第36話『知らないこと』
第36話『知らないこと』
放課後、四人は本番用の紙を囲んでいた。
前に引いた薄い線はそのまま残っていて、駅も時計も人も、まだ形が決まりきっていない。
陽華は少し離れたところから紙を見た。
「ここの人、もう少し小さくてもいいかな」
「どれ?」
玲奈が陽華の隣へ来る。
陽華が指したのは、時計の近くに置いた人影だった。
「この人。ちょっと時計と同じくらい目に入る気がする」
玲奈も紙から少し離れた。
「ほんとだ。もうちょっと小さくしようかな」
「それならこっちも少し動かした方がよくないですか」
ミオが別の人影を指す。
「また?」
「近くなるので」
「ミオちゃん、結構見てるよね」
「見えてるだけです」
玲奈は笑いながら鉛筆を持った。
人影を一度消して、少し小さく描き直す。
その間に遥斗は駅の輪郭を見ていた。
「こっち、まだちょっと曲がって見えません?」
陽華もそちらへ視線を移す。
「どこ?」
「ここです」
遥斗が線の途中を指した。
「ほんとだ」
「直していいですか?」
「聞かなくてもいいんじゃない?」
陽華が言うと、遥斗が少し笑った。
「前より雑になってません?」
「違うよ。誰が描いたか分からなくなってきたから」
「それはありますね」
遥斗は線を薄く消し、引き直した。
玲奈がその向こうから紙を見る。
「そっちの方がいいかも」
「じゃあこれで」
四人で紙を囲むことにも、少しずつ慣れてきた。
誰かが描いている間、他の三人が待っているわけではない。
違う場所を見たり、資料を見返したり、気になったところを直したりする。
最初は一本の線を引くにも少し迷ったのに、今は手を伸ばすまでの時間が短くなっていた。
陽華も空いているところへ鉛筆を置く。
駅の横にある建物の輪郭を少しだけ直し、全体を見てから手を止めた。
「うん。前より見やすくなったかも」
「まだ薄いですけどね」
ミオが言う。
「下描きだからいいの」
「陽華さん、前はそれで止まってましたよ」
「ミオちゃん、それ今言う?」
玲奈が笑う。
遥斗も小さく笑いながら紙を見る。
「でも、前より進んでる感じしますよ」
「遥斗さんが言うと優しい」
「俺、普通のこと言っただけですよ」
「ほらミオちゃん」
「私は普通じゃないんですか」
「そういう意味じゃないよ」
また四人で笑った。
少しして、遥斗がスマートフォンを確認した。
「あ」
「どうしたの?」
陽華が聞く。
「そろそろ出ないと」
「今日バイト?」
「はい」
遥斗はもう一度時間を見てから、机の上の鉛筆を置いた。
「すみません。俺、先に帰ります」
「いいよ。今日は結構進んだし」
「続き、勝手に変えとくね」
玲奈が言う。
「そこは少し怖いですね」
「何それ」
「冗談です」
「遥斗さん最近それ多くない?」
陽華が笑う。
遥斗も鞄を持ちながら笑った。
「じゃあ、お先に失礼します」
「うん。バイト頑張って」
「頑張ってね」
「お疲れさまです」
「ありがとうございます。また」
遥斗が教室を出ていく。
扉が閉まると、玲奈がしばらくそちらを見ていた。
それから机へ向き直る。
「……そういえばさ」
「何?」
「遥斗さんの誕生日」
陽華は紙から玲奈へ目を移した。
「あ」
「そろそろちゃんと考えない?」
ミオも顔を上げる。
「前に四人で何かするって言ってましたね」
「そう。それ」
玲奈は椅子へ座り直した。
「言っただけで、何するか全然決まってないじゃん」
「確かに」
陽華も椅子を引いた。
文化祭のことばかり考えていて、誕生日の話はあれから進んでいなかった。
「ケーキは?」
玲奈が言う。
「前にも言ってたね」
「でも何が好きか聞けなかった」
「食べるとは言ってました」
ミオが言う。
「そうなんだよ。食べるのは分かったの」
玲奈が少し考える。
「でも何が一番好きなのか分かんない」
「嫌いなものもそんなにないって言ってたね」
「それも困るんだよね」
「何でもいいなら楽じゃないですか」
「ミオちゃん、誕生日だよ?」
「誕生日でも好きなものは好きだと思います」
「そうだけど」
陽華は二人のやり取りを聞きながら、あの日の昼休みを思い出した。
玲奈に聞かれて、遥斗は甘いものは普通に食べると言っていた。
ケーキも食べる。
嫌いなものもそんなにない。
そこまでは知っている。
けれど、その先になると急に何も浮かばなかった。
「遥斗さんって、何が好きなんだろうね」
陽華が言った。
玲奈がすぐに頷く。
「そう。それ」
「絵は描きます」
ミオが言う。
「それは知ってるよ」
「バイトもしてます」
「それも知ってる」
「二十六歳です」
「ミオちゃん、今そういう話じゃないから」
玲奈が笑う。
陽華も笑った。
けれど、考えてみると本当にそうだった。
一緒に昼食を食べる。
休みの日にも会った。
名前で呼ぶようになった。
今は同じ紙を四人で囲んでいる。
それなのに、誕生日に何をしたら遥斗が喜ぶのかと聞かれると、すぐには何も出てこない。
(知らないこと、まだいっぱいあるんだな)
遠いとは思わなかった。
むしろ前よりずっと近くなった気がしている。
だからこそ、知らないことがあるのが少し不思議だった。
「本人に聞けば早いですけど」
ミオが言った。
玲奈が首を振る。
「それじゃ全部ばれちゃうじゃん」
「何かすることはもう知ってますよ」
「そうだけど、何するかまでは内緒にしたいの」
「なるほど」
「ミオちゃん、そこ納得するんだ」
陽華が笑う。
玲奈は机の上へ腕を置いた。
「何か食べるのはありだよね」
「それはいいかも」
「あと、何か用意する?」
「プレゼントですか?」
「そこまで大げさじゃなくてもいいけど」
玲奈は少し考えてから続ける。
「何かあったら誕生日っぽいかなって」
陽華も考える。
食べるもの。
何か渡すもの。
場所。
考えれば考えるほど、決めるには遥斗のことをもう少し知りたい気がした。
「でも、急に色々聞いたら怪しまれない?」
「もう怪しまれてると思う」
玲奈が言った。
「前にあれだけ聞いてましたからね」
「ミオちゃんまで」
「事実です」
三人で笑った。
玲奈は少し考えてから、楽しそうに口元を上げた。
「じゃあ、ばれないように聞く?」
「どうやって?」
「それを考える」
「またそこから?」
陽華が言うと、玲奈が笑った。
「だって知らないんだもん」
机の上には、四人で描いている途中の一枚が広がっている。
その少し向こうに、さっきまで遥斗が使っていた場所が空いていた。
陽華はそこを見てから、もう一度紙へ視線を戻した。
四人でいることには、もう前ほど迷わなくなった。
それでも三人とも、遥斗について知らないことがまだある。
それを知ることまで、少し楽しそうに思えた。




