第55話『いま会いたくない人』
第55話『いま会いたくない人』
玲奈は教室を出ると、次の授業で使うものを抱えて廊下を歩いた。
昼休みにはまだ少し早い。
窓の外は明るいのに、廊下へ入り込む空気は冷たかった。
最近は、授業が終わっても以前の食堂へ向かわない。
別の場所で食べて、そのまま次の授業へ行く。
そうしていれば、少なくとも昼休みに三人と顔を合わせることはなかった。
遥斗とは、あの日からまともに話していない。
それでいいと思っていた。
今はまだ、普通に話せる気がしない。
陽華にも会いたくなかった。
嫌いになったわけではない。
それどころか、嫌いになれる理由なんて一つもなかった。
だから余計に困る。
少し先の廊下に、見覚えのある姿があった。
玲奈の足が止まりかける。
陽華だった。
向こうはまだこちらに気づいていない。
玲奈は反射的に視線を逸らした。
(今は、会いたくない)
このまま別の廊下へ曲がろうかと思った。
けれど、少し遅かった。
「玲奈ちゃん」
声がした。
玲奈は足を止める。
聞こえなかったふりをすることもできた。
それでも、できなかった。
ゆっくり振り返ると、陽華がこちらへ歩いてきていた。
「久しぶり」
「……うん、久しぶり」
いつも通りに言えたと思う。
陽華は玲奈の前まで来ると、少しほっとしたように笑った。
「よかった」
「え?」
「ちゃんと会えたから」
玲奈は何も返せなかった。
「最近、食堂来ないから心配してたんだよ」
「あ……」
陽華の顔には、怒っている様子も避けている様子もない。
ただ、本当に心配しているように見えた。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
陽華はすぐにそう言った。
「家の方、大丈夫?」
玲奈は一瞬、意味が分からなかった。
「家?」
「ほら、文化祭の日」
「……ああ」
そこでようやく思い当たる。
自分は何も説明せずに帰った。
そのあと遥斗だけが二人のところへ戻ったはずだった。
「遥斗さんから、親御さんに呼ばれて急いで帰ったって聞いてたから」
「……そうなんだ」
胸の奥が少しだけ詰まった。
(遥斗さん、そう言ったんだ)
告白されたことを話さなかった。
泣いて帰ったことも。
自分が遥斗を好きだったことも。
何も知らない陽華が、今こうして家の心配をしている。
「何かあったのかなって思ってたんだけど、聞くのも悪いかなって」
「……うん」
「だから連絡もしようか迷ってて」
玲奈は陽華を見る。
「連絡?」
「大丈夫って送ろうかなって何回か思ったんだけど、忙しかったら迷惑かなって」
玲奈は目を伏せた。
自分が陽華を避けていた間も、陽華はそんなことを考えていた。
陽華には何も分からない。
自分が嫌われたのかもしれないなんて考える理由すらないはずなのに、それでも心配していた。
「もう大丈夫だよ」
玲奈は言った。
少しだけ間が空いた。
「家の方も」
「そっか」
陽華の表情が緩む。
「よかった」
嘘だった。
家では何も起きていない。
それでも、今はそう言うしかなかった。
遥斗が作った理由に、自分も乗ることにした。
「ほんとにごめんね」
「だから謝らなくていいって」
陽華が笑う。
その笑顔を見ると、胸が痛んだ。
文化祭の日も同じだった。
遥斗は陽華を見ていた。
自分がどれだけ楽しかったと思っていても、その先にいたのは自分ではなかった。
「玲奈ちゃん、最近どこでお昼食べてるの?」
「適当」
「適当?」
「空いてるところとか」
「そっか」
陽華は少し迷うようにしてから、玲奈を見る。
「また食堂来ない?」
「……食堂?」
「うん」
玲奈は返事ができなかった。
「ミオちゃんも心配してるし」
「ミオちゃんも?」
「うん」
「そっか」
ミオの顔が浮かぶ。
何も聞かずに四人の中にいてくれた子。
あの日、自分が遥斗を連れていった時も、何も言わずに見送っていた。
「遥斗さんも、最近あんまり来ないけど」
陽華がそう付け足した。
玲奈の胸が少しだけざわつく。
「……そうなの?」
「うん、来たり来なかったり」
「そうなんだ」
それ以上は聞かなかった。
聞けば気になる。
気になれば、また考えてしまう。
玲奈は手に持っていたものを少し持ち直した。
「そのうち行くよ」
「ほんと?」
「うん、そのうち」
いつとは言わなかった。
陽華もそれ以上は聞かなかった。
「じゃあ待ってる」
「うん」
その言葉も少し痛かった。
待っていると言われることが嬉しくないわけではない。
むしろ嬉しい。
だから困る。
「あ、そうだ」
陽華が思い出したように言う。
「打ち上げもまだだよね」
「……あ」
あの日のことが一気に戻ってくる。
四人で打ち上げしようと言ったのは自分だった。
その少しあと、遥斗を呼び出した。
好きだと言った。
陽華の名前を聞いた。
泣いた。
「玲奈ちゃんも一緒の時にしようって話になってるから」
「……そうなんだ」
「また四人で行こう」
陽華は何も知らない。
何も知らないから、そんなふうに普通に言える。
「……うん」
玲奈は笑った。
「そうだね」
自分でも、ちゃんと笑えているのか分からなかった。
陽華は玲奈の顔を少し見てから、視線を落とした。
「私さ」
「うん?」
「ちょっとだけ、気になってたんだ」
玲奈は首を傾げる。
「何が?」
「玲奈ちゃんも来なくなったし、遥斗さんもちょっと変わったから」
玲奈の指先に力が入る。
「私、何か変なことしたのかなって」
一瞬、言葉が出なかった。
陽華は困ったように笑っている。
「思い当たることないんだけどね」
「陽華さんは何もしてないよ」
玲奈の口から、すぐに言葉が出た。
陽華が目を瞬かせる。
「何もしてない」
「……そっか」
「うん」
そこだけは嘘ではなかった。
陽華は何もしていない。
遥斗が陽華を好きになったことも。
自分が遥斗を好きになったことも。
誰かが悪くて起きたことではない。
「だから、そんなこと考えなくていいよ」
「ありがとう」
陽華が少し安心したように笑う。
玲奈はその笑顔を見た。
やっぱり嫌いにはなれなかった。
陽華が何も知らないことにも腹は立たない。
むしろ何も知らないまま、自分を心配させていたことの方が苦しかった。
「じゃあ、私こっちだから」
「あ、うん」
「またね、陽華さん」
「うん、またね、玲奈ちゃん」
陽華が手を小さく振る。
玲奈も手を上げてから、反対方向へ歩き始めた。
何歩か進んでも、胸の奥はまだ落ち着かなかった。
話せた。
以前と同じように笑うこともできた。
陽華が自分を嫌っていないことも分かった。
自分も陽華を嫌いではない。
それでも、食堂へ戻るところまでは考えられなかった。
四人で打ち上げに行く自分も、まだ想像できない。
(陽華さんは何も悪くない)
分かっている。
分かっているからこそ、顔を見ると苦しくなる。
玲奈は振り返らずに歩いた。
(嫌いじゃない)
廊下の角を曲がる。
(だから、今はまだ会いたくない)




