第37話『分かってるよ』
第37話『分かってるよ』
バイトを終えて家へ帰ると、母はまだ起きていた。
遥斗が居間へ入ると、母が台所から顔を出す。
「おかえり」
「ただいま」
「ご飯、温めるね」
「うん。ありがとう」
遥斗は鞄を置いて椅子に座った。
父も居間にいて、テレビを見ながらまだ起きていた。
商社で部長をしている父は、遥斗が帰ったことに気づくと一度だけこちらを見る。
「遅かったな」
「バイトだから」
「学校からそのままか」
「うん」
母が温めた夕食を運んでくる。
遥斗は箸を持ち、ようやく少し肩の力を抜いた。
「学校はどう?」
母に聞かれ、遥斗は食べながら答える。
「普通だよ」
「普通って、ちゃんとやってるの?」
「やってるよ」
「文化祭もあるんでしょ?」
「ある。今、四人で一枚描いてる」
「へえ。楽しそうね」
「まあね」
母は少し笑った。
父はテレビから目を離さないまま口を開く。
「課題とは別なのか」
「別。出したい人が出すやつ」
「そうか」
それだけ言って、またテレビを見る。
遥斗も食事へ戻った。
少しして、母が思い出したように言う。
「そういえば、もうすぐ誕生日ね」
「ああ」
「何か食べたいものある?」
「別に何でもいいよ」
「そう言うと思った」
母が笑う。
その横で、父が遥斗を見る。
「二十七か」
「……うん」
さっきまでと同じ声だった。
それなのに、遥斗は次に何を言われるのか何となく分かった。
「もう二十七になるんだな」
「そうだよ」
父は少し黙った。
遥斗はそのまま箸を動かす。
「学校は、本当に順調なんだろうな」
「ちゃんとやってるって」
「ちゃんと、だけじゃ分からん」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
思ったより強い声が出た。
母が二人を見る。
父は少し眉を寄せたが、声を荒らげることはなかった。
「前に話したことは覚えてるな」
遥斗の箸が止まった。
「……分かってるよ」
「何が分かってる」
「今回が最後だって話だろ」
父は何も言わなかった。
遥斗は箸を置く。
「忘れてないよ」
「ならいい」
「だったら何なんだよ」
父は少し黙った。
「お前が学校を卒業する頃には二十八だ」
「分かってる」
「俺は最初から、会社に入って安定して働いてほしかった」
「それも知ってるよ」
「それでもお前が譲らなかったから、今回までは好きなようにやればいいと認めた」
遥斗は父を見た。
専門学校へ行きたいと話した時のことは覚えている。
何度話しても父は首を縦に振らず、それでも自分も引かなかった。
最後に出てきたのが、今回を最後にするという話だった。
「この二年間で、この道でやっていけるってものを見せる」
「そういう話だったはずだ」
「だから分かってるって」
遥斗の声がまた少し強くなる。
「何回も言わなくても分かってるよ」
「本当に分かってるなら、その先のことも考えておけ」
「その先?」
「もし駄目だった時のことだ」
遥斗は黙った。
父は続ける。
「俺にも仕事の付き合いはある」
「話をできるところくらいは探せる」
「……何それ」
「何って、就職の話だ」
「もうそこまで決めてるのかよ」
「決めてはいない」
「同じだろ」
遥斗は父から視線を外した。
「俺が失敗する前提で話してるじゃん」
「違う」
「何が違うんだよ」
「お前がこの道でやっていけるなら、それが一番いい」
遥斗は父を見る。
「俺だって、お前が失敗すればいいと思ってるわけじゃない」
「だったら」
「だからこそ、駄目だった時に何もない状態だけはやめろと言ってるんだ」
言い返そうとして、遥斗は口を閉じた。
父の言っていることが全部間違っているわけではない。
それが余計に腹立たしかった。
「俺はまだ学校に入ったばっかりだよ」
「分かってる」
「だったら今から失敗した後の話なんかしなくていいだろ」
「今だから考えておくんだ」
「分かってるって言ってるだろ」
今度ははっきり声が大きくなった。
「二人とも、もういいでしょう」
母の声が間に入った。
「あなたも、遥斗が帰ってきたばっかりなのに」
「……」
「遥斗も、ご飯冷めるわよ」
父はしばらく遥斗を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
テレビのリモコンを取り、電源を切る。
「俺は先に寝る」
「うん。おやすみ」
「……おやすみ」
遥斗は答えなかった。
父が居間を出ていく。
扉が閉まると、母が小さく息を吐いた。
「もう」
「俺から言ったんじゃないよ」
「分かってるわよ」
母は父が出ていった方を見る。
「お父さんも、誕生日が近いから色々考えたんじゃない?」
「だからって今言わなくてもいいだろ」
「そうね」
母はそれ以上父をかばわなかった。
「でも、心配してるのよ」
「……分かってる」
さっき父に返した時より、小さな声になった。
「心配してるのも分かってるし、言ってることも分かってる」
「うん」
「分かってるから嫌なんだよ」
母は少しだけ笑った。
「それはお父さんには言わないのね」
「言ったらまた始まるから」
「それもそうね」
遥斗も少しだけ笑った。
止まっていた箸をもう一度動かす。
母は向かいに座ったまま、食べ終わるのを待っていた。
◇
自分の部屋へ戻り、遥斗は鞄を机の横へ置いた。
中には学校で使った筆記用具やスケッチブックが入っている。
今日、四人で囲んでいた大きな紙を思い出す。
最初は真っ白だった紙にも、今は少しずつ線が増えている。
誰が引いたのか分からなくなった線まであった。
学校にいる間は、父との約束を考えていたわけではなかった。
課題をやって、絵を描いて、陽華たちと話して、時間になればバイトへ行く。
そんな毎日の中に、あの約束はずっと残っていた。
忘れていたわけではない。
忘れられるはずもなかった。
もうすぐ二十七歳になる。
この学校を卒業する頃には二十八歳になる。
それも父に言われなくたって知っている。
遥斗は椅子へ座り、机の上へ腕を置いた。
父が何を心配しているのかも分かる。
もしこの二年間で何も残せなかったら、その先を考えなければいけないことも分かっている。
分かっている。
だからこそ、何度も言われたくなかった。
遥斗は鞄からスケッチブックを取り出した。
開くことはせず、そのまま机の上へ置く。
さっき自分が父に返した言葉が、まだ耳に残っていた。
「……分かってるよ」
今度は誰に聞かせるでもなく、小さく口にした。




