第1話『春、もう一度』
第1話『春、もう一度』
門をくぐったところで、松澤陽華は少しだけ足を止めた。今日から通うことになる校舎は、外から見れば別に変わったところなんてない。それなのに門の内側へ入った途端、本当に来てしまったんだという感じがした。
周りには同じように鞄を持った学生が何人もいる。友達なのか、もう隣同士で話している人までいた。入学式もまだなのに早くない? なんて思いながら、陽華は肩に掛けた鞄の紐を握り直した。
(二十八歳で、また学生か)
何度も考えたことなのに、ここで考えると妙に重い。二年間通えば、卒業する頃には三十歳だ。
だから何だと言われれば、それまでなのかもしれない。でも陽華にとっては、だから何だで済ませられる数字でもなかった。
(……まだ始まってもないし)
ここまで来て帰るわけにもいかない。
陽華は一度だけ息を吐くと、前を歩く人たちについて校舎へ向かった。
◇
入学式が終わって教室へ入った頃には、陽華はもう少し疲れていた。座って話を聞いていただけなのにと思う。でも知らない人が大勢いる場所は、それだけで気を使う。
指定された席に座って筆記具を出す。周りを見ると、もう近くの席の人と話している子が何人もいた。
(なんで普通に話せるんだろ)
陽華には昔からよく分からない。
話しかけられれば答えられる。でも自分から最初の一言を出すとなると、それだけで急に難しくなる。
やがて担任から一通り説明があり、最後に簡単な自己紹介をすることになった。名前と年齢、それから一言くらいでいいらしい。
(年齢も言うんだ……)
嫌というほどでもない。でも、できればさらっと終わらせたかった。
前の席から順番に一人ずつ立っていく。陽華も最初は名前を覚えようとしていたが、三人、四人と続くうちにだんだん怪しくなってきた。
十八歳。十九歳。二十歳。
聞こえてくる数字はやっぱり若い。
分かっていた。専門学校なのだから、これくらいの年齢が多いことくらい分かっていた。それでも実際に同じ教室で聞くのとは少し違う。
(やっぱり私、上の方だよね……)
そんなことを考えていた時、一人の男が席を立った。
「榊原遥斗です。二十六歳です。よろしくお願いします」
それだけ言って、すぐに座った。
別に愛想が悪いわけではない。でも、みんなと仲良くしようと頑張っている感じもしなかった。
(二十六歳)
名前より先に、そっちが残った。
二つ違い。
たったそれだけなのに、さっきまでより少しだけ気が楽になった。
「飯村ミオです。十八歳です。よろしくお願いします」
今度は女の子だった。
陽華もそちらを見たけれど、声も小さめで、なるべく目立ちたくないのかなというくらいしか思わなかった。顔も名前も、この時はまだちゃんと覚えられそうにない。
(髪、綺麗だな)
それだけは目に残った。
光が当たった時の髪の色が綺麗で、少し見てしまっただけだった。
そして自己紹介が進み、とうとう陽華の番になる。
立ち上がる。
教室にいる人たちの顔がこちらを向く。
(早く終わろ)
「松澤陽華です。二十八歳です。よろしくお願いします」
短く頭を下げて座る。
それだけだったのに、座った瞬間にどっと力が抜けた。
(終わった……)
何かもう一言くらい言えばよかったのかもしれない。でも思いつかなかったし、無理に言って変なことになるよりはいい。
陽華は机の上を見ながら、さっき聞いた自己紹介をぼんやり思い返した。
榊原遥斗。二十六歳。
そこだけは、ちゃんと覚えていた。
◇
一日の予定が終わると、教室の空気は急に緩くなった。近くの席の子と話し始める人もいれば、そのまま一緒に教室を出ていく人もいる。
陽華は配られた書類を揃えて鞄へ入れた。
今日は帰ろう。
というより、今日はもう十分だった。
(明日から授業だし、そのうち話すこともあるでしょ)
そう思って鞄を閉じたところで、近くから声がした。
「松澤さん、ですよね」
自分の苗字だったので、陽華は顔を上げた。
男の人が一人立っている。
誰だっけ。
そう思ったのは一瞬だった。
(二十六歳の人)
「あ……榊原さん」
「はい」
遥斗が少し驚いたような顔をした。
「覚えてたんですね」
「年齢が近かったので」
「俺もです。二十八って聞いて、近いなと思って」
「二つ違いですね」
「ですね」
そこで止まった。
(……終わった?)
陽華は一瞬だけ焦った。
せっかく向こうから話しかけてくれたのに、何か話した方がいい気がする。でも何を言えばいいのかが出てこない。
ところが遥斗も、無理に次の話を探しているようには見えなかった。
ただそこに立っている。
沈黙になっているのに、急かされる感じがしない。
(あれ……思ったより平気かも)
「周り、若いですね」
「……思いました」
「やっぱり」
「榊原さんが二十六って聞いて、ちょっと安心しました」
「俺もです」
遥斗が少しだけ笑った。
それでまた会話が止まる。
でも今度は、陽華もさっきほど気にならなかった。
どうしてこの学校に来たのかも知らない。前は何をしていた人なのかも知らない。
遥斗も聞いてこなかった。
そのくらいでいい気がした。
初日から自分のことを全部話したいわけじゃないし、相手のことを全部知りたいわけでもない。
ただ年齢が近くて、少し話せた。
今はそれで十分だった。
「じゃあ、また明日」
「あ、はい。また明日」
遥斗は軽く頭を下げて、先に教室を出ていった。
陽華はその後ろ姿を見送ってから、自分も鞄を肩に掛ける。
友達ができた、なんて言うほどではない。
名前を覚えて、少し話しただけ。
それでも明日ここへ来れば、まったく知らない人しかいないわけではなくなった。
朝よりほんの少しだけ、それが楽だった。




