第28話『小さな一冊』
第28話『小さな一冊』
翌週の昼休み、陽華は学生ホールで食べ終えたパンの袋を畳んでいた。
隣の玲奈も飲み物の蓋を閉め、テーブルの端へ寄せている。
向かいでは遥斗が空になった袋をまとめ、その横のミオはまだ飲み物を手にしていた。
「錦さん、この前の小さいの、もう使ってる?」
玲奈が顔を向ける。
「クロッキー帳?」
「うん。どうかなって」
「使ってるよ。すぐ出せるから、今のところいい感じ」
「小さすぎない?」
「もうちょっと描きたいって時もあるけどね」
玲奈は両手で紙の幅を作ってみせた。
陽華も画材屋で並べた二冊を思い出す。
あの時は大きい方もよさそうに見えたけれど、持って歩くなら小さい方がいいと言っていた。
「何か描いた?」
「少しだけ」
「見てもいい?」
「いいよ」
玲奈は畳んだ袋を脇へ寄せてから、足元の鞄を開いた。
取り出されたのは、あの時一緒に選んだ一冊だった。
表紙を開き、陽華との間へ置く。
最初のページには、膝に大きな袋を抱えた人が座っていた。
顔よりも、袋を両腕で押さえているところに目が行く。
「荷物、多いね」
「でしょ。袋が膝からはみ出してて、落ちそうだったんだよ」
「抱えてないと駄目なんだ」
「うん。ずっとこうしてた」
玲奈が自分の前で腕を丸くする。
陽華はもう一度絵を見た。
言われてから見ると、袋を置く場所に困って座っているようにも見えた。
「どこで描いたの?」
「駅のベンチ。電車待ってる時」
「ああ。こういう時間に描いてるんだ」
「座れた時はね」
遥斗も手元の袋を置いた。
「俺も見ていいですか」
「うん」
玲奈が帳面を向かいの二人へ向け直す。
ミオも飲み物を置き、少し顔を寄せた。
「結構大きい袋ですね」
「足元に置けばよさそうなんだけどね」
「下に置きたくなかったんですかね」
「そうかも。何が入ってたかは分かんないけど」
陽華は隣から絵を眺めた。
袋の中身は描かれていない。
けれど三人の話を聞いていると、何を持っていたのか少し気になってきた。
玲奈が一枚めくる。
次のページには、立っている人の姿があった。
片方の脚は途中で線が途切れている。
「これは動かれちゃった」
「描いてる途中で?」
「うん。もうちょっとだったんだけど」
玲奈は紙の端を押さえながら笑った。
「あとから描き足したりはしないんですか」
遥斗が聞く。
「覚えてたら描くこともあるよ。でも、これはもう分かんなくなった」
「俺、ここまで描いてたら足も入れたくなりそうです」
「私も入れたかったんだけどね」
「間に合わないんだ」
「そう。最初に顔の方を見すぎた」
陽華にも覚えがあった。
授業なら時間までは座っていてもらえるけれど、駅にいる人はそうはいかない。
描き終わるのを待ってほしいと思っても、その人にはその人の用事がある。
「こういうの、多いの?」
「あるよ。開いて鉛筆出したら、もういなかったり」
「それ、この前も言ってたね」
「今度は描き始められたから、まだいい方」
玲奈が言うと、遥斗も笑った。
「ちょっと進みましたね」
「うん。次は足まで描きたい」
陽華もつられて笑う。
脚が途中で終わっている絵を、もう一度見た。
さっきは描き残したところが気になったけれど、今はその人が立ち去った時の玲奈の顔を想像してしまった。
「これは、手だけなんですね」
ミオが隣のページを見ていた。
小さな紙コップを持った手が描かれている。
「うん。この指が気になって」
「ここですか」
「そう。一本だけ浮いてたんだよね」
玲奈が紙の上を指す。
ミオはそこを少し近くから見た。
「持ちにくそうですね」
「私も思った。でも、ずっとそのままだった」
「自分では気にならないのかな」
陽華が言うと、玲奈は自分の手を見た。
「私も変な持ち方してるかもしれない」
「描かれたら分かるかもね」
「また肩上がっちゃうよ、松澤さん」
「私が描かれる方なんだ」
玲奈が笑った。
陽華も笑いながら肩を少し下げる。
あの時、普通に座っているつもりだった自分の姿は、まだよく覚えていた。
ミオが顔を上げ、遥斗も背もたれへ少し体を戻した。
玲奈は帳面をこちらへ向け直し、もう一枚めくる。
その先は白いままだった。
「あ、まだここまで」
「もう一回、最初の見てもいい?」
「うん」
玲奈が最初のページへ戻して渡してくれる。
陽華は両手で受け取り、膝に袋を抱えた人を見た。
店で見ていた時は、大きさや値段のことばかり話していた。
それが今は、開けば知らない人が座っている。
陽華が一緒にいなかった時にも、玲奈はこうして誰かを見つけて描いていたのだ。
「これ、どれくらいで描いたの?」
「何分だろう。あんまり時計見てなかった」
「電車、大丈夫だった?」
「来る前には閉じたよ」
「ならよかった」
「さすがに置いてかれたくないし」
隣で笑う声を聞きながら、陽華は次のページも開いた。
玲奈はそれを覗き込み、さっき話していた脚のところへ指を向ける。
「こっちは、帰ってから見たら胴も長かった」
「そう?」
「少し。だから余計、足が入らなかったのかも」
「ああ、紙の方にも?」
「うん。動かれなくても駄目だったかもしれない」
今度は陽華の方が先に笑ってしまった。
玲奈も笑い、二人でもう一度その絵を見る。
描けなかったところの話なのに、聞いていると、その場で描いていた時のことまで気になった。
◇
何枚かを行ったり来たりしているうちに、周りの席が空き始めた。
陽華も壁の時計へ顔を上げる。
教室へ戻る時間が近づいていた。
「ありがとう。面白かった」
帳面を閉じて返すと、玲奈が受け取った。
「まだ少なかったでしょ」
「でも、話も聞けたし」
「また何か描いておくね」
「うん。見せて」
答えてから、陽華は少し笑った。
「描けた時でいいから」
「分かってるよ」
玲奈が帳面を鞄へしまう。
陽華も食べ終えた袋をまとめ、椅子を引いた。
遥斗とミオも立ち上がり、四人で学生ホールを出る。
廊下で玲奈と別れる時、陽華はいつものように手を上げた。
「またね」
「うん。また」
玲奈がB組の方へ歩いていく。
陽華は遥斗とミオの隣へ戻り、教室へ向かった。
さっきの袋を抱えた人も、紙コップの手も、もうその人の顔を確かめることはできないのだろう。
それでも玲奈は、あの小さな一冊を開けば思い出せるのかもしれない。
今度見せてもらう時も、描いていた時の話を聞きたい。
陽華はそう思いながら、二人と一緒に階段を上がった。




