第52話『開いた空間』
第52話『開いた空間』
陽華は、玲奈が歩いていった方をもう一度見た。
もう姿は見えない。
隣では遥斗が黙ったまま『日常』を見ている。
ミオも何も言わず、その少し横に立っていた。
「打ち上げ、どうしようか」
陽華が言うと、ミオが顔を上げた。
「玲奈ちゃん、いないし」
「……そうですね」
遥斗の返事が少し遅れた。
陽華はもう一度、玲奈がいなくなった方へ目を向ける。
「せっかく四人でやろうって言ってたし、また今度にしようか」
「はい」
「遥斗さんも、それでいい?」
遥斗が陽華を見る。
一瞬だけ目が合ったあと、すぐに視線が『日常』へ戻った。
「……そうですね」
「じゃあ、玲奈ちゃんもいる時にしよう」
陽華はそう言って頷いた。
急に帰らなければならなくなった玲奈は残念だろうと思う。
文化祭が終わったあとも四人で過ごせると、さっきまで楽しそうにしていた。
また全員が揃った時にやればいい。
そう考えていると、隣の遥斗がいつもより静かなことに気づいた。
「遥斗さん、疲れた?」
「え?」
遥斗が少し遅れて振り向く。
「今日ずっと歩いてたし」
「ああ……そうですね、ちょっと疲れたかもしれないです」
「私も足疲れた」
「陽華さん、結構戻ったりしてましたからね」
「遥斗さんもでしょ」
「俺もですけど」
返事はいつもの遥斗だった。
けれど話しながら、何となく目が合わない。
陽華が顔を見ると、遥斗は展示の方へ目を向ける。
「ほんとに疲れてそう」
「大丈夫です」
遥斗が少し笑った。
陽華もそれ以上は聞かなかった。
文化祭の準備から今日まで、いつもより学校にいる時間も長かった。
玲奈も急に帰ることになり、打ち上げも延期になった。
疲れていてもおかしくない。
三人で『日常』の前に立っていると、また一人の来場者が足を止めた。
銀色の時計を見てから、その周りに描かれた人へ視線を移している。
陽華は少し離れたところから、その様子を眺めた。
「最後まで見てもらえてよかったね」
「はい」
ミオが答える。
「作ってる時は、こんなふうに誰かが見るところまで想像してなかったかも」
「私もです」
「遥斗さんは?」
陽華が横を見ると、遥斗は少し驚いたようにこちらを見た。
「俺ですか?」
「うん」
「……俺も、あんまり考えてなかったです」
遥斗の目が一度陽華へ向き、また作品へ戻る。
「完成させることで精一杯だったので」
「それはそうか」
陽華は笑った。
遥斗も少し笑ったけれど、すぐに口を閉じる。
いつもなら、もう一言くらい返ってきそうな気がした。
陽華は首を傾げた。
(やっぱり疲れてるのかな)
その横で、ミオが遥斗を見ていた。
玲奈と一緒に離れる前とは、少し違う。
陽華が話しかけると返事はする。
笑うこともある。
けれどそのたびに、一度考えてから言葉を返しているように見えた。
目が合えば、すぐに別のところを見る。
学生ホールでは、陽華が話すたびにずっとそちらを見ていた。
今は反対に、見ないようにしているようにも見える。
(何を話したんだろう)
玲奈は戻ってこなかった。
親から連絡があったという遥斗の言葉を思い出す。
それなら、急いで帰ったこと自体はおかしくない。
それでも、玲奈が遥斗だけを呼び出したことが頭に残っている。
そのあとから、遥斗の様子も少し変わった。
(本当に、それだけなのかな)
ミオは聞かなかった。
聞いていいことなのかも分からなかった。
陽華は何も気づいていないように、また『日常』を眺めている。
その隣で遥斗は、陽華の方を見ないまま作品を見ていた。
◇
やがて一般公開の終了が告げられた。
少し前まで廊下を埋めていた人の流れが、ゆっくりと外へ向かっていく。
