第75話『一本目』
第75話『一本目』
放課後、玲奈は自分の席に座ったまま、教室に残っている学生たちをぼんやり眺めていた。
片づけを終えて帰る人もいれば、まだ友達と話している人もいる。
玲奈は鞄から小さなクロッキー帳を取り出した。
何となくページをめくっていく。
授業中に描いた人。
休み時間に描いた人。
歩いている人。
椅子に座っている人。
何枚かめくったところで、指が止まった。
何も描かれていない白いページだった。
前にここまで開いて、そのまま閉じたことを思い出す。
あの時は、何か描くならと思ったところで手が止まった。
玲奈は白いページをしばらく見てから顔を上げた。
少し離れた席で、クラスメイトが鞄に荷物をしまっている。
机の上に広げた道具を一つずつ片づけながら、ときどき隣の学生と話していた。
玲奈はその姿を見る。
肩の傾き。
椅子に座ったまま少し横を向いた体。
鞄へ伸びている腕。
玲奈は鉛筆を持った。
白い紙へ先端を置く。
一本、線を引いた。
そこから肩を描き、背中へ線をつなげる。
腕を描く。
手元を描く。
いつものように、人から描き始めた。
クラスメイトが少し姿勢を変える。
玲奈はさっきの形を思い出しながら線を足した。
人物の形が少しずつ紙の上に出てくる。
そこまで描いたところで、玲奈の鉛筆が人物の外へ伸びた。
座っている椅子の背。
その前にある机。
机の向こうに見える窓の枠。
玲奈は一度、手を止めた。
(……また、周りまで描いてる)
合同授業の時は、そういう課題だった。
人物だけではなく、その周りの空間まで描くように言われていた。
今日は違う。
誰にも何を描けとは言われていない。
玲奈は紙を見る。
人物だけなら、もう十分だった。
いつもなら、このあたりで次の人を探していたかもしれない。
それでも、まだ鉛筆を置く気にはならなかった。
玲奈はもう一度クラスメイトを見る。
その人は変わらず同じ椅子に座り、同じ机の前で荷物をしまっている。
玲奈は机の端を描いた。
窓を少しだけ広げる。
椅子の脚も足した。
場所を描きたいわけではない。
窓を描きたいわけでもない。
ただ、その人を見ていると、その人がそこにいることまで少し気になった。
やがてクラスメイトが立ち上がった。
「じゃあね」
「うん、また明日」
短い声が聞こえ、そのまま教室を出ていく。
玲奈は追いかけて描こうとはしなかった。
紙の上には、さっきまでそこにいた姿が残っている。
人物がいて、椅子があって、机があって、その向こうに窓がある。
玲奈はクロッキー帳を少し離して見た。
(……前と違う)
人物が中心なのは変わらない。
人を描くのが好きなのも変わっていない。
なのに、最近はその周りにも線が伸びる。
どうしてなのかは、まだよく分からなかった。
玲奈の頭に、市のコンクールのことが浮かぶ。
陽華たち三人が出ると聞いた時のことも思い出す。
玲奈は自分の描いたページを見る。
これを出したいと思ったわけではない。
自分も出ようと決めたわけでもない。
何を描くのかさえ、まだ決まっていない。
それでも、前にこのページを開いた時とは違う。
あの時は白いまま閉じた。
今は、もう白くない。
玲奈はしばらく描いたページを見ていた。
それから、ゆっくり次のページをめくった。
隣には、また何も描かれていない白い紙がある。
玲奈はクロッキー帳を閉じなかった。
鉛筆を持ったまま、その白いページへ視線を移した。




