第2話『同じ教室』
第2話『同じ教室』
入学して数日経つと、教室の空気も最初の日とは少し変わっていた。
朝から近くの席同士で話している人もいるし、昨日一緒に帰ったのか、入口から並んで入ってくる子もいる。
陽華には、どうしてそんなに早く仲良くなれるのか相変わらずよく分からなかった。
席に鞄を置いていると、前の方に座っている女の子が振り返った。
「松澤さん、おはようございます」
「おはようございます」
髪を短くした子だった。
名前は昨日聞いたはずなのに、陽華はまだ自信がない。
「今日って鉛筆だけでいいんでしたっけ?」
「あ、たぶん。昨日先生がそんなこと言ってたと思います」
「よかった。なんかいっぱい持ってきちゃって」
女の子が笑う。
「心配で」
「分かります」
そこまでは普通に話せた。
でも、その先が出てこない。
相手も何か待っているような気がして、陽華は少し焦った。
(何話したらいいんだろ)
学校のことなら話せる。
絵のことも、たぶん話せる。
でも何となく、それだけじゃ会話にならない気がした。
「松澤さんって、前も絵やってたんですか?」
やっぱり敬語なんだな、と陽華は思った。
「高校の時に少し」
「美術部とか?」
「うん。美術部」
「へえ、すごい」
すごいというほどでもないんだけど。
そう返そうとして、やめた。
「そっちは?」
「高校でちょっとだけです。でも全然で」
女の子が笑って、ちょうど友達らしい子に呼ばれた。
「じゃあまた」
「うん。また」
会話が終わると、陽華は少しだけ肩の力を抜いた。
嫌な感じはしない。
むしろ話しかけてくれるのはありがたい。
ただ、十八とか十九とか、そのくらいなんだろうなと思うと、どうしても少し構えてしまう。
自分から近づいたら年上ぶっているみたいにならないだろうかとか、逆に若い子に合わせようとして変にならないだろうかとか、考えなくていいことまで考えてしまう。
(同級生なんだから、普通でいいんだけど)
その普通が難しい。
「おはようございます」
聞き覚えのある声がして振り向くと、遥斗が鞄を持って立っていた。
「あ、おはようございます」
「今日、鉛筆だけでよかったですよね」
「たぶん」
「よかった。俺もそれしか持ってきてないんで」
「私もさっき聞かれました」
「みんな不安なんですね」
「みたいです」
それだけの会話なのに、さっきより楽だった。
遥斗も無理に次の話を探さない。
陽華も何か言わなきゃとは思わなかった。
(やっぱり年齢かな)
二歳しか違わない。
それだけでこんなに違うものなのかは分からないけれど、少なくとも十八歳の子と話す時みたいな変な緊張はなかった。
「じゃ、また後で」
「はい」
遥斗は自分の席へ向かった。
陽華はその背中を見ながら、昨日より少しだけ名前と顔が自然につながるようになった気がした。
◇
最初の実習が始まると、教室は思っていたより静かになった。
さっきまで話していた人たちも、それぞれ机に向かっている。
鉛筆が紙の上を走る音が、あちこちから聞こえてきた。
今日は置かれたモチーフを見ながら描く簡単な課題だった。
簡単、と先生は言った。
でも陽華にはあまり簡単には思えない。
形を取って、描いて、少し離れて見る。
違う気がして消して、また描く。
久しぶりに誰かと同じ場所で絵を描いているせいか、いつもより周りが気になった。
前の席の子は線を引くのが速い。
少し離れたところでは、眼鏡をかけた男の子が何度も先生を呼んで質問している。
隣同士の二人は小声で何か言い合いながら、互いの紙を覗き込んでいた。
みんな普通に描いている。
(上手い人、多いな)
分かっていたはずだった。
絵を学びに来る場所なんだから、描ける人がいるのは当たり前だ。
それでも実際に同じ教室で描くと、思っていたのとは少し違った。
自分よりずっと若い子が、迷いなく線を置いている。
それを見ると、別に競争しているわけでもないのに少し落ち着かない。
陽華は自分の紙へ視線を戻した。
もう一度形を取ろうとしたところで、斜め前に座っている子が目に入った。