話し声も足音も少なくなり、展示の前に空いている場所が増えていった。
陽華は『日常』の前から離れる前に、もう一度作品を見る。
朝から何人もの人が立っていた場所には、今は誰もいなかった。
銀色の時計も、人の姿も、描かれたままそこに残っている。
「終わっちゃったね」
陽華が言うと、ミオも作品を見た。
「……はい」
「なんか、終わったら急に静かだね」
「さっきまで、もっと人いたのに」
遥斗も周りを見渡す。
「こうなると、文化祭だった感じがしないですね」
「分かる」
陽華は笑ったものの、少しだけ寂しかった。
準備していた時間は長かった。
終わらないように思えた日もあった。
今日も朝からずっと人がいて、四人で絵を見て、話して、笑っていた。
それが終わった途端、急に時間だけが先へ進んだように感じる。
「楽しかったなあ」
「はい」
「疲れましたけどね」
「遥斗さん、そればっかり」
陽華が笑うと、遥斗も笑った。
けれど陽華と目が合いそうになると、また前へ視線を戻した。
ミオはその小さな動きを見ていた。
三人は『日常』の前を離れ、校舎を出た。
外へ出ても、いつもの放課後とは少し違った。
文化祭の名残はまだあちこちにあるのに、人の声だけが減っている。
陽華はふうと息を吐いた。
「ほんとに終わったんだね」
「長かったような、短かったような」
「準備してた時の方が長く感じたかも」
ミオが言うと、陽華は頷いた。
「描いてる時、なかなか終わらなかったもんね」
「時計とか」
「時計は悩みましたね」
遥斗も会話に入る。
三人で話しながら歩いていると、その感じだけなら以前にもあったように思えた。
玲奈と一緒に昼を食べるようになる前は、陽華と遥斗とミオの三人でいることの方が多かった。
夏休みに出かけたのも三人だった。
それなのに、今日は何かが違う。
「玲奈ちゃん、大丈夫かな」
「……大丈夫だと思います」
遥斗が答える。
また少し間があった。
「急に帰ることになっちゃったもんね」
「はい」
「また四人で打ち上げしようね」
遥斗の足がほんの少し遅くなった。
すぐに陽華の隣へ戻る。
「……そうですね」
陽華はその返事を聞いて、前を向いた。
やっぱり今日は疲れているのだろう。
玲奈もいなくなってしまったし、予定していた打ち上げまでなくなった。
文化祭が終わった寂しさもあるのかもしれない。
そう思えば、遥斗が少し静かなのも分かる気がした。
「次はどこ行くか、四人で決めないとね」
「また決まらなさそうですけど」
「それは言えてる」
陽華が笑う。
遥斗も笑った。
けれど陽華と目が合う前に、前へ視線を戻した。
ミオはその横顔を見た。
やはり、さっきまでとは違う。
理由は分からないままなのに、その違いだけは消えなかった。
三人の足音が並ぶ。
陽華はその音を聞きながら、ふと隣を見る。
遥斗がいて、その向こうにミオがいる。
見慣れた並びのはずだった。
(前は、これが普通だったんだよね)
春も夏も、三人で歩いた。
三人で食べて、三人で出かけた。
今も同じ三人がいる。
それなのに、玲奈がいないところだけが妙に空いているように感じる。
さっきまで人がいた展示の前と同じだった。
何かがなくなったあとに、そこだけ空間が残っている。
いつの間にか、四人でいる時間の方にも慣れていたらしい。
陽華は少しだけ後ろを振り返った。
もちろん玲奈の姿はない。
「今度は四人でね」
誰に言うでもなく口にすると、ミオが陽華を見る。
「はい」
少し遅れて、遥斗も答えた。
「……はい」
文化祭の後の静かな道を、三人で歩いていく。
人数だけなら、前と同じだった。
それでも、空いたところだけは前にはなかった。




