第66話『私も出ます』
第66話『私も出ます』
その日の夜、ミオは机の上にスケッチブックを開いていた。
昨日までより少しだけ青が増えた絵がそこにある。
父に言われたことを試して描いたもう一枚も、隣に置いてあった。
どちらかを捨てるつもりはなかった。
二枚描いたから分かったことがある。
父の言ったことにも、自分がいいと思える部分はあった。
それでも最後に選んだのは、最初から描いていた方だった。
誰かに選んでもらったわけではない。
自分で二枚を見て、自分で決めた。
ミオは元の絵へ目を戻す。
外の白い光。
店の中の暖かい光。
その間に残した青。
まだ完成には遠い。
それでも、もう少し描きたいと思う。
机の端にはコンクールの募集要項が置いてあった。
ミオは手を伸ばして、それをスケッチブックの横へ置く。
來玲藍市の風景を使った作品。
締め切りは一月末。
参加は自由。
第63話の夜と書いてあることは何も変わっていない。
変わったのは、横に置いてある絵の方だった。
父に言われた通りの絵ではない。
陽華が好きだと言ったから、そのまま残した絵でもない。
自分で選んだ絵だった。
(これを出したら)
また見られる。
昔の自分を知っている人がいるかもしれない。
飯村ミオという名前に気づく人もいるかもしれない。
父にも伝わる。
また何か言われるかもしれない。
怖いと思う気持ちは、昨日までと変わらなかった。
ミオは募集要項から目を離し、青を見る。
(でも)
怖いから描きたくないわけではない。
むしろ今は、この絵をもう少し先まで描いてみたかった。
そして少しだけ、その先も見てみたいと思っている自分がいた。
ミオは募集要項を閉じなかった。
◇
翌日の放課後、三人は教室に残っていた。
陽華は何枚かの写真を机の上に並べ、遥斗はノートへ小さく構図を描いている。
ミオもスケッチブックを開いた。
昨日選んだ絵へ少しずつ線を足していく。
青の周りを描いていると、陽華が近くを通った。
「ミオちゃん、今日も描いてるね」
「はい」
「昨日より増えた?」
「少しだけ」
「見ていい?」
「どうぞ」
陽華が隣から絵を見る。
「やっぱり青増えてる」
「増やしました」
「こっちにしたんだね」
「はい」
陽華はそれ以上、もう一枚のことを聞かなかった。
ただ今の絵を見ている。
ミオはその横顔を見てから、紙へ視線を戻した。
少し迷って、鉛筆を置く。
「陽華さん」
「ん?」
「もしこれをコンクールに出したら」
陽華がミオを見る。
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
それでも続きを言う。
「見てくれますか?」
「見るよ」
陽華はすぐに答えた。
「でも、コンクールに出さなくても見せてくれたら見るけど」
「……そうですね」
「うん」
陽華は当たり前のように言った。
出したから見るのではない。
賞を取ったから見るのでもない。
そこに絵があって、ミオが見せれば見る。
今までと同じだった。
「どうしたの?」
陽華に聞かれ、ミオは少し考える。
「私、昔もコンクールに出したことがあります」
「そうなんだ」
「何回か」
「へえ」
陽華は驚いたようだったが、それだけだった。
何の賞を取ったのかとは聞かなかった。
どのくらい上手かったのかとも聞かなかった。
ミオは少しだけ息を吐く。
「それで、ちょっと苦手になりました」
「コンクールが?」
「はい」
「そっか」
陽華はそれ以上聞かなかった。
「だから迷ってたんだね」
「……はい」
少し離れたところにいた遥斗が顔を上げる。
会話は聞こえていたらしいが、何も挟まずにこちらを見ていた。
ミオは二人を見る。
昔のことを全部話したわけではない。
今も怖い。
応募すれば何が起こるのかも分からない。
それでも、昨日までとは一つだけ違う。
目の前にある絵を、自分で選んだ。
(これを出してみたい)
評価されたいからではなかった。
昔の自分より上手くなったと証明したいわけでもない。
父に何かを分からせたいわけでもない。
ただ、自分が今描きたいと思っているこの絵を、外へ出してみたい。
ミオはスケッチブックの上に手を置いた。
「私も出します」
陽華が少し目を開く。
「決めたの?」
「はい」
「そっか」
陽華は笑った。
「遥斗さんも出るし、三人だね」
「そうですね」
遥斗もこちらを見る。
「決めたんですね」
「はい」
「何を描くかも?」
「まだこれにするとは決めてません」
ミオはスケッチを見下ろす。
「でも、これを描いてから考えます」
「そっか」
陽華が頷く。
ミオはまた鉛筆を持った。
参加すると決めても、急に怖くなくなったわけではない。
飯村ミオという名前を外へ出すことを考えれば、今でも少し息が詰まる。
父に知られることも怖い。
何を言われるかも分からない。
それでも、怖いことと出してみたいことは、どちらか一つにしなくてもいいのかもしれなかった。
ミオは紙の上へ一本線を足した。
◇
帰る前、ミオは鞄の中から募集要項を取り出した。
応募について書かれた欄をもう一度見る。
その中に、氏名を書く場所がある。
そこへ自分の名前を書くところを想像する。
飯村ミオ。
昔、何度も賞状に書かれていた名前。
たくさんの期待がついてきた名前。
今も、そのことを忘れたわけではない。
ミオは隣に置いたスケッチブックを見る。
今日も少しだけ変わった絵がある。
誰かが決めた飯村ミオの絵ではなく、自分で選びながら描いている絵だった。
(怖い)
その気持ちは消えなかった。
ミオは募集要項を閉じる。
(それでも、出してみたい)
今度は、その二つが同時にあった。
ミオは募集要項をスケッチブックと一緒に鞄へしまった。




