第56話『まだ普通には』
第56話『まだ普通には』
授業が終わり、玲奈は教室を出た。
次の授業までは少し時間がある。
廊下には同じように移動する生徒が行き交い、窓の向こうには冬の薄い空が広がっていた。
玲奈は手にした教材を抱え直し、そのまま歩く。
少し先の階段から、一人の男子生徒が上がってきた。
見覚えのある姿に、玲奈の足がわずかに遅くなる。
遥斗だった。
向こうも玲奈に気づいたらしい。
一瞬だけ目が合う。
どちらからも声が出なかった。
すれ違おうと思えば、そのまますれ違える距離だった。
玲奈は足を止めた。
「遥斗さん」
遥斗も立ち止まる。
「……玲奈さん」
告白した日以来だった。
学校の中で姿を見かけたことはある。
けれど、こうして向かい合って話すのは初めてだった。
何を言えばいいのか分からなくなり、玲奈は手元へ視線を落とす。
それでも今日は、一つだけ言っておきたいことがあった。
「陽華さんと話したよ」
「陽華さんと?」
「うん」
遥斗の表情が少し変わる。
「家のこと、大丈夫かって聞かれた」
「……あ」
それだけで遥斗にも伝わったらしい。
玲奈は小さく息を吐いた。
「親から呼ばれて急いで帰ったって言ったんだね」
「はい」
「黙っててくれたんだ」
遥斗は少し視線を落とす。
「玲奈さんが話してないことを、俺が勝手に言うことじゃないと思ったので」
玲奈は遥斗を見る。
告白したことも。
泣いたことも。
好きだったことも。
遥斗は何も話さなかった。
陽華は本当に何も知らないまま、自分の家族を心配していた。
「ありがとう」
「いえ」
「私も、もう大丈夫って言っといた」
「……すみません」
「謝らないで」
遥斗が顔を上げる。
「嘘つかせたから」
「それはそうだけど」
玲奈は少しだけ笑った。
「でも、本当のこと言われるより全然いいから」
「……はい」
また会話が止まった。
近くを何人かの生徒が通り過ぎていく。
以前なら、このくらいの沈黙を気にすることはなかった。
何か思いついた方が話して、そのまま一緒に歩けた。
今は沈黙があるだけで、互いに次の言葉を探しているのが分かる。
遥斗が口を開く。
「この前は――」
「それも謝らなくていいよ」
玲奈は先に言った。
遥斗が言葉を止める。
「私が好きって言ったんだから」
「でも」
「遥斗さんはちゃんと答えてくれたでしょ」
聞きたかった答えではなかった。
今でも思い出せば胸は痛い。
それでも、曖昧にされたわけではない。
期待だけを残されたわけでもない。
「陽華さんのこと好きなのも、本当なんでしょ」
「……はい」
やっぱり、その返事は少し痛かった。
玲奈は一度だけ目を伏せる。
「だったら、謝られても困るよ」
「……そうですね」
遥斗も困ったように笑った。
その顔を見ても、以前のようには笑えなかった。
でも、あの日ほど苦しくもなかった。
「ただ」
「はい?」
「まだ普通には無理かも」
口にしてから、玲奈は遥斗の顔を見る。
「前みたいに普通に話したり、一緒にいたりするのは」
「……はい」
「怒ってるわけじゃないよ」
「分かってます」
「嫌いになったわけでもない」
「はい」
遥斗は少し間を置いた。
「俺も、どう話せばいいのか分からなくなってました」
玲奈は少し驚く。
「遥斗さんも?」
「玲奈さんを見ると、あの日のこと思い出すので」
「私が泣いたこと?」
「……はい」
「忘れてよ」
「無理ですよ」
玲奈は思わず小さく笑った。
「そこは忘れてよ」
「努力はします」
「努力じゃなくて」
ほんの少しだけ、前と同じようなやり取りだった。
それに気づいた瞬間、玲奈の胸がまた痛む。
でも今度は、その痛みから目を逸らさなかった。
「私も、ずっと避けるつもりじゃないから」
「はい」
「ただ、もう少しかかると思う」
「分かりました」
遥斗は無理に何かを足さなかった。
それが今はありがたかった。
玲奈はそこで、第55話で陽華から聞いたもう一つの言葉を思い出す。
「あとさ」
「はい?」
「陽華さん、自分が何かしたのかなって思ってたよ」
遥斗の表情が止まる。
「……え?」
「私が食堂に行かなくなったのもだけど、遥斗さんもちょっと変わったって」
「陽華さんが、そう言ってたんですか?」
「うん」
遥斗は何も言わなかった。
さっきまで玲奈を見ていた目が、廊下の床へ落ちる。
「私も避けてたから、人のこと言えないけど」
玲奈は続ける。
「陽華さん、何もしてないのにね」
「……はい」
返事は小さかった。
「昨日も、それだけはちゃんと言ったよ」
「何をですか?」
「陽華さんは何もしてないって」
「……そうですか」
遥斗はまだ顔を上げない。
玲奈には、遥斗が何を考えているのかまでは分からない。
ただ、陽華が自分を責めていたことを知らなかったのは、その顔を見れば分かった。
「遥斗さんがどうしたいかは知らないけど」
「はい」
「何も知らない陽華さんが、自分のせいだと思うのは違うと思う」
遥斗がゆっくり顔を上げる。
「……そうですね」
玲奈はそれ以上言わなかった。
自分だって、陽華を避けていた。
遥斗だけを責めることはできない。
そして遥斗が陽華から離れている理由を、自分は知らない。
好きなのに離れる理由が何なのかも。
そこまで聞くつもりはなかった。
「じゃあ、私そろそろ行くね」
「はい」
玲奈は一歩だけ歩き出す。
少しして、遥斗の声が背中に届いた。
「玲奈さん」
「ん?」
振り返る。
「話してくれて、ありがとうございます」
玲奈は少しだけ目を丸くした。
「私も、ちゃんとお礼言いたかったから」
遥斗が小さく頷く。
「じゃあ、また」
「……また」
玲奈は今度こそ歩き出した。
隣を歩くことはまだできなかった。
食堂で向かい合って笑う自分も、まだ想像できない。
胸の奥には、好きだった気持ちも痛みも残っている。
それでも今日は、遥斗の顔を見て話すことができた。
後ろを振り返らず、玲奈は教室へ向かった。




