第64話『もっと描ける』
第64話『もっと描ける』
翌日の放課後、ミオは昨日と同じ席でスケッチブックを開いていた。
窓に映る光を描き始めてから、まだ一日しか経っていない。
それでも昨日より線は増え、青の部分も広がっている。
元にした写真をスマートフォンで確認してから、ミオはもう一度紙を見る。
写真では白い光の方が強い。
けれど描いている絵では、夕方の青を少しずつ広げていた。
(こっちの方がいい)
写真と同じものを描きたいわけではなかった。
自分が見た時に気になったものを、もう少し残したかった。
少し離れたところでは陽華が自分の写真を見比べている。
遥斗もノートとスマートフォンを交互に見ながら何かを書いていた。
まだ誰もコンクールの作品そのものを描き始めてはいない。
ミオも、この絵を出すとは決めていない。
ただ描きたいから描いている。
それだけだった。
「ミオちゃん」
顔を上げると、陽華が近くまで来ていた。
「昨日の続き?」
「はい」
「見ていい?」
「どうぞ」
陽華が横からスケッチブックを見る。
「昨日より青増えたね」
「増やしました」
「写真より多くない?」
「多いです」
ミオはスマートフォンの写真と紙を見比べる。
「こっちの方が描きたいので」
「そっか」
陽華はまた紙を見る。
「いいね」
「青い方がですか?」
「うん、それもあるけど」
陽華は少し考える。
「昨日よりこっちの方が好きかも」
「昨日と結構変わってます」
「うん」
「それでも?」
「それでも」
陽華は笑う。
「変わったら駄目なの?」
「……いえ」
言われてみれば、駄目ではない。
昨日描いたものに合わせ続ける必要もない。
写真に合わせる必要もない。
「陽華さんは、変わっても平気なんですね」
「え?」
「絵が」
「うん」
陽華は不思議そうに紙を見る。
「だって、ミオちゃんが変えたかったんでしょ?」
「はい」
「じゃあいいんじゃない?」
それだけ言って、陽華は自分の席へ戻っていった。
ミオはしばらくその背中を見る。
陽華にとっては、本当にそれだけなのだろう。
前より良いか。
前と同じか。
ミオらしいか。
そんなことは考えていない。
今そこにあるものを見ているだけだった。
ミオはもう一度鉛筆を持つ。
青の境目へ細い線を足した。
◇
その日の夕方、ミオは父と顔を合わせた。
ミオが持っていたスケッチブックに、父の視線が止まる。
「描いてるのか?」
「うん」
「学校の課題か?」
「違う」
「見せてみろ」
一瞬だけ迷った。
けれど、隠すほどのものでもないと思い、ミオはスケッチブックを開いた。
父は紙を受け取ると、しばらく何も言わずに見ていた。
その目が絵の上を動いていく。
昔から何度も見てきた目だった。
「この青はいいな」
ミオは少しだけ顔を上げる。
「そう?」
「ああ」
父は紙の一部を指す。
「ここまで青を使うなら、こっちの明るさをもう少し落としてもいい」
「……うん」
「そうすれば、この辺りがもっと出る」
「うん」
父はさらに少し見る。
「まだ途中なんだろ?」
「そう」
「なら、もう少し詰められるな」
その言葉で、ミオの指が少し動きを止めた。
「お前ならもっと描ける」
父はいつも通りに言った。
怒っているわけではない。
否定しているわけでもない。
むしろ褒めているのだと思う。
できない相手には言わない言葉なのだろう。
昔からそうだった。
「何かに出すのか?」
「……まだ決めてない」
「そうか」
父はスケッチブックをミオへ返す。
「出すなら、もう少し仕上げた方がいいな」
「うん」
「せっかく描くなら、中途半端にするなよ」
「……分かってる」
父はそれ以上何も言わなかった。
ミオも何も言わなかった。
話が終われば、それだけだった。
怒鳴られたわけでもない。
描くものを変えろと言われたわけでもない。
青を使うなとも言われていない。
ただ、もっと描けると言われただけだった。
◇
ミオは一人になってから、もう一度スケッチブックを開いた。
父が指したところを見る。
青の隣にある明るい部分。
少し落とせば、確かに青は目立つかもしれない。
言っていることは分かる。
父は画家だ。
絵を見る目も、自分よりずっと長く使ってきた。
だから間違っているとも思わなかった。
ミオは鉛筆を持つ。
明るい部分を少し変えようとして、手が止まる。
その前に、青へ目が行った。
陽華が昨日好きだと言ったところ。
今日も、変わった絵を見て好きだと言った。
「だって、ミオちゃんが変えたかったんでしょ?」
陽華の声を思い出す。
父の声も続いて浮かぶ。
「お前ならもっと描ける」
どちらも絵を見て言った言葉だった。
どちらも悪く言われたわけではない。
それなのに、受け取った後の気持ちは全然違った。
陽華に見てもらった後は、もう少し描きたくなった。
父に見てもらった後は、どこを直せばいいのかを考えている。
さっきまで自分で好きだと思っていた青まで、少し不安になる。
(これでいいのかな)
もっとできる。
もっと上手くできる。
もっと飯村ミオらしく。
昔から聞いてきた言葉が重なっていく。
父は最後の言葉を言っていない。
それでもミオの中では、そこまで続いてしまう。
ミオは消しゴムを手に取った。
青の端へ目を向ける。
少し消して、父が言ったように直せばいいのかもしれない。
その方が絵として良くなるのかもしれない。
手を紙へ近づける。
そこで、昨日のことを思い出した。
「ミオらしくないね」
違う絵を描いた時に言われた言葉。
それが嫌で、何を描けば言われないかを考えるようになった。
そして今も、自分が描きたいものではなく、誰かにどう見られるかで線を変えようとしている。
(……まただ)
ミオは消しゴムを持ったまま動かなかった。
紙の上には、自分が描きたくて残した青がある。
消しゴムはまだ、その色には触れていなかった。




