第71話『同じ教室で』
第71話『同じ教室で』
陽華が大きいデッサン室へ入ると、いつもの教室よりずっと多くの学生が集まっていた。
今日はA組とB組の合同授業だった。
遥斗とミオと一緒に空いている場所を探していると、少し離れたところに見覚えのある姿があった。
玲奈もこちらに気づく。
ほんの一瞬だけ足を止めてから、玲奈の方から軽く手を上げた。
陽華も手を上げる。
「玲奈ちゃん、おはよう」
「おはよう、陽華さん」
「おはようございます、玲奈さん」
「おはよう、ミオちゃん」
玲奈の視線が遥斗へ向く。
わずかに間が空いた。
「……おはよう、遥斗さん」
「おはようございます、玲奈さん」
それだけだった。
けれど、以前に廊下で会った時よりは自然に見えた。
陽華は何も言わず、そのまま玲奈と少しだけ授業の話をした。
やがて講師が前へ出ると、学生たちの話し声が小さくなっていく。
「今日は人物だけじゃなく、その周りの空間まで一緒に捉えてもらう」
教室の中央には椅子が置かれ、その近くに人物モデルが座っていた。
「四人一組になって、それぞれ違う位置から同じモデルを描いてくれ。人物を大きく取るか、周りをどこまで入れるかは自由だ。最後に四枚を並べて見比べてもらう」
陽華は遥斗とミオを見る。
二人もこちらを見た。
三人だった。
周囲ではすでに組を作り始めている。
誰かいないかと見回していると、少し先にいた男子学生と目が合った。
吉永咲真だった。
同じクラスなので顔も名前も知っているし、遥斗と話しているところも何度か見たことがある。
咲真もまだ組が決まっていないらしく、一人でクロッキーブックを持っていた。
「吉永さん、一緒にやる?」
陽華が声をかけると、咲真は自分を指差した。
「俺ですか?」
「うん」
「俺でいいんですか?」
「なんで?」
「いや、三人いつも一緒じゃないですか。そこに俺なんか入っていいのかなって」
「授業の班だよ?」
「それはそうなんですけど」
遥斗が小さく笑った。
「吉永、考えすぎですよ」
「榊原さんに言われたくないなあ」
「俺、そんなに考えてます?」
「結構考えてると思いますよ」
陽華とミオも顔を見合わせて少し笑った。
こうして四人が決まり、モデルを囲む位置へ移動する。
陽華が場所を決めようとすると、遥斗だけは一度モデルの周りを見てから足を止めた。
少し横へ動き、さらに一歩下がる。
「遥斗さん、そこ?」
「はい。こっちの方が椅子まで入りそうなので」
「この前から位置ばっかり見てるね」
「自分でもそう思います」
遥斗が苦笑しながらクロッキーブックを開く。
ミオは反対側へ回り、モデルの顔と窓を何度か見比べていた。
陽華も自分の場所へ座る。
正面から少し外れた位置だった。
紙へ人物の頭と足元の位置を取る。
そのまま人物を大きく描こうとして、鉛筆が止まった。
モデルの後ろには窓がある。
横には空いた椅子が一脚あり、さらに奥には別の学生たちが見える。
人物だけを紙へ入れると、それらはほとんど入らない。
(なんか、違うな)
陽華は最初に引いた線を残したまま、もう少し小さく人物を取り直した。
今度は窓も椅子も入る。
奥を歩く学生の姿も小さく置けそうだった。
人物の顔を細かく描きたいわけではない。
けれど人物がいなくなれば、この景色を描きたいとも思わない。
鉛筆を動かしながら、陽華はモデルとその周囲を何度も見た。
(人だけじゃなくて、そこにいるところが気になるのかな)
答えが出たわけではない。
それでも少し前より、何を見ているのか分かった気がした。
しばらくして終了の声がかかり、四人は描いた紙を中央へ並べた。
同じモデルが四枚並んでいる。
陽華の絵には窓や椅子まで広く入っていた。
遥斗の絵はモデルの横から奥へ続く空間が長く見える。
ミオの紙では窓から入る光と、人物の片側に落ちる影が強く残っていた。
最後に咲真の絵を見る。
何度も引き直したらしい線が重なっている。
それでも人物の姿勢や椅子の形まで、最後まで描こうとした跡が残っていた。
咲真は四枚を見比べて、小さく息を吐いた。
「やっぱ俺の、微妙ですね」
「そうですか?」
ミオが咲真の紙を見る。
「線は多いですけど、ちゃんと最後まで見てます」
「飯村さん、それ褒めてます?」
「褒めてます」
「ほんとかなあ」
咲真は自分の紙を持ち上げる。
「三人の横に置くと余計に下手に見えるな」
「吉永さん、自分のだけ厳しくない?」
陽華が言うと、咲真は困ったように笑った。
「だって俺なんて、こんなもんですよ」
「こんなもんって言いながら、結構描いてますけどね」
遥斗が紙の端を指す。
「ここも何回か直してるでしょ」
「ああ、そこ全然合わなくて」
「合わないから直したんですよね」
「まあ……そうですけど」
咲真はまだ納得していないようだった。
それでも紙を閉じることはせず、四枚を見比べ続けていた。
休憩に入り、陽華は立ち上がって肩を伸ばした。
教室の向こうでは玲奈の班も絵を並べて話している。
陽華が近くを通ると、玲奈がこちらへ顔を向けた。
「どうだった?」
「みんな全然違った」
「こっちも」
玲奈が自分の紙を少し持ち上げる。
そこには座っている人物だけでなく、その後ろの机や窓まで描かれていた。
陽華は足を止める。
「玲奈ちゃん、こういうのも描くんだね」
「こういうの?」
「人だけじゃなくて、周りも」
「ああ」
玲奈も自分の紙を見る。
「今日はそういう課題だからね」
「そっか」
「でも……」
玲奈は少しだけ紙を離して眺めた。
「こういうのも悪くないかも」
「うん」
陽華はそれ以上何も聞かなかった。
玲奈も紙を閉じず、そのまま自分の班へ戻っていった。
授業が終わる頃には、教室のあちこちに何枚もの絵が並んでいた。
同じ人物を見ても、描かれたものはどれも少しずつ違う。
片づけを終えると、玲奈はB組の学生に呼ばれた。
「じゃあ、またね」
「うん、またね」
「お疲れさまでした、玲奈さん」
「遥斗さんも」
「お疲れさまです」
「ミオちゃんもお疲れさま」
玲奈は三人へ軽く手を振り、B組の学生たちと教室を出ていった。
陽華たちも荷物を持つ。
咲真は最後にもう一度自分の絵を開いてから、クロッキーブックを閉じた。
「もっと上手ければなあ」
遥斗が隣を見る。
「吉永、そういうことよく言いますよね」
「だって本当にそう思うんで」
「でも描くのやめないですよね」
咲真が少しだけ黙った。
それからクロッキーブックを鞄へしまう。
「……まあ、好きなんで」
咲真はそれだけ言って歩き出した。
陽華も遥斗とミオと一緒に、そのあとを追った。
四人でデッサン室を出る。
さっきまで同じ人物を描いていた四枚の絵は、最後まで一枚も同じにはならなかった。




