第58話『普通ってどうだっけ』
第58話『普通ってどうだっけ』
朝、教室へ入った遥斗は鞄を置きながら、昨日のことを思い出していた。
食堂へ戻って、陽華と話した。
自分が何かしたわけではないと知って、陽華は少し安心したように笑っていた。
それを思い出すと、胸の奥が少しだけ重くなる。
自分が離れたせいで、好きな相手に余計なことを考えさせていた。
(好きな人を困らせてどうするんだ)
告白する勇気が出たわけではない。
陽華のそばにいて平気になったわけでもない。
それでも、もう避けるのはやめようと思った。
前みたいに話して、前みたいに一緒にいればいい。
そう考えたところで、教室へ入ってきた陽華と目が合った。
「おはよう、遥斗さん」
「おはようございます」
返事が少し早かった。
陽華が一瞬だけ目を瞬かせる。
「今日も寒いね」
「そうですね」
「朝、布団から出るの大変だった」
「昨日も言ってましたね」
「言ったっけ?」
「言ってました」
「じゃあ明日も言うかも」
「毎日ですか」
陽華が笑う。
遥斗も笑いかけて、途中で妙に意識した。
笑い方まで考える必要はないはずなのに、考えてしまう。
陽華はそんな遥斗に気づかず、自分の席へ向かった。
遥斗は小さく息を吐く。
(普通にすればいいだけだろ)
それが思っていたより難しかった。
授業が始まれば、陽華のことばかり考えている暇はなくなる。
そう思っていた。
けれど休憩に入ると、今度は話しかけるかどうかで迷った。
以前なら何も考えずに声を掛けていた気がする。
けれど何を話していたのか思い出そうとすると、急に分からなくなる。
遥斗が考えているうちに、陽華の方から近づいてきた。
「遥斗さん」
「はい」
また返事が早かった。
「……そんなすぐ返事しなくても聞こえてるよ」
「すみません」
「別に謝ることでもないけど」
陽華が少し不思議そうに笑う。
「次の授業、絵画室だよね?」
「はい」
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「そうですね」
遥斗は立ち上がった。
並んで教室を出る。
以前にも何度もあったことのはずだった。
それなのに、隣に陽華がいるだけで歩く速さまで気になる。
速すぎないか。
遅すぎないか。
近すぎないか。
(こんなこと考えてたっけ)
考えていなかったはずだった。
だから普通にできていたのだと思う。
◇
昼休みになると、遥斗はまっすぐ食堂へ向かった。
今日は途中で足を止めなかった。
陽華とミオはすでにいつもの辺りにいた。
遥斗が近づくと、陽華が気づく。
「今日は早いね」
「いつもこれくらいじゃないですか?」
「最近は遅かったり来なかったりだったから」
「……そうでしたね」
遥斗は空いている椅子へ手を掛ける。
昨日は座っていいかを聞いた。
今日は以前のようにそのまま座ろうと思っていた。
けれど椅子を引いたところで、ふと手が止まる。
(俺、前からここだったっけ)
向かいだった時もあった気がする。
隣だった時もある。
そもそも毎回同じ席ではなかったはずだ。
「遥斗さん?」
「はい!」
陽華が目を丸くする。
「どうしたの?」
「何でもないです」
遥斗はそのまま座った。
ミオがじっとこちらを見ている。
「……何ですか?」
「いえ」
ミオはそう言ってから少し間を置いた。
「今日は元気ですね」
「そう見えます?」
「返事が」
陽華が吹き出す。
「やっぱりそうだよね」
「何がですか?」
「今日、返事早いよ」
「普通です」
「普通って自分で言う?」
二人に見られ、遥斗は昼食へ視線を落とした。
「……普通だと思います」
「なんで自信なくなってるの」
陽華がまた笑う。
ミオも小さく笑った。
遥斗も笑ったものの、内心では頭を抱えたかった。
(普通ってどうしてたんだっけ)
意識していなかった頃は簡単だった。
陽華が笑えば、自分も笑った。
話したければ話した。
一緒に帰るのも、食事をするのも、それ以上の意味を考えなかった。
今は一つ一つに余計なことを考えてしまう。
陽華を見る。
見すぎた気がして視線を逸らす。
逸らしたあとで、今の方が不自然だった気がしてまた困る。
「遥斗さん」
「はい」
「やっぱり今日なんか変じゃない?」
遥斗の手が止まった。
「そうですか?」
「うん、ちょっと」
「昨日よりは普通にしてるつもりなんですけど」
「昨日より?」
言ってから失敗したと思った。
「いや、何でもないです」
「またそれ?」
「何でもないです」
「二回言った」
陽華が笑う。
遥斗は諦めて少し笑った。
「じゃあ変でもいいです」
「開き直った」
「普通にしようとすると余計変になるみたいなので」
「何それ」
陽華は楽しそうに笑っていた。
その顔を見て、遥斗は少しだけ力を抜いた。
少なくとも困らせてはいないらしい。
隣ではミオも二人のやり取りを見ている。
四人で使っていたテーブルには、今日も一つだけ空いた椅子が残っていた。
それでも昨日より、三人の会話は少しだけ続くようになっていた。
◇
放課後。
帰る準備を終えた遥斗は、少し離れたところにいる陽華を見る。
以前なら、そのまま声を掛けていた。
今日もそうすればいい。
そう思って歩き出した。
「陽華さん」
「ん?」
陽華が振り返る。
「今日……」
「うん?」
「帰りますか?」
「帰るけど?」
当然の返事だった。
遥斗は一瞬黙る。
「ですよね」
「何の確認?」
陽華が笑う。
「いや、一緒に帰るのかなと思って」
「最初からそう聞けばいいのに」
「……そうですね」
そこへミオが鞄を持ってやってくる。
「私も帰ります」
「じゃあ三人だね」
陽華が自然に言った。
遥斗も頷く。
「はい」
今度の返事は、少しだけ普通だった。
三人で校舎を出る。
外の空気は冷たく、陽華が肩をすくめた。
「寒っ」
「朝も言ってましたね」
「明日も言うよ」
「本当に毎日言うんですか」
「冬が終わるまで言うかも」
「長いですね」
「私は暑いより寒い方がいいです」
「ミオちゃん、夏あれだけ暑いの嫌がってたもんね」
「暑いのは嫌です」
陽華が笑う。
ミオも隣で小さく笑った。
遥斗は二人と並んで歩く。
好きだと気づく前と同じには、もうできないのかもしれない。
何も考えずに陽華の隣にいた頃には戻れない。
それでも、だからといって離れる必要もなかった。
(普通って、どうしてたんだっけ)
まだよく分からない。
遥斗は前を向く。
分からないままでも、今日は陽華たちと同じ道を歩いていた。




