気になっている。
そこまで考えて、陽華は少しだけ眉を寄せた。
(私、飯村さんのこと見すぎじゃない?)
自覚すると急に恥ずかしくなった。
別に理由なんてない。
昨日の絵が気になったから、それだけだ。
たぶん。
◇
授業が終わると、あちこちで椅子を引く音がした。
帰る準備を始める人もいれば、そのまま残って話している人もいる。
陽華もノートを鞄へ入れた。
「松澤さん、お疲れさまでした」
遥斗が通りがかりに声をかけてきた。
「お疲れさまでした」
「また明日」
「また明日」
遥斗が先に教室を出ていく。
陽華も鞄を持ち上げたところで、少し離れたところにミオがいるのが見えた。
ミオも帰る準備を終えたらしい。
立ち上がって鞄を持つ。
一瞬だけ目が合った。
「お疲れさまです」
「あ、お疲れさま」
それだけだった。
ミオは先に教室を出ていく。
陽華はその後ろ姿を少しだけ見てから、自分も歩き出した。
昨日は絵を覚えた。
今日は窓の外を見ていたことを覚えた。
飯村ミオ。
まだほとんど知らない人なのに、知らないことが少し気になり始めていた。




