第53話『空いた椅子』
第53話『空いた椅子』
文化祭の翌日、校内にはまだ昨日の名残が残っていた。
廊下の飾りを外す音や、机を動かす音があちこちから聞こえてくる。
陽華たちも展示していた場所へ向かい、『日常』の周りを片付けていた。
壁から外された作品を見ていると、昨日までとは違って見える。
人に見てもらうために置かれていた絵が、また自分たちのものへ戻ってきたような気がした。
「これ、こっちでいい?」
「はい」
ミオが答え、陽華は手にしていたものをまとめる。
少し離れたところでは遥斗が片付けを続けていた。
三人だった。
陽華は廊下の先を見る。
玲奈の姿はない。
「玲奈ちゃん、来ないね」
ミオも手を止めた。
「そうですね」
「昨日、急に帰ったし……まだ家のこと大変なのかな」
遥斗の手が一瞬止まった。
すぐにまた動き始める。
「……そうかもしれないですね」
陽華は遥斗を見る。
「親御さんから呼ばれたんだよね?」
「はい」
「家族とか、親戚とかに何かあったのかな」
「……分からないです」
返事が短い。
陽華はそれ以上聞かなかった。
遥斗が詳しく知らないなら、考えても仕方がない。
それでも少し心配だった。
昨日まで元気だった玲奈が、急にいなくなった。
四人で打ち上げに行こうと言ったのも玲奈だった。
片付けまで一緒にやるものだと、何となく思っていた。
「大丈夫だといいけど」
「そうですね」
また少し遅れて遥斗が答える。
ミオは何も言わず、その横顔を見ていた。
◇
そのあと土日が過ぎた。
休みが明け、陽華と遥斗とミオはいつものように食堂へ向かった。
三人で席につく。
陽華は空いている椅子を見る。
玲奈がいつも座っていた場所だった。
「今日も来ないね」
「はい」
ミオもその席を見る。
「玲奈ちゃん、学校来てるのかな」
「クラス違うから分からないですね」
「そうなんだよね」
陽華は鞄からスマートフォンを取り出した。
玲奈とのやり取りを開く。
最後に交わした言葉は、文化祭より前の何でもないものだった。
入力欄を押す。
『大丈夫?』
そこまで打って、指が止まった。
家のことで何かあったのだとしたら、今は連絡しない方がいいのかもしれない。
事情を聞くつもりはない。
ただ心配しているだけだった。
それでも、その一言すら負担になることもある。
陽華はしばらく画面を見てから、文字を消した。
「送らないんですか?」
ミオに聞かれ、陽華はスマートフォンを伏せる。
「うん……もうちょっと待とうかな」
「家のことだったら、忙しいかもしれないですしね」
「そうなんだよね」
遥斗は黙っていた。
陽華はそのことにも気づいた。
「遥斗さん?」
「はい?」
「どうしたの?」
「何がですか?」
「最近、静かだなって」
遥斗が少しだけ目を逸らす。
「そうですか?」
「文化祭の日からずっと」
「……疲れが残ってるだけです」
「まだ?」
陽華が笑うと、遥斗も小さく笑った。
「歳ですかね」
「私より若いくせに」
「二つしか違わないじゃないですか」
「二つは二つです」
いつものような会話だった。
それなのに、陽華には少しだけ違って感じた。
遥斗は笑っている。
話しかければ返してくれる。
ただ、以前ほど自分から話を広げてこない。
目が合う時間も短くなった。
(文化祭、そんなに疲れたのかな)
そう考えるしかなかった。
ミオは二人の会話を聞きながら、何も言わなかった。
◇
次の日も、玲奈は食堂に来なかった。
その次の日も同じだった。
玲奈とクラスが違う三人には、学校そのものを休んでいるのかどうかも分からない。
陽華は昼休みになるたび、入口の方を見るようになった。
それでも玲奈の姿は現れなかった。
遥斗も同じ入口を見ていることがあった。
けれど陽華がそちらを見ると、遥斗はすぐに視線を戻した。
その日の帰り、陽華が鞄を持って立ち上がる。
「帰ろうか」
「あ……今日は先に帰ります」
「バイト?」
「今日はないですけど、ちょっと寄るところがあるので」
「そっか」
陽華は何気なく頷いた。
「じゃあまた明日」
「はい、また明日」
遥斗はそれだけ言って、先に教室を出た。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。
嘘ではない。
帰りに少し寄り道をするつもりだった。
必要な用事ではなかった。
ただ、陽華と一緒に帰らない理由が欲しかった。
玲奈に言った言葉が、何度も頭に戻ってくる。
好きな人がいます。
陽華さん?
