第57話『戻るだけでも』
第57話『戻るだけでも』
玲奈と別れたあとも、その言葉は遥斗の頭に残っていた。
「陽華さん、自分が何かしたのかなって思ってたよ」
廊下を歩きながら、遥斗は小さく息を吐いた。
陽華から距離を取るようになった理由は、自分でも分かっている。
嫌になったわけではない。
むしろ逆だった。
好きだと分かってしまったから、以前と同じように隣にいることが難しくなった。
話せば嬉しい。
笑ってくれれば、もっと見ていたくなる。
けれど陽華の態度から、自分が特別な相手として見られていないことも分かっていた。
今のまま気持ちを伝えれば、断られる方が自然に思える。
それ以上に怖かったのは、そのあとだった。
今までのように話せなくなるかもしれない。
一緒に食事をすることも、帰ることもできなくなるかもしれない。
だから少し離れた。
何も変えないためには、それが一番いいと思っていた。
(でも、もう変わってたんだな)
陽華は自分が何かしたのではないかと思っていた。
玲奈が食堂へ来なくなったことも、自分が離れたことも、理由を知らない陽華には同じように見えていたのかもしれない。
「陽華さん、何もしてないのにね」
玲奈の言葉まで思い出す。
その通りだった。
陽華は何もしていない。
自分が勝手に好きになって、勝手に怖くなっただけだった。
遥斗は窓の外へ目を向ける。
冬の薄い空が、校舎の向こうまで続いていた。
◇
昼休み。
遥斗は食堂へ向かう廊下の途中で足を止めた。
最近は、ここまで来ても別の場所へ行くことが何度かあった。
今日もそうすればいい。
そう思ってから、玲奈との会話がまた浮かぶ。
(避けてるだけじゃ、同じか)
何かを決めたわけではなかった。
陽華への気持ちも変わっていない。
怖さがなくなったわけでもない。
それでも今日は、そのまま食堂へ入った。
いつもの辺りを見る。
陽華とミオが二人で座っていた。
陽華が先にこちらへ気づく。
「遥斗さん」
遥斗は二人のところまで歩いた。
「今日は来たんだ」
「はい」
少しだけ間が空く。
以前なら、そのまま何も考えず座っていた。
「ここ、いいですか?」
「もちろん」
陽華がすぐに答える。
ミオも遥斗を見る。
「こんにちは」
「こんにちは、ミオさん」
遥斗は空いている椅子へ座った。
四人で使っていたテーブルには、まだ一つ空いた椅子が残っている。
玲奈がいないことを意識してしまい、遥斗は視線を自分の昼食へ落とした。
「最近、ほんとに来たり来なかったりだね」
陽華が言う。
「すみません」
「謝ることじゃないけど」
陽華が少し笑う。
「忙しいのかなって思ってた」
「まあ……ちょっと」
「バイト?」
「それもありますけど」
嘘ではなかった。
ただ、それだけでもなかった。
ミオは黙って食事をしながら、時々こちらを見ている。
遥斗はその視線に気づいたが、何も言わなかった。
しばらくは授業の話をした。
寒くなったこと。
朝、布団から出るのがつらくなったこと。
陽華がまたそんな話をして、ミオが前にも聞いたと言っている。
以前と同じような会話だった。
自分が離れていた間にも、二人の間ではこういう時間が続いていたのだろう。
遥斗は陽華を見る。
陽華もこちらを見た。
目が合って、反射的に逸らしそうになる。
けれど、今回はそのままにした。
「陽華さん」
「ん?」
「最近、俺ちょっと変でしたよね」
陽華の手が止まる。
「……うん」
少し考えてから答えた。
「ちょっとね」
「すみません」
「だから、なんで謝るの?」
陽華は困ったように笑う。
遥斗は言葉を探した。
本当の理由は言えない。
好きだから近くにいるのが苦しいなど、今ここで言えるはずもなかった。
「陽華さんが何かしたわけじゃないです」
「……え?」
「俺の方の問題なので」
陽華が黙る。
隣にいたミオも顔を上げた。
遥斗は続ける。
「だから、その……陽華さんが何か悪かったとか、そういうことじゃないです」
陽華はしばらく遥斗を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「玲奈ちゃんにも同じこと言われた」
「……はい」
「私、何もしてないって」
遥斗は頷いた。
「してないです」
今度は迷わず言えた。
陽華の表情が少し緩む。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、ちょっと安心した」
その言葉に、遥斗の胸が少し痛んだ。
安心させたかった相手を、自分が不安にさせていた。
「でも」
陽華が続ける。
「何があったのかは、やっぱり分かんないけどね」
遥斗は返事に詰まった。
陽華はすぐに笑う。
「言いたくないことなら聞かないけど」
「……すみません」
「また謝ってる」
「すみ――」
「ほら」
陽華が笑った。
遥斗もつられて少し笑う。
ミオも二人を見てから、ほんの少し表情を緩めた。
以前と同じではない。
それでも、こうして三人で話すことはできた。
◇
昼休みの終わりが近づき、三人は食事を片付け始めた。
陽華が立ち上がりながら遥斗を見る。
「遥斗さん」
「はい?」
「また一緒に食べようね」
遥斗は少しだけ迷った。
陽華のそばにいることが、平気になったわけではない。
好きだという気持ちも消えていない。
この先どうすればいいのかも、まだ分からない。
それでも、離れているだけで何も変わらないわけではなかった。
「……はい」
遥斗は答えた。
四人分あった席の一つは、まだ空いている。
何も元には戻っていない。
それでも今日は、最後までその席を立たなかった。