髪の色で分かった。
(あの子だ)
入学初日に、綺麗な髪だと思った子。
名前は――。
(飯村さん)
たしか十八歳。
ミオは周りをほとんど見ずに描いていた。
姿勢も特別変わったところはないし、目立つようなことをしているわけでもない。
ただ黙って、紙を見ている。
陽華はすぐ自分の絵へ戻ろうとした。
けれど少しして、また見てしまった。
ミオの紙に置かれている線が気になった。
速いわけではない。
細かく描き込んでいるわけでもない。
それなのに、陽華が見ていたものと少し違うものを見ているような気がした。
上手い。
たぶん上手いんだと思う。
でも、それだけじゃない。
(十八歳で、こんな絵描くんだ)
思った瞬間、陽華は自分で少し嫌になった。
十八歳だから何だという話だ。
若くても上手い人なんていくらでもいる。
それでも気になった。
先生が教室を回ってきたので、陽華は慌てて自分の紙へ視線を戻した。
◇
授業が終わる頃には、教室の中にまた声が戻ってきた。
「これ次までに仕上げるんだっけ?」
「途中でもいいって言ってなかった?」
「え、どっち?」
あちこちで同じような話をしている。
陽華も聞いていたつもりだったのに、最後の説明が少し曖昧だった。
プリントを見ても、それらしいことは書いていない。
「松澤さん」
顔を上げると遥斗がいた。
「これ、次までに完成でしたっけ」
「私も今それ考えてました」
「ですよね」
「途中でもいいって言ってたような……」
「俺は完成って聞こえたんですよね」
二人で困っていると、すぐ近くから小さな声がした。
「途中で大丈夫だと思います」
陽華と遥斗が同時にそちらを見る。
ミオだった。
ミオは自分の紙を片付けながら、こちらを見ている。
「最後に、続きは次の授業でって言ってました」
「あ、そうだったんですね」
「ありがとうございます」
「いえ」
ミオはそれだけ言うと、また手元へ視線を戻した。
陽華は少し迷った。
授業中に見ていた絵のことが頭に残っている。
でもいきなり絵のことを言うのも変な気がした。
しかも十八歳。
さっきまで自分で年齢を気にしていたのを思い出す。
(どうしよう)
何も言わないまま終わるのも、それはそれで気になった。
「飯村さん」
ミオが顔を上げる。
「はい」
「……さっきの絵、上手だったね」
言ってから、なんだか年上が褒めているみたいに聞こえた気がして陽華は少し後悔した。
ミオは一瞬だけ目を丸くした。
「見てたんですか」
「あ、ごめん。ちょっと見えただけで」
「別に、大丈夫です」
ミオは少し間を置いてから、自分の紙を見た。
「松澤さんのも見えました」
「え」
「丁寧だなって思いました」
今度は陽華が言葉に詰まった。
褒められると思っていなかった。
「……ありがとう」
「はい」
また会話が止まった。
横にいた遥斗が二人を見ている。
「俺のは?」
「榊原さんのは見てないです」
「ですよね」
遥斗が普通に返したので、陽華は思わず笑った。
ミオもほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
その直後、後ろの方から誰かがミオを呼んだ。
「飯村さん、これ先生に出すんだっけ?」
「たぶん机の上です」
ミオがそちらへ向く。
すぐに別の会話が始まった。
陽華も遥斗も、それ以上ミオを引き止めなかった。
教室には他にも人がいる。
それぞれが話して、それぞれが片付けて、それぞれ帰る準備をしている。
その中で、今たまたま三人で少し話した。
それだけだった。
「じゃあ俺も帰ります」
「あ、はい」
「また明日」
「また明日」
遥斗が先に教室を出ていく。
陽華も鞄を持ち上げながら、少し離れたところにいるミオを見た。
昨日までは髪の色しか覚えていなかった。
今日は絵を覚えた。
そして少しだけ、声も覚えた。
友達になったわけじゃない。
遥斗とも、ミオとも、まだそんな距離ではない。
それでも昨日より、この教室に知っている人が増えた気がした。