はい。
口にしたことで、逃げられなくなった。
自分が陽華を好きだということを、もう偶然や勘違いにはできない。
陽華と話せば嬉しい。
笑ってくれれば、それだけで気持ちが動く。
だからこそ、前より一緒にいるのが苦しくなった。
陽華は何も変わっていない。
いつも通り話しかけてくる。
冗談を言う。
隣に座る。
一緒に帰ろうとする。
近い。
けれど、その近さの中に自分が期待しているものは見つからなかった。
(友達なんだよな)
分かっている。
陽華にとって自分は、歳の近い友人だ。
少なくとも今は、それ以上ではない。
もし少しでも違うものが見えていたら、気持ちを伝えることも考えられたかもしれない。
けれど今言えば、断られる方が自然に思えた。
断られるだけなら、それでも言える日が来るのかもしれない。
怖いのは、そのあとだった。
今までみたいに話せなくなるかもしれない。
一緒に帰ることもできなくなるかもしれない。
気を遣われて、少しずつ離れていくかもしれない。
玲奈と自分の間にできたものを思う。
あの日から、玲奈とは一度も話していない。
自分が陽華に気持ちを伝えたら、同じように何かが変わるかもしれない。
(それは嫌だ)
そばにいたい。
でも、そばにいると苦しい。
遥斗は答えを出せないまま、いつもの帰り道とは違う方へ曲がった。
◇
さらに何日か経った。
昼休みになると、陽華とミオは食堂へ向かう。
遥斗も来る。
けれど玲奈は来ない。
ある日、陽華は移動中の廊下で、少し先を歩く玲奈らしい姿を見つけた。
声を掛けようとした時には、人の間に隠れてしまう。
追いかけるほどの距離でもなかった。
(学校には来てるんだ)
少し安心した。
同時に、新しい疑問が残った。
学校に来ているのなら、どうして食堂には来ないのだろう。
まだ家のことで忙しいのかもしれない。
昼休みに何か用事があるだけかもしれない。
考えても答えは出ない。
陽華はまたスマートフォンを開いた。
玲奈の名前を見る。
今度こそ送ろうかと思った。
それでも指は動かなかった。
「陽華さん」
ミオに呼ばれ、顔を上げる。
「ん?」
「玲奈さんですか?」
「うん」
陽華は画面を見せるでもなく、そのまま閉じた。
「学校には来てるみたいなんだけどね」
「見たんですか?」
「さっき、たぶん」
「そうですか」
ミオは少し考えるように黙った。
玲奈は学校にいる。
でも食堂には来ない。
遥斗は文化祭の日から陽華への態度が変わった。
玲奈が遥斗を呼び出したあとからだった。
親から呼ばれたという話だけでは、どうしても全部がつながらない。
(やっぱり、何かあったんだ)
そこまでは思える。
でも、その先は分からなかった。
玲奈が何を話したのか。
遥斗が何を答えたのか。
どうして遥斗まで陽華から少し離れるようになったのか。
ミオは向かいに座る遥斗を見る。
遥斗は食事をしながら、ほとんど顔を上げない。
陽華が話しかければ答える。
でも自分から陽華を見ることは減っていた。
(陽華さんのことなのかな)
そこまで考えて、ミオは視線を落とした。
確かめる方法はなかった。
聞くこともできなかった。
◇
文化祭の飾りは、いつの間にか校内からなくなっていた。
あの日まであちこちに残っていた色も、もう見当たらない。
朝の空気は少しずつ冷たくなり、陽華は上着の前を閉じることが増えた。
四人で過ごした文化祭は終わった。
それでも、終わったのは祭りだけではないような気がしていた。
玲奈は食堂へ来ない。
遥斗は以前より少し遠い。
ミオは何かを考えているように黙ることが増えた。
陽華には、その理由がどれも分からない。
ただ、少し前まで当たり前だった四人の時間が戻ってこないことだけは分かった。
昼休み。
三人の前には、今日も一つ空いた席がある。
陽華はそこを見てから、スマートフォンへ目を落とした。
玲奈の名前は、開けばすぐそこにある。
遥斗もすぐ近くに座っている。
それなのに、どちらも前より遠く感じた。
秋が終わっていく。
誰も何も直せないまま、季節だけが先へ進んでいった。




