第72話『そこにいる人』
第72話『そこにいる人』
合同授業から何日かが過ぎた。
朝、家を出た時の空気は前より冷たくなっていた。
吐く息が白くなるほどではない日もあるけれど、陽華は上着の前を閉じて駅まで歩くことが増えた。
学校を出る頃にはもう空が暗く、駅前では店の明かりが以前より早く目に入る。
季節は少しずつ冬の中へ進んでいた。
学校ではいつも通り授業が続いている。
課題を描いて、昼になれば三人で昼食を食べ、放課後になれば残れる日に少しだけコンクールの絵を進める。
遥斗がアルバイトで先に帰る日もあった。
ミオが授業の課題を終わらせるために、コンクールの絵をほとんど触らない日もあった。
陽華自身も、毎日ラフを増やしているわけではない。
それでも数日前より、机の上に並ぶ紙は増えていた。
人物を大きくしたもの。
街を広く取ったもの。
人物を一人だけ置いたもの。
何人か入れたもの。
待っている人。
歩いている人。
立ち止まっている人。
どれもまだ小さなラフだった。
遥斗の紙にも、同じ道を違う位置から描いたものが増えている。
ミオは夕方の写真と以前から描いていたスケッチを並べ、青の濃さや光の位置を何度も変えていた。
三人とも、少しずつ描くものが狭まってきている。
けれど、まだこれだとは決めていなかった。
その日の放課後も、陽華は机にラフを並べていた。
一枚を手に取る。
街角に一人だけ人物を立たせたものだった。
悪くはない。
でも、何度見ても何かが足りない。
隣の紙には歩いている人がいる。
その次は、誰かを待っているように立っている人。
もう一枚には、二人が少し離れた場所から近づいている様子を描いていた。
陽華は最初の一枚へ戻る。
(人がいるだけだと、違うんだよね)
鉛筆の後ろで頬を軽く押す。
人を描きたいのなら、もっと人物を大きくすればいい。
けれど、そうすると街が小さくなる。
街を描きたいだけなら、人物はいなくてもいいはずだった。
それも違う。
合同授業で人物とその周りを描いた時に感じたものが、まだ残っている。
「陽華さん、また増えましたね」
顔を上げると、遥斗がこちらを見ていた。
「ちょっとだけね」
「人が増えてません?」
「やっぱりそう見える?」
「前よりはいろんな人がいますね」
ミオも自分の紙から顔を上げた。
「待ってる人、多いです」
「え?」
「これと、これと、これ」
ミオが三枚を順番に指す。
陽華は並んだ紙を見る。
確かに一人で立っている人物の中にも、ただ立っているというより誰かを待っているように描いたものが多かった。
「ほんとだ」
「気づいてなかったんですか?」
「そこまで考えてなかったかも」
遥斗が一枚を手に取る。
「これは歩いてますよね」
「うん」
「こっちは?」
「たぶん、誰か来るの待ってる」
「たぶんなんですね」
「まだラフだから」
陽華は笑ってから、並んだ紙をもう一度見る。
人を置いたから気になるわけではない。
同じ一人でも、ただ立っているだけのものより、誰かを待っている方へ目が行く。
「私、人を描きたいっていうのとも少し違うのかも」
「違うんですか?」
「うん。なんて言えばいいんだろう」
陽華は言葉を探しながら、一枚ずつ紙を見る。
「待ってるとか、歩いてるとか……その人がそこで何かしてる方が気になるのかも」
口にしてから、少しだけしっくりきた。
ミオがラフを見る。
「人じゃなくて、何してるか?」
「人もいるんだけどね」
「難しいです」
「私もまだ分かってないよ」
遥斗が紙を机へ戻す。
「でも前より近づいてるんじゃないですか?」
「そうかな」
「最初は人を大きくするか小さくするかで悩んでましたよね」
「あったね、それ」
それほど前のことではないのに、今見ると少し違って感じる。
陽華はラフを重ね直した。
どれを使うかは、まだ決められない。
けれど、次に何を見ればいいのかは少し分かった気がした。
◇
学校を出ると、空はもう暗くなり始めていた。
三人で駅へ向かう。
店の前には明かりが灯り、道路を走る車のライトが濡れてもいない路面を白く照らしている。
陽華は歩きながら、自然と周囲を見るようになっていた。
横断歩道の前で信号を待つ人がいる。
店の前でスマートフォンを見ている人がいる。
少し先では二人組が話しながら歩いている。
どれも普段なら、そのまま通り過ぎていた景色だった。
駅前へ着く。
人の流れの端に、一人で立っている女性がいた。
時々スマートフォンを見ては、顔を上げて人の流れを見る。
誰かを待っているようだった。
陽華は何となく足を緩める。
少しして、離れたところから一人の男性が近づいてきた。
女性がそれに気づく。
さっきまで人の流れを眺めていた顔が変わり、小さく手を上げた。
男性も手を上げる。
二人は何かを話しながら、そのまま並んで歩き出した。
陽華の手が鞄へ伸びた。
スマートフォンを取り出しかけて、止める。
知らない人を勝手に撮るわけにはいかない。
陽華は手を離した。
「陽華さん?」
遥斗が少し先から振り返る。
「ごめん、なんでもない」
陽華は二人が歩いていった方を見る。
誰かを待っていた人。
そこへ誰かが来て、二人で歩き出した。
ほんの少し前まで一人だった場所には、もう誰もいない。
(今の、ちょっと覚えておこう)
陽華はスマートフォンを出さないまま、遥斗とミオのところへ歩いていった。




