第45話『見ている先』
第45話『見ている先』
一般公開の始まった校舎には、いつもと違う声が響いていた。
廊下で立ち止まって展示の案内を確かめる人や、連れと話しながら作品を見ている人がいる。
陽華は三人と歩きながら、ついそちらへ目を向けてしまった。
昨日まで学生たちが準備していた場所を、今日は知らない人が歩いている。
「ほんとに人来てるね」
少し前を歩いていた玲奈が振り返った。
「思ってたよりいますね」
遥斗が人の流れを見ながら答えた。
「私たちの絵も見てくれるかな」
「行ってみようか」
陽華が言うと、玲奈が頷いた。
展示の並ぶ場所へ近づくにつれ、人の向こうに見慣れた駅前の絵が見えてくる。
その下には、昨日決めた『日常』の二文字があった。
もう少し近くまで行こうとしたところで、前を歩いていた二人連れが絵の前で足を止めた。
陽華も歩みを止め、隣の遥斗と少し横へ寄った。
玲奈が声を落とす。
「止まってくれた」
陽華は小さく頷いた。
絵を見ているつもりでも、目はすぐに二人の顔へ戻ってしまう。
どこを見ているのだろう。
何か言ってくれるだろうか。
ミオも隣で黙って絵の方を見ていた。
二人連れの一人が、銀色の時計へ指を向ける。
「この時計、あの駅のじゃない?」
「……ああ、ここで待ち合わせしたことあるね」
「そうそう」
もう一人も少し顔を近づけ、それから駅舎の方を見た。
二人が笑うのを見て、陽華の口元も緩んだ。
絵の前にいるのに、話しているのはあの駅で会った時のことだった。
四人で見に行った場所を、この人たちも知っている。
そんな当たり前のことが、今は少し不思議だった。
二人はキャプションにも目を落とし、もう一度絵を眺めてから次の展示へ歩いていった。
玲奈が陽華の方を向く。
「分かってくれたね」
「時計で気づいてましたね」
遥斗も絵を見ながら笑っていた。
陽華は、二人が立っていたところへ目を戻す。
「あそこで待ち合わせしてたんだって」
「聞こえた」
玲奈が嬉しそうに頷いた。
隣のミオも、絵を見たまま小さく笑っている。
見てもらったら何を言われるのか、さっきまではそればかり気にしていた。
あの駅でどんなふうに会ったのか、もう少し聞いていたかった気がした。
「ここにいると、ずっと人の顔見ちゃいそう」
陽華が言うと、玲奈が笑った。
「分かる」
「見てる人も落ち着かないですよね」
「遥斗さんも見てたじゃん」
「見てましたけど」
遥斗が少し困ったように笑う。
玲奈もまた絵の方を見てから、周りの展示へ視線を移した。
「私たちも見て回ろうよ」
「そうだね」
陽華は頷いた。
さっきの二人は少し先で、別の作品の前に立っている。
その横を通る時、何となくもう一度顔を見てしまい、それから陽華も次の絵へ目を向けた。
横向きの人物を描いた一枚の前で、玲奈が足を止めた。
椅子へ浅く腰掛けた人の膝に、片手が置かれている。
陽華が顔の方を見ている間に、玲奈はその手へ少し顔を寄せていた。
「この手、いいなあ」
「力抜けてますね」
「こういうの、私が描くと握りしめちゃうんだよね」
「俺も指を一本ずつ見てるうちに固くなります」
「そう、それ」
玲奈が自分の手をゆるく開いて、絵と見比べる。
遥斗まで自分の指を見始めたので、陽華は少し笑った。
「二人とも、ここで練習してる」
「今なら描ける気がするんだけどなあ」
玲奈はもう一度絵を見てから、開いていた手を下ろした。
その隣でミオも手の辺りを眺めている。
陽華は顔から腕へ目を移し、さっきは気に留めなかった指の曲がり方を見た。
話を聞いてから見ると、そこだけでもしばらく見ていられそうだった。
そのあとも、一枚見るたびに誰かが気になったところを口にした。
陽華も見終えたつもりの絵へ呼び戻され、今度は少し離れた場所から眺め直した。
深い青や緑を重ねた絵の前で、ミオの足が止まった。
片側に薄い橙色がのぞいている。
近くで見てから少し下がり、またゆっくり近づいていく。
玲奈が横から覗き込んだ。
「ミオちゃん、それ気に入った?」
「はい」
「ずっと見てるね」
「もう少し見たいです」
陽華もミオの隣へ立った。
遠くからは暗い絵に見えたのに、近づくと青の間に細かな色が残っている。
薄い橙色も、一色で塗られているわけではなさそうだった。
「ミオちゃん、ここって何色が入ってるんだろう」
「近くで見ても、よく分からないです」
「重ねてるのかな」
「たぶん」
ミオが少し首を傾けた。
陽華も、さっき見えた明るさを探して絵の中へ目を戻す。
もう少し離れて見た方が分かるだろうか。
そう思って一歩下がった時、玲奈が遥斗へ声をかけた。
「遥斗さん、あっちにも人物画あるよ」
「どれですか?」
「ほら、何枚か並んでるところ」
玲奈の指した先にも、人の姿を描いた作品が見えた。
遥斗がそちらへ顔を向ける。
「あれもちょっと見に行かない?」
玲奈の声が弾んでいた。
さっき手の話をしていた時も、楽しそうに遥斗へ話しかけていた。
自分もまだこの絵を見ていたいし、二人は話しながら先を見てきてもよさそうだった。
「二人で回ってきたら?」
玲奈が陽華を見た。
「え、二人で?」
「うん」
玲奈が遥斗の方を向く。
遥斗はすぐには動かず、一度陽華を見た。
「陽華さんは?」
「私もこの絵、もう少し見てたいから、ミオちゃんとここにいるよ」
陽華が答えると、遥斗は絵の方へ目をやってから頷いた。
玲奈がもう一度遥斗へ顔を向ける。
「じゃあ、行ってみようよ」
「そうですね」
遥斗が答えると、玲奈が陽華たちへ手を振った。
「じゃあ、またあとでね」
「うん」
陽華も手を上げた。
ミオも絵から顔を上げ、小さく頷く。
玲奈と遥斗が並んで歩き出す。
少し先で玲奈が何かを指し、遥斗がそちらへ顔を向けた。
二人が話しているのは分かったけれど、言葉までは聞き取れなかった。
陽華はその背中を見送ってから、目の前の絵へ向き直った。
さっきまで気になっていた青に、すぐには目が戻らなかった。
(四人で回るつもりだったんだ)
誰かが見つけたものを一緒に見て、話して、それから次へ行く。
一緒に回ろうと約束したわけでもないのに、今日も何となく、そのつもりでいた。
「陽華さん」
隣から呼ばれ、陽華は顔を向けた。
ミオの目はもう絵へ戻っている。
「どこが一番明るく見えますか?」
「この辺かな」
陽華は、青の間に薄い色が重なっているところを指した。
ミオが一歩下がり、同じ場所から見る。
「そこ、あまり白くないんですよね」
「もっと白いのかと思ってた」
「私もです」
陽華は絵の端まで目を動かし、もう一度その場所へ戻した。
周りにある青も、近くで見ていた時より深く見える。
「もうちょっと離れてみようか」
「はい」
二人で少し後ろへ下がった。
さっきまで近くで追っていた色が、また違う明るさに見えた。
陽華はミオと並び直し、気になっていた色の重なりをもう一度眺めた。




